淤宇宿禰

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名前
  • 淤宇宿禰【日本書紀】(おうすくね)
  • 淤宇【日本書紀】(おう)
  • 游宇宿禰【先代旧事本紀】
キーワード
  • 出雲臣(いずものおみ)之祖【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】
  • 出雲臣祖【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】
生年月日
( ~ 応神天皇41年2月30日)
没年月日
(応神天皇41年2月15日 ~ )
出来事
  • 応神天皇41年2月(15日 ~ 30日)

    応神天皇が崩じると、額田大中彦皇子(やまと)屯田(みた)屯倉(みやけ)を支配しようとして、その屯田の司の淤宇宿禰に「この屯田はもとより山守の地である。これからは私が治める。お前が司ることはない」と言った。
    淤宇宿禰は太子菟道稚郎子に報告した。
    太子は「大鷦鷯尊に申し上げよ」と言った。
    それで淤宇宿禰は大鷦鷯尊に「私がお預かりしていた屯田は、大中彦皇子が妨げられて治めることが出来ません」と言った。
    大鷦鷯尊倭直(やまとのあたい)の祖麻呂祖麻呂という名の可能性もある。に「倭の屯田はもとより山守の地というが、これはどうか」と尋ねると、「私は存じ上げませんが、弟の吾子籠が存じ上げております」と答えた。

    この時、吾子籠韓国(からくに)に遣わされていて、まだ帰還していなかった。
    そこで大鷦鷯尊が淤宇に言うには「お前は自ら韓国に行って、吾子籠を連れてきなさい。昼夜兼行で急ぐように」と。
    そして淡路の海人八十人を水手とした。
    淤宇は韓国に行って吾子籠を連れて帰った。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】