秦酒公
- 名前
- 秦酒公【日本書紀】(はたのさけのきみ)
- 秦造酒【日本書紀】(はたのみやつこさけ)
- 酒公【古語拾遺】(さけのきみ)
- 氏(ウジ):秦【新撰姓氏録抄】(はた)
- 姓(カバネ):公【新撰姓氏録抄】(きみ)
- 名:酒【新撰姓氏録抄】(さけ)
- キーワード
- 後裔は右京
秦忌寸 ・右京秦人 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は右京
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 雄略天皇12年10月10日)
- 没年月日
- (雄略天皇15年1月1日 ~ )
- 父
普洞王 【新撰姓氏録抄 第三帙 第二十五巻 山城国諸蕃 漢 秦忌寸条】
- 先祖
- 出来事
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雄略天皇12年10月10日
雄略天皇は
木工 の闘鶏御田に命じて楼閣を造らせた。
御田は楼に登り、四面を走り回って飛ぶように働いた。
時に伊勢の采女が楼上を仰ぎ見てその疾走する姿に驚き、庭に倒れて捧げ物をひっくり返した。
天皇は御田がその采女を犯したと疑い、殺そうと思って刑吏に渡した。
この時に秦酒公は側に侍り、琴歌で天皇を悟らせようと思って琴を横にして弾き歌った。「
柯 武 柯 筮 能 伊 制 能 伊 制 能 奴 能 娑 柯 曳 嗚 伊 裒 甫 流 柯 枳 底 志 我 都 矩 屢 麻 泥 爾 飫 裒 枳 濔 爾 柯 拖 倶 都 柯 陪 麻 都 羅 武 騰 倭 我 伊 能 𦤶 謀 那 我 倶 母 鵝 騰 伊 比 志 拖 倶 彌 皤 夜 阿 拖 羅 陀 倶 彌 皤 夜 」天皇は琴歌で悟り、その罪を許した。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十二年十月壬午条】 -
雄略天皇15年
雄略天皇は
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十五年条】秦 の民を臣連らに分散して各々の願いのままに使わせた。
秦造 には委ねなかった。
これによって秦造酒は甚だ憂えつつも天皇に仕えていた。天皇は寵愛した。
詔して秦の民を集めて秦酒公に賜った。
公は多種多様の村主 本文は『百八十種勝』であり、ここでの『勝』の意は、『勝れた者』や、『太秦(うずまさ)の、まさ』、『村主(すぐり)』など諸説ある。を率いて、租税として絹・縑 上質な絹織物。を献じて朝庭に沢山積んだ。
それで姓を賜って禹豆麻佐 という。あるいは禹豆母利麻佐 というのは堆く積んだ姿である。-
秦氏を分けて他族に隷属させた。
秦酒公は寵愛を受けた。
詔して秦氏を集めて酒公に賜った。
そして百八十種の勝部 を率いて絹織物の調を献上させて庭中に積ませた。
これによって姓を賜って宇豆麻佐 とした。
これは積んだ様子が『埋 み益す』ということである。奉る絹・綿は肌に柔らかかった。それで秦の字を訓んで波陀 という。そして秦氏の奉る絹で神の剣の柄を巻いた。今の世も同じである。所謂秦の機織のもとである。これより後、諸国の貢物は毎年満ち溢れた。
【古語拾遺 雄略天皇段】
さらに大蔵 を立てて蘇我麻智宿禰に命じて斎蔵 ・内蔵 ・大蔵を検校させ、秦氏にその物を出納させ、東西文氏にその帳簿に記録させた。
ここに漢氏に姓を賜って内蔵・大蔵とする。
いま秦・漢二氏を内蔵・大蔵の主鎰 ・蔵部 とするのはこれがもとである。 -
(安康天皇3年11月13日 ~ 雄略天皇23年8月7日)
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(安康天皇3年11月13日 ~ 雄略天皇23年8月7日)
雄略天皇の御世に奏上して「普洞王の時に秦の民はすべて劫略されて今在る者は十に一つもございません。どうか勅使を遣わして招集頂きたいと存じます」と。
天皇は小子部雷を遣わし、大隅・阿多の隼人らを率いて集めさせ、秦の民九十二部、一万八千六百七十人を捜し出し、遂に酒に賜った。
ここに秦の民を率いて蚕を養い絹を織り、篚 に盛って参上した。
そして岳の如く山の如く朝庭に積んで天皇を喜ばせた。
特に籠命を降し、号を賜って禹都万佐 という。
これは満積して利益ある義であった。
諸々の秦氏を使って八丈の大蔵を宮の側に構え、その貢物を納めた。
それでその地を名付けて長谷朝倉宮 という。
この時に初めて大蔵官員 を置き、酒を長官とした。秦氏らの子孫は或いは居住に就き、或いは仕事により別れた。
【新撰姓氏録抄 第三帙 第二十五巻 山城国諸蕃 漢 秦忌寸条】
天平二十年、京畿 に在る者はみな改めて伊美吉 の姓を賜った。
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- 関連
- 三世祖:
功満王 【新撰姓氏録抄 第三帙 第二十三巻 右京諸蕃上 漢 秦忌寸条】
- 三世祖: