名前
  • 漢風諡号:允恭天皇(いんぎょうてんのう, いんぎょうてんわう)
  • 和風諡号:雄朝津間稚子宿禰天皇【日本書紀】(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと, をあさつまわくすくね
  • 男淺津間若子宿禰命【古事記】(おあさづまわくごのすくねのみこと, をあさづまわくすくね)男浅津間若子宿禰命
  • 雄朝津間稚子宿禰皇子【日本書紀】(おあさつまわくごのすくねのみこ, をあさつまわくすくね
  • 雄朝津間稚子宿禰尊【先代旧事本紀】(おあさつまわくごのすくねのみこと, をあさつまわくすくね
  • 雄朝嬬稚子宿禰尊【先代旧事本紀】(おあさつまわくごのすくねのみこと, をあさつまわくすくね
  • 雄朝嬬稚子宿禰皇子【先代旧事本紀】(おあさつまわくごのすくねのみこ, をあさつまわくすくね
  • 雄朝嬬稚子宿禰天皇【先代旧事本紀】(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと, をあさつまわくすくね
  • 雄朝姪稚子宿禰天皇校異【先代旧事本紀】
  • 遠飛鳥宮御宇天皇【先代旧事本紀】(とおつあすかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, ほつあすかやにあしたしししす
生年月日
仁徳天皇61年
没年月日
允恭天皇42年1月14日
  • 仁徳天皇にんとくてんのう【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】
  • 磐之媛命いわのひめのみこと【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】
先祖
  1. 仁徳天皇
    1. 応神天皇
      1. 仲哀天皇
      2. 神功皇后
    2. 仲姫命
      1. 品陀真若王
      2. 金田屋野姫命
  2. 磐之媛命
    1. 葛城襲津彦
      1. 建内宿禰
      2. 葛比売
    2. unknown
配偶者
  • 皇后:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
  • 皇子:木梨軽皇子きなしのかるのみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【母:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと
  • 皇女:名形大娘皇女ながたのおおいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【母:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと
  • 皇子:境黒彦皇子さかいのくろひこのみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【母:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと
  • 皇子第二子。あるいは第三子ともいう。:穴穂皇子あなほのみこ安康天皇あんこうてんのう【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【母:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと
  • 皇女:軽大娘皇女かるのおおいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【母:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと
  • 皇子:八釣白彦皇子やつりのしろひこのみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【母:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと
  • 皇子第五子:大泊瀬皇子おおはつせのみこ雄略天皇ゆうりゃくてんのう【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【母:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと
  • 皇女:但馬橘大娘皇女たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【母:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと
  • 皇女:酒見皇女さかみのひめみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【母:忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと
  • 磐城王いわきのみこ【母:不明】
子孫
  1. 木梨軽皇子
  2. 名形大娘皇女
  3. 境黒彦皇子
  4. 安康天皇
  5. 軽大娘皇女
  6. 八釣白彦皇子
  7. 雄略天皇
    1. 清寧天皇
    2. 稚足姫皇女
    3. 磐城皇子
    4. 星川稚宮皇子
    5. 春日大娘皇女
      1. 高橋大娘皇女
      2. 朝嬬皇女
      3. 手白香皇女
      4. 樟氷皇女
      5. 橘仲皇女
      6. 武烈天皇
      7. 真稚皇女
  8. 但馬橘大娘皇女
  9. 酒見皇女
  10. 磐城王
    1. 丘稚子王
      1. 難波小野王
称号・栄典とても広〜い意味です。
出来事
  • 仁徳天皇61年崩御記事の年齢から推測。【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年正月戊子条】

    仁徳天皇の皇子として生まれる。母は磐之媛命

    幼いころから総角(あげまき)に結うに至るまで、慈しみ深く控えめであった。
    壮年に至って重い病を患い、動作に不便があった。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条, 日本書紀 巻第十三 允恭天皇即位前紀】
  • 仁徳天皇87年1月16日仁徳記では丁卯年八月十五日。

    仁徳天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇八十七年正月癸卯条】
  • 反正天皇5年1月23日反正記では丁丑年七月。

    反正天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十二 反正天皇五年正月丙午条】
  • 反正天皇5年1月(23日 ~ 30日)

    群卿らが相談して言うには「まさに今、大鷦鷯天皇仁徳天皇の御子は雄朝津間稚子宿禰皇子後の允恭天皇。大草香皇子がいらっしゃいますが、雄朝津間稚子宿禰皇子は年長で情深い心でいらっしゃる」と。
    そこで吉曰を選び、跪いて天皇の御璽を奉った。

    雄朝津間稚子宿禰皇子が言うには「私の不幸は、久しく重い病にかかって歩くことさえ不便なことである。また病を除くために誰にも申さずに密かに荒療治もしてみたが、癒えることはなかった。そのことを先皇はお責めになられて『お前は病を患っているとはいえ、勝手に身を痛めた。不孝この上ない。長く生きたとしても、天業を継ぐことは出来ないであろう』とおっしゃられた。また我が兄である二人の天皇履中天皇・反正天皇。は、私は愚かであると軽んじられた。群卿も知っていることである。天下は大器であり、帝位は大業である。また民の父母となることは、すなわち聖賢の職である。どうして愚か者に堪えられようか。ほかに賢い王を選んで立てなさい。自分は適当ではない」と。
    群臣が再拝して言うには「帝位は久しく空しくしてはなりません。天命は譲り拒むことがあってはなりません。いま大王が時に逆らい、位を正しくなさらなければ、我らは人民の望みが絶えることを恐れます。願わくは大王が労しいとお思いでも、天皇の位におつき下さい」と。
    雄朝津間稚子宿禰皇子は「宗廟社稷を任されることは重大なことである。自分は重い病なので位につくことは出来ない」と言って、猶も辞して聞き入れなかった。
    そこで群臣皆が固く請うには「私たちが考えるには、大王が皇祖の宗廟を奉られることが最も適当でございます。天下万民も皆思いは同じでございます。どうか大王お聞き入れ下さい」と。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇即位前紀 反正天皇五年正月条】
  • 允恭天皇元年12月

    妃の忍坂大中姫命は、群臣が憂え惑ってることを心配して、自ら洗手水(おおてみず)をとって皇子の前に進んだ。
    そして「大王は辞退なさって即位されません。空位のまま既に年月が経ちました。群臣百寮は憂えて為す術を知りません。願わくは大王が人々の望みに従って、無理にでも帝位におつき頂きたく存じます」と言った。
    しかし皇子は聞き入れようとせずに、背を向けて物を言わなかった。

    大中姫命は畏まり、退くことをせずに侍ること四、五剋一時間あまり。が経った。
    この時まさに冬の季節。風も激しく寒かった。
    大中姫が捧げていた鋺の水が溢れて腕に凍った。
    寒さに堪えられず、まさに死なんとする時、皇子は驚いて顧みた。
    そして助け起こして言うには「嗣位(ひつぎのくらい)は重い事である。容易く就くことは出来ない。それで今まで従うことはなかった。しかし群臣が請うことも道理に適っている。断り続けることも出来ない」と。
    大中姫命は仰ぎ喜んで群卿に「皇子は群臣の請いをお許しになりました。今すぐに天皇の璽符を奉りなさい」と言った。
    群臣は大いに喜んで、その日に天皇の璽符を捧げて再拝した。
    皇子は「群卿は天下の為に私に請うた。私も辞退し続けることはで出来ない」と言って帝位についた。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇元年十二月条】
    • 遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)にて天下を治めた。

      天皇が皇位を継承するときに、天皇が辞退して言うには「私には長い病がある。皇位を継ぐことは出来ない」と。
      しかし大后をはじめとして、高官らが強く申し出たため、天下を治めることにした。

      【古事記 下巻 允恭天皇段】
  • 允恭天皇2年2月14日

    忍坂大中姫を立てて皇后とする。

    この日、皇后のために刑部(おしさかべ)を定めた。

    皇后が生んだのは
    木梨軽皇子
    名形大娘皇女
    境黒彦皇子
    穴穂天皇安康天皇
    軽大娘皇女
    八釣白彦皇子
    大泊瀬稚武天皇雄略天皇
    但馬橘大娘皇女
    酒見皇女

    皇后がまだ母と一緒に暮らしていた頃、ひとり苑の中で遊んでいた。
    時に闘鶏国造がそばの道を通った。
    馬に乗って垣根越しに皇后を嘲って「お前にうまく園を作れるのか。お前は誰だ」と言った。また「おい、そこの(あららぎ)ノビルの古名。を一本よこせ」と言った。
    皇后は一本の蘭を採って、馬に乗る者に与えた。
    そして「何のために蘭をお求めになるのですか」と問うと、馬に乗る者は「山に行くとき(まぐなき)蠛。此云摩愚那岐。糠蚊の一種。を追い払うためだ」と答えた。
    皇后は心の中で馬に乗る者の言葉の無礼を心に留めて「お前、私は忘れないよ」と言った。

    この後、皇后に立てられた年に馬に乗って蘭を求めた者を探して、昔日の罪を責めて殺そうとした。
    蘭を求めた者は叩頭して「私の罪は万死に値します。しかしその日は貴い方とは知らなかったのでございます」と言った。
    そこで皇后は死刑を赦して、その(かばね)を貶めて稲置(いなき)とした。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
  • 允恭天皇3年1月1日

    使いを遣わして良い医者を新羅に求めた。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇三年正月辛酉朔条】
  • 允恭天皇3年8月

    医者が新羅からやって来た。
    そこでその日に天皇の病を治療させると、幾ばくも経たずに病は癒えた。
    天皇は喜んで厚く恩賞を賜って医者を国に帰らせた。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇三年八月条】
    • 新良(しらぎ)の国主は、御調(みつぎ)の船八十一艘を献上した。
      御調の大使の名を金波鎮漢紀武という。この人は薬の処方を深く知っていた。それで天皇の病を治療した。

      【古事記 下巻 允恭天皇段】
  • 允恭天皇4年9月9日

    詔して「上古の治世では人民も所を得て、姓名の誤りも無かった。いま朕が践祚して四年になるが、上下相争って人民は安らかではない。あるいは誤って自分の姓を失うこともある。あるいは故意に高い氏を自称する者もいる。よく治まらないのはこれによるのであろう。朕は賢くないとはいえ、どうして誤りを正さずにいられようか。群臣は議定して上奏するように」と。
    群臣一同が言うには「陛下が過ちを挙げ、不正を正し、氏姓をお定めになれば、私たちは死ぬ覚悟でお仕え致します」と。
    これを許可した。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四年九月己丑条】
  • 允恭天皇4年9月28日

    詔して「群卿・百寮及び諸々の国造ら皆が『あるいは帝皇の末裔、あるいは天降ってきた』という。しかし天地人が分かれて以来、万年を経て、一つの氏から万の姓が生まれて、その真実を知ることは難しい。そこで諸々の氏姓の人たちは斎戒沐浴して、それぞれ盟神探湯(くかたち)盟神探湯。此云區訶陀智。神に誓い、手を熱湯に入れて、爛れたものを邪とする神明裁判。ここでは「泥を釜に入れて煮沸かして、手で湯の泥を探る。あるいは斧を火の色に焼いて掌に置く」とある。をせよ」と。
    そこで味橿丘(うまかしのおか)辞禍戸𥑐(ことのまがへのさき)探湯瓮(くかへ)盟神探湯に使う湯を沸かす釜。を据えて、諸人を行かせると「実を得れば全うし、偽れば必ず害する」と告げた。
    ここに諸人はそれぞれ木綿襷(ゆうたすき)ゆうで作った神聖な襷。をかけて、釜に赴いて探湯をした。
    すると真実である者は何事も起こらず、真実でない者は皆傷ついた。
    これによって詐称していた者は愕然として退き、進むことは無かった。

    この後、氏姓は自ずから定まり、偽る人は無くなった。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四年九月戊申条】
    • 天皇は氏名を持つ人々の氏姓に誤りがあることを憂えて、味白檮(あまかし)言八十禍津日前(ことやそまがつひのさき)玖訶瓮(くかべ)盟神探湯(くかたち)の釜。を据えて、天下の文武百官の氏姓を定めた。

      【古事記 下巻 允恭天皇段】
  • 允恭天皇5年7月14日

    地震があった。

    これより先、葛城襲津彦雄略天皇七年是歳条では子とする。または同名異人か。玉田宿禰に命じて、瑞歯別天皇反正天皇の殯を任じた。
    その地震の夜に尾張連吾襲を遣わして、殯宮の消息を観察させた。

    このとき諸人は欠けることなく皆が集まっていたが、ただ玉田宿禰だけがいなかった。
    吾襲は「殯宮大夫玉田宿禰が殯宮にいません」と上奏した。
    また吾襲葛城(かずらき)に遣わして、玉田宿禰を探させた。

    この日、玉田宿禰は男女を集めて酒宴をしていた。
    吾襲は状況を玉田宿禰に告げた。
    宿禰は問題になる事を恐れて、馬一匹を吾襲に授けて賂とし、密かに吾襲を待ち受けて殺した。
    そして武内宿禰の墓地に逃げ隠れた。

    天皇はこれを聞いて玉田宿禰を呼び寄せた。
    玉田宿禰は疑って、鎧を衣の内に着て参上した。鎧の端が衣の内から出ていた。
    天皇はその状況を明らかにするために、小墾田采女に命じて玉田宿禰に酒を賜った。
    采女は衣の内に鎧があることをはっきり見て天皇に報告した。
    天皇は武器を用意して殺そうとしたが、玉田宿禰は密かに逃げ出て家に隠れた。
    天皇は兵を使って玉田の家を囲み、捕えて殺した。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇五年七月己丑条】
  • 允恭天皇5年11月11日

    瑞歯別天皇反正天皇耳原陵(みみはらのみささぎ)に葬る。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇五年十一月甲申条】
  • 允恭天皇7年12月1日

    新室で宴をした。
    天皇自ら琴をひき、皇后は立って舞った。
    舞いが終っても礼事(いやごと)を言わなかった。
    当時の風俗では、宴会で舞う者が舞いが終ると、座長(くらのかみ)に「娘子を奉ります」といった。

    この時に天皇は皇后に「なぜ常の礼を失するのか」と言った。
    皇后は畏まり、また立って舞った。
    舞いが終わると「娘子を奉ります」と言った。
    天皇は皇后に「奉る娘子は誰であるか。名を知りたいと思う」と言った。
    皇后はやむを得ずに「私の妹で、名は弟姫といいます」と言った。
    弟姫は容姿絶妙で並ぶ者がいなかった。その麗しい体の色が衣を通して輝いていた。時の人は名付けて衣通郎姫といった。

    天皇の心は衣通郎姫に向いて、皇后に奉らせることを強いた。
    皇后はこうなることを知っていて礼事を言わなかった。
    天皇は歓喜して、翌日使者を遣わして弟姫を召した。

    弟姫は母に従って近江の坂田に居た。
    弟姫は皇后の心情を恐れて参上しなかった。
    また重ねて七度召しても、猶も固く辞して参上しなかった。
    天皇は悦ばず、また舎人の中臣烏賊津使主に勅して「皇后の奉る娘子の弟姫が呼んでもやって来ない。お前が行って弟姫を呼んできなさい。そうすれば必ず厚く恩賞を与えよう」と。

    烏賊津使主は命を受けて、(ほしい)急用に備える米。を身頃の中に入れて坂田に行った。
    そして弟姫の家の庭に伏して「天皇がお召しでいらっしゃいます」と言った。
    弟姫は「どうして天皇のお言葉を畏んでお受けしないことがございましょうか。ただ皇后のお心を傷付けたくないのです。私は死んでも参りません」と答えた。
    烏賊津使主は「私は既に天皇の命を承り、必ずお連れしなければなりません、もしお連れできなければ必ず罪となるでしょう。それで帰って極刑となるよりは、むしろ庭に伏して死ぬのみです」と言った。
    そして七日間、庭の中に伏して、食物を与えられても食べず、密かに懐の中の糒を食べた。
    そこで弟姫は皇后の嫉妬を理由に天皇の命を拒み、また君の忠臣を失えば自分の罪となると思った。
    それで烏賊津使主に従ってやって来た。

    (やまと)春日(かすが)に至り、檪井(いちいい)のそばで食事をとった。
    弟姫は自ら酒を使主に与えてその心を慰めた。
    使主はその日に(みやこ)に至り、弟姫倭直吾子籠の家に留めて天皇に復命した。
    天皇は大いに喜んで烏賊津使主を褒めて厚く遇した。
    しかし皇后の心中は穏やかではなく、宮中に近づけることはなかった。
    そして別に殿舎を藤原にたてて住まわせた。

    大泊瀬天皇雄略天皇を産んだ夜、天皇がはじめて藤原宮(ふじわらのみや)に行幸した。
    皇后がこれを聞いて恨んで言うには「私は初めて髪を結い上げて後宮に侍り、すでに多くの年月が経ちました。いま私が出産して死生の境にあるのに、どうして今夜藤原にお出でになられるのですか」と。
    そして自ら産殿を焼いて死のうとした。
    天皇は大いに驚いて「朕の過ちであった」と言うと、皇后の心を慰めて機嫌を取った。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇七年十二月壬戌朔条】
  • 允恭天皇8年2月校異:允恭天皇8年3月

    藤原に行幸した。
    密かに衣通郎姫の様子を伺った。

    この夜、衣通郎姫は天皇を独り偲んでいた。
    そして天皇が来ていることを知らずに歌を詠んだ。

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    天皇はこの歌を聞き、感動して歌を詠んだ。

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    翌朝、天皇は井戸のそばの桜の花を見て歌を詠んだ。

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    皇后はこれを聞いて、また大いに恨んだ。

    衣通郎姫が言うには「私も常に王宮(おおみや)に近づいて、昼夜ともに陛下のお姿を拝見したいと存じます。しかし皇后は私の姉でございます。私のせいで陛下を恨んでおります。また私のせいで苦んでおります。願わくは王居を離れて遠くに住みたいと存じます。皇后のお心も少しは休まるのではないでしょうか」と。
    天皇はただちに宮室を河内の茅渟に造って衣通郎姫を住まわせた。
    これにより、しばしば日根野(ひねの)で遊猟するようになった。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇八年二月条】
  • 允恭天皇9年2月

    茅渟宮(ちぬのみや)に行幸する。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇九年二月条】
  • 允恭天皇9年8月

    茅渟に行幸する。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇九年八月条】
  • 允恭天皇9年10月

    茅渟に行幸する。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇九年十月条】
  • 允恭天皇10年1月

    茅渟に行幸する。

    皇后が言うには「私は毛の末ほども弟姫を嫉んではおりません。しかし陛下がしばしば茅渟にお出でになられることを恐れるのでございます。これは人民の苦しみにならないでございましょうか。願わくは、お出ましの数を減らして頂きたいと存じます」と。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇十年正月条】
  • 允恭天皇11年3月4日

    茅渟宮に行幸する。

    衣通郎姫は歌を詠んだ。

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    天皇が衣通郎姫に言うには「この歌を他人に聞かせてはならない。皇后か聞けば必ず大いに恨むであろう」と。
    それで時の人は浜藻を名付けて「なのりそも」という。

    これより先、衣通郎姫が藤原宮にいた時に、天皇が大伴室屋連に詔して「朕はこのごろ美しく麗わしい嬢子(おみな)を得た。これは皇后の妹である。朕は特別に愛しいと思う。願わくは、その名を後世に伝えたいと思うがどうであろう」と。
    室屋連が勅を受けて奏上したので許可した。
    即ち諸国の(みやつこ)らに命じて、衣通郎姫のために藤原部(ふじわらべ)を定めた。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇十一年三月丙午条】
  • 允恭天皇14年9月12日

    天皇は淡路島で猟をした。
    時に大鹿・猿・猪が山谷に入り乱れていた。炎が起つような、また蠅のようだった。
    しかし一日中一匹も獲られなかったので、猟をやめて占い、島の神が祟って言うには「獣を得られないのは、我が心による。赤石(あかし)の海の底に真珠がある。その珠を我に祠れば、すべての獣を得られる」と。
    そこで所々の海人を集めて赤石の海の底を探させた。
    しかし海は深く、底に至ることは出来なかった。

    ただ一人の海人がいて、男狭磯という。これは阿波国の長邑(ながむら)の海人である。
    諸々の海人より優れていた。腰に縄を繋げて海底に入った。
    しばらくすると出てきて、「海底に大蝮(おおあわび)があり、そのところが光っています」と言った。
    諸人皆が「島の神がお求めになる珠は、この蝮の腹の中にあるのではないか」と言った。
    また入って探り、男狭磯は大蝮を抱いて浮かび出てきた。そして息絶えて浪の上で死んだ。
    縄を下ろして海の深さを測ると六十尋(むそひろ)一尋は両手を左右に広げた長さ。あった。
    蝮を割ってみると本当に腹の中に真珠があった。その大きさは桃の実のようだった。
    それで島の神を祀って猟をすると多くの獣が獲れた。
    ただ男狭磯が海に入って死んだことを悲しんで墓を作って厚く葬った。
    その墓は今も存在する。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇十四年九月甲子条】
  • 允恭天皇23年3月7日

    木梨軽皇子を立てて太子とした。
    その容姿は佳麗で、見た者は自ずと感動した。
    同母妹の軽大娘皇女もまた妙艶であった。

    太子は常に大娘皇女と一緒になりたいと思っていたが、罪になることを恐れて黙っていた。
    しかし感情は燃え上がり、死ぬかというほどだった。
    そこで思うには「空しく死んでいくよりは、罪になろうとも忍ぶことは出来ない」と。
    遂に密かに通じた。鬱積した思いは少し和らいだ。
    それで歌を詠んだ。

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    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二十三年三月庚子条】
  • 允恭天皇24年6月

    御膳の(あつもの)の汁が氷った。
    天皇は怪しんで、そのもとを(うらな)わせた。
    卜者が言うには「内の乱れがございます。同母のご兄妹に相姦があるのではないでしょうか」と。

    時にある人が言うには「木梨軽太子と同母妹の軽大娘皇女が通じております」と。
    それで推問してみると事実だった。
    太子は儲君(もうけのきみ)天皇の世継ぎ。なので、罰することは出来なかった。
    そこで大娘皇女を伊予に流した。
    時に太子が歌を詠んだ。

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    また歌を詠んだ。

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    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二十四年六月条】
  • 允恭天皇42年1月14日

    崩じる。
    時に年八十一校異:年六十八。年若干。

    新羅王は天皇の崩御を聞くと、驚き悲しんで沢山の調(みつぎ)の船と多数の楽人を貢上した。
    この船は対馬に泊って大いに泣き悲しんだ。
    筑紫に至ってまた大いに泣き悲しんだ。
    難波津(なにわのつ)に泊ると皆が麻の白服を着た。
    すべての調を捧げ、また様々な楽器を備えて難波から京に至るまでに、あるいは大いに泣き悲しみ、あるいは歌を舞った。
    遂に殯宮(もがりのみや)に参会した。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年正月戊子条】
    • 天皇の御年七十八歳。
      甲午年正月十五日に崩じた。

      【古事記 下巻 允恭天皇段】
  • 允恭天皇42年10月10日

    河内長野原陵(かわちのながののはらのみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年十月己卯条】
    • 御陵は河内之恵賀長枝(かわちのえがのながえ)にある。

      【古事記 下巻 允恭天皇段】
  • 允恭天皇42年11月

    新羅の弔使らが喪礼を終えて還った。

    新羅人は(みやこ)のそばにある耳成山(みみなしやま)畝傍山(うねびやま)を愛した。
    琴引坂(ことひきのさか)に至り、振り返って「うねめはや。みみはや」と言った。
    これはこの国の言語を習っていないので、それで畝傍山を『うねめ』、耳成山を『みみ』と訛ったのである。

    時に(やまと)飼部(うまかいべ)が新羅人に従ってこれを聞いて疑った。新羅人は采女(うねめ)と通じたのかと。
    それで引き返して大泊瀬皇子後の雄略天皇。に報告した。
    皇子は新羅の使者を捕えて推問した。
    新羅の使者は「采女を犯すことはございません。ただ京のそばにある二つの山を愛でて言っただけでございます」と言った。
    すると誤りであったことが分かって皆許された。
    しかし新羅人は大いに恨み、貢ぎ物や船の数を減らすようになった。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年十一月条】