難波日鷹吉士

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名前
  • 難波日鷹吉士【日本書紀】(なにわのひたかのきし, なにはたかし)難波日鷹吉士
  • 日鷹吉士堅磐固安錢堅磐。此云柯陀之波。二人の名が混ざっているとして、『日鷹吉士と堅磐固安銭』『日鷹吉士堅磐と固安銭』などの説もある。また『日鷹吉士と堅磐と固安銭』の三人説もある。【日本書紀】(ひたかのきしかたしわこあんぜん, たかしかたしはあんぜん)日鷹吉士堅磐固安銭
  • 日鷹吉士雄略紀・仁賢紀・継体紀の日鷹吉士を一つのページにまとめたが、それぞれ別人物の可能性が十分にあるので注意されたし。【日本書紀】たかし)
生年月日
( ~ 雄略天皇7年12月30日)
没年月日
(継体天皇6年12月1日 ~ )
出来事
  • 雄略天皇7年

    雄略天皇の命令で、新羅討伐・百済での人材発掘の任を受けていた吉備海部赤尾らを復命させる。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年是歳条】
  • 雄略天皇9年2月1日

    雄略天皇から凡河内直香賜の殺害を命じられるが香賜は既に逃亡していた。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年二月甲子朔条】
  • 仁賢天皇6年9月4日

    仁賢天皇が日鷹吉士を高麗(こま)に遣わして巧手者(てひと)を召す。

    【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇六年九月壬子条】
  • 仁賢天皇6年9月(4日 ~ 29日)

    日鷹吉士が使者として遣わされた時、難波(なにわ)御津(みつ)に女人があり、哭いて言うには「(おも)にも()(あれ)にも()弱草(わかくさ)『弱草と言うのは、古に弱草を以って夫婦に喩えることをいう』とある。()(つま)はや」と。
    哭声は甚だ哀しく、人は腸を断つようだった。
    菱城邑(ひしきのむら)の人鹿父はこれを聞いて前に向って「何をそんなに哀しく哭いているのだ」と言うと、女人は答えて「秋葱(あきき)の二重のように思ってほしい」と。鹿父は「()承知したの意。」と言った。即ち言葉の意味を知ったのである。
    同伴者がいたが、その意味を知らずに「何を以って知ったのだ」と尋ねた。
    答えて「難波玉作部鯽魚女韓白水郎𤳉に嫁いで哭女を生んだ。哭女住道人山寸に嫁いで飽田女を生んだ。韓白水郎𤳉とその(むすめ)哭女は共に既に死んでいる。住道人山杵は先に玉作部鯽魚女を犯して麁寸が生まれている。麁寸飽田女を娶った。麁寸は日鷹吉士に従って高麗に向った。これによりその妻の飽田女は徘徊して思いを巡らしては、心を失い、心を傷めた。哭声はひどく切なかった。人は腸を断つような思いだったのだ」と。

    【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇六年是秋条】
  • 継体天皇6年12月

    百済が使いを遣わして朝貢した。

    別に上表文を奉って任那国の上哆唎(おこしたり)下哆唎(あろしたり)娑陀(さだ)牟婁(むろ)の四県を要請した。
    哆唎国守(たりのくにのみこともち)穂積臣押山が奏上して「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっております。朝夕通いやすく、鶏も犬も分け難いほどでございます。いま百済に賜って合わせて同じ国とすれば、保全の策としてこれに過ぎるものはございません。しかし国を合わせても後世に危うさは残ります。まして境界を異とすれば何年ともたないでしょう」と。
    大伴大連金村は詳しくこの言葉を聞いて意見を同じくした。
    物部大連麁鹿火を勅使とした。

    物部大連は難波の館に行って、百済の使いに勅令を伝えようとするときに、その妻が強く言うには「住吉大神は海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを胎中の誉田天皇応神天皇に授けました。それで大后気長足姫尊神功皇后と大臣武内宿禰が国毎に官家(みやけ)を置いて、海外の垣根としたのです。こうして久しく渡来するようになった由来があります。もし割いて賜わるようなことになれば、元の境界を違えてしまいます。後世の誹りを受けることになりましょう」と。
    大連が答えて「言っていることは理に適っているが、それでは勅に背くことになってしまう」と言った。
    その妻が強く諌めて「病気と申し上げてしまうのです」と言った。
    大連は諌めに従った。

    こうして勅使を改めた。
    賜物と併せて制旨を付けて、上表文に応じて任那の四県を賜った。

    大兄皇子後の安閑天皇。は先に事情があって国を賜うことに関わらず、後になって勅宣を知った。
    驚き悔いて改めさせようと令して「胎中の帝応神天皇の御世より官家を置いてきた国を軽々しく隣国の求めのままに容易く賜わってもよいのだろうか」と。
    日鷹吉士を遣わして、改めて百済の使いに宣べた。
    使者は答えて「父の天皇が便宜をお図りになられ、勅を賜わったことは既に終ったことでございます。子の皇子がどうして帝の勅を違えて妄りに改めて仰るのでしょうか。きっとこれは虚言でしょう。たとえこれが真実であっても、杖の大きい方で打つのと杖の小さい方で打つのとどちらが痛いでしょうか」と言うと退出した。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年十二月条】
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