軽大娘皇女
- 名前
- 輕大娘皇女【日本書紀】(かるのおおいらつめのひめみこ, かるのおほいらつめのひめみこ)軽大娘皇女
- 輕大郞女【古事記】(かるのおおいらつめ, かるのおほいらつめ)軽大郎女
- 衣通郞女【古事記】(そとおりのいらつめ, そとほりのいらつめ, そとおしのいらつめ, そとほしのいらつめ)衣通郎女
- 衣通王【古事記】(そとおりのみこ, そとほりのみこ, そとおしのみこ, そとほしのみこ)
- 大娘皇女【日本書紀】(おおいらつめのひめみこ, おほいらつめのひめみこ)
- 性別
- 女性
- 生年月日
- ( ~ 允恭天皇23年3月7日)
- 没年月日
- (允恭天皇42年1月14日 ~ )
- 父
允恭天皇 【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
- 母
忍坂大中姫命 【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
- 先祖
- 出来事
-
允恭天皇23年3月7日
-
允恭天皇24年6月
御膳の
羹 の汁が氷った。
天皇は怪しんで、そのもとを卜 わせた。
卜者が言うには「内の乱れがございます。同母のご兄妹に相姦があるのではないでしょうか」と。時にある人が言うには「木梨軽太子と同母妹の軽大娘皇女が通じております」と。
それで推問してみると事実だった。
太子は儲君 天皇の世継ぎ。なので、罰することは出来なかった。
そこで大娘皇女を伊予に流した。
時に太子が歌を詠んだ。「
於 裒 企 彌 烏 志 摩 珥 波 夫 利 布 儺 阿 摩 利 異 餓 幣 利 去 牟 鋤 和 餓 哆 哆 瀰 由 梅 去 等 烏 許 曾 哆 多 瀰 等 異 絆 梅 和 餓 菟 摩 烏 由 梅 」また歌を詠んだ。
「
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二十四年六月条】阿 摩 儾 霧 箇 留 惋 等 賣 異 哆 儺 介 縻 臂 等 資 利 奴 陪 瀰 幡 舍 能 夜 摩 能 波 刀 能 資 哆 儺 企 邇 奈 勾 」 -
允恭天皇42年1月14日允恭記では甲午年正月十五日。
允恭天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年正月戊子条】 -
允恭天皇42年10月
【日本書紀 巻第十三 安康天皇即位前紀 允恭天皇四十二年十月条】-
天皇が崩じた後、皇位を継ぐことになっていた木梨之軽太子は、まだ即位をしない間に同母妹の軽大郎女と密通して歌を詠んだ。
「
阿 志 比 紀 能 夜 麻 陀 袁 豆 久 理 夜 麻 陀 加 美 斯 多 備 袁 和 志 勢 志 多 杼 比 爾 和 賀 登 布 伊 毛 袁 斯 多 那 岐 爾 和 賀 那 久 都 麻 袁 許 存 許 曾 婆 夜 須 久 波 陀 布 禮 」これは
志良宜歌 である。
また歌を詠んだ。「
佐 佐 婆 爾 宇 都 夜 阿 良 禮 能 多 志 陀 志 爾 韋 泥 弖 牟 能 知 波 比 登 波 加 由 登 母 宇 流 波 斯 登 佐 泥 斯 佐 泥 弖 婆 加 理 許 母 能 美 陀 禮 婆 美 陀 禮 佐 泥 斯 佐 泥 弖 婆 」これは
夷振 の上歌 である。このようなことがあって、百官や天下の人々は軽太子に背き、穴穂御子後の安康天皇。に帰服した。
それで軽太子は恐れて、大前小前宿禰大臣の家に逃げて武器を作って備えた。
この時に作った矢は、その箭の内が銅だった。それでその矢を名付けて軽箭 という。穴穂御子もまた武器を作った。
この王子の作った矢が、今の矢である。これを穴穂箭 という。穴穂御子は兵を起こして大前小前宿禰の家を囲んだ。
その門に着いたときに激しく氷雨が降った。そこで歌を詠んだ。「
意 富 麻 幣 袁 麻 幣 須 久 泥 賀 加 那 斗 加 宜 加 久 余 理 許 泥 阿 米 多 知 夜 米 牟 」
その大前小前宿禰は手を挙げ膝を打ち、舞い歌ってやって来た。
その歌にいう。「
美 夜 比 登 能 阿 由 比 能 古 須 受 淤 知 爾 岐 登 美 夜 比 登 登 余 牟 佐 斗 毘 登 母 由 米 」この歌を
宮人振 という。
このように歌いながらやって来て言うには「我が天皇の御子よ。同母兄の王に兵を差し向けてはなりません。もし兵をお差し向けなされば、必ずや世間に笑われるでしょう。私が捕えて奉ります」と。
そして兵を解いて退いた。こうして大前小前宿禰は軽太子を捕えて参上した。
その太子は捕えられながらも歌を詠んだ。「
阿 麻 陀 牟 加 流 乃 袁 登 賣 伊 多 那 加 婆 比 登 斯 理 奴 倍 志 波 佐 能 夜 麻 能 波 斗 能 斯 多 那 岐 爾 那 久 」また歌を詠んだ。
「
阿 麻 陀 牟 加 流 袁 登 賣 志 多 多 爾 母 余 理 泥 弖 登 富 禮 加 流 袁 登 賣 杼 母 」それでその軽太子は
伊余 伊予の湯に流された。
まさに流されようとするときに歌を詠んだ。「
阿 麻 登 夫 登 理 母 都 加 比 曾 多 豆 賀 泥 能 岐 許 延 牟 登 岐 波 和 賀 那 斗 波 佐 泥 」この三つの歌は
天田振 という。また歌を詠んだ。
「
意 富 岐 美 袁 斯 麻 爾 波 夫 良 婆 布 那 阿 麻 理 伊 賀 幣 理 許 牟 叙 和 賀 多 多 彌 由 米 許 登 袁 許 曾 多 多 美 登 伊 波 米 和 賀 都 麻 波 由 米 」この歌を
夷振之片下 という。その衣通王は歌を献じた。その歌にいう。
「
那 都 久 佐 能 阿 比 泥 能 波 麻 能 加 岐 賀 比 爾 阿 斯 布 麻 須 那 阿 加 斯 弖 杼 富 禮 」
それで後にまた恋い慕う思いに耐えられず、追っていく時に歌を詠んだ。「
岐 美 賀 由 岐 氣 那 賀 久 那 理 奴 夜 麻 多 豆 能 牟 加 閇 袁 由 加 牟 麻 都 爾 波 麻 多 士 」ここでいう山たずというのは、今の
造木 である。そこで追いついた時に待ち迎えて、懐かしんで歌を詠んだ。
「
許 母 理 久 能 波 都 世 能 夜 麻 能 意 富 袁 爾 波 波 多 波 理 陀 弖 佐 袁 袁 爾 波 波 多 波 理 陀 弖 意 富 袁 爾 斯 那 加 佐 陀 賣 流 淤 母 比 豆 麻 阿 波 禮 都 久 由 美 能 許 夜 流 許 夜 理 母 阿 豆 佐 由 美 多 弖 理 多 弖 理 母 能 知 母 登 理 美 流 意 母 比 豆 麻 阿 波 禮 」また歌を詠んだ。
「
許 母 理 久 能 波 都 勢 能 賀 波 能 加 美 都 勢 爾 伊 久 比 袁 宇 知 斯 毛 都 勢 爾 麻 久 比 袁 宇 知 伊 久 比 爾 波 加 賀 美 袁 加 氣 麻 久 比 爾 波 麻 多 麻 袁 加 氣 麻 多 麻 那 須 阿 賀 母 布 伊 毛 加 賀 美 那 須 阿 賀 母 布 都 麻 阿 理 登 伊 波 婆 許 曾 爾 『いはばこそよ』とする写本多くあり。伊 幣 爾 母 由 加 米 久 爾 袁 母 斯 怒 波 米 」このように歌って共に自ら死んだ。
【古事記 下巻 允恭天皇段】
この二つの歌は読歌 という。
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