大伴金村
- 名前
- 氏(ウジ):大伴【日本書紀】(おおとも, おほとも)
- 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
- 名:金村【日本書紀】(かなむら)
- 大伴金村大連【日本書紀】(おおとものかなむらのおおむらじ, おほとものかなむらのおほむらじ)大伴金村大連
- 大伴大連金村【日本書紀】(おおとものおおむらじかなむら, おほとものおほむらじかなむら)大伴大連金村
- 金村大連公【新撰姓氏録抄】(かなむらのおおむらじきみ, かなむらのおほむらじきみ)金村大連公
- 金村大連【新撰姓氏録抄】(かなむらのおおむらじ, かなむらのおほむらじ)金村大連
- キーワード
- 後裔は左京
神松造 校異:神私造・大和国仲丸子 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は左京
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 仁賢天皇11年8月29日)
- 没年月日
- (欽明天皇元年9月5日 ~ )
- 子
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
大連 【日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年十二月条】
- 出来事
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仁賢天皇11年8月
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仁賢天皇11年11月11日
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仁賢天皇11年12月
大伴金村連が賊の平定を終えて太子に政を返した。
尊号を奉ろうとして言うには「今億計天皇仁賢天皇の御子は陛下のみでございます。人民がより所とするは二つとございません。また皇天の威光を頼りにして凶党を払い除きました。英略雄断は天威 ・天禄 を盛んにしました。日本 には主が必要でございます。日本の主は陛下以外に誰がおりましょうか。伏して願わくは、陛下、天地の神に答えて大命を弘め宣べ、日本をお照らし下さい。大いに銀郷 をお受け下さい」と。ここに太子は司に命じて、
壇場 を泊瀬列城 に設けて天皇に即位した。
遂に都を定めた。この日、大伴金村連を大連とする。
【日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年十二月条】 -
武烈天皇8年12月8日
武烈天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十六 武烈天皇八年十二月己亥条】 -
武烈天皇8年12月21日
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継体天皇元年1月4日
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継体天皇元年1月6日
男大迹天皇を迎えるため、臣・連らに
【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月丙寅条】節 を持たせ、御輿を備えて三国 に遣わす。 -
継体天皇元年1月24日
男大迹天皇が
【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月甲申条】樟葉宮 に至る。 -
継体天皇元年2月4日
大伴金村大連は跪いて天子の
璽符 の鏡・剣を献上して再拝した。
男大迹天皇が辞退して言うには「民を子として国を治めるは重大な事である。私は不才で上に立つには不足である。願わくは思いを巡らせて賢者を選んでほしい。私では不適当である」と。
大伴大連は地に伏して強く請願した。
男大迹天皇は西に向って三度、南に向って二度譲った。
大伴大連らが言うには「私たちが考えるには、大王が民を子として国を治めることが最適でございます。私たちは宗廟社稷の為に、計りごとを軽々しくは致しません。どうか皆の願いをお聞き入れください」と。
男大迹天皇が言うには「大臣 ・大連 ・将相 ・諸々の臣が私を推すのであれば、私も敢えて背くことはしない」と。
そして璽符を受けた。
この日、天皇に即位した。大伴金村大連を大連、許勢男人大臣を大臣、物部麁鹿火大連を大連とすることは元の通りであり、これを以って大臣・大連らを各々職位のままに任じた。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年二月甲午条】 -
継体天皇元年2月10日
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継体天皇6年12月
百済が使いを遣わして朝貢した。
別に上表文を奉って任那国の
上哆唎 ・下哆唎 ・娑陀 ・牟婁 の四県を要請した。
哆唎国守 の穂積臣押山が奏上して「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっております。朝夕通いやすく、鶏も犬も分け難いほどでございます。いま百済に賜って合わせて同じ国とすれば、保全の策としてこれに過ぎるものはございません。しかし国を合わせても後世に危うさは残ります。まして境界を異とすれば何年ともたないでしょう」と。
大伴大連金村は詳しくこの言葉を聞いて意見を同じくした。
物部大連麁鹿火を勅使とした。物部大連は難波の館に行って、百済の使いに勅令を伝えようとするときに、その妻が強く言うには「住吉大神は海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを胎中の誉田天皇応神天皇に授けました。それで大后気長足姫尊神功皇后と大臣武内宿禰が国毎に
官家 を置いて、海外の垣根としたのです。こうして久しく渡来するようになった由来があります。もし割いて賜わるようなことになれば、元の境界を違えてしまいます。後世の誹りを受けることになりましょう」と。
大連が答えて「言っていることは理に適っているが、それでは勅に背くことになってしまう」と言った。
その妻が強く諌めて「病気と申し上げてしまうのです」と言った。
大連は諌めに従った。こうして勅使を改めた。
賜物と併せて制旨を付けて、上表文に応じて任那の四県を賜った。大兄皇子後の安閑天皇。は先に事情があって国を賜うことに関わらず、後になって勅宣を知った。
驚き悔いて改めさせようと令して「胎中の帝応神天皇の御世より官家を置いてきた国を軽々しく隣国の求めのままに容易く賜わってもよいのだろうか」と。
日鷹吉士を遣わして、改めて百済の使いに宣べた。
使者は答えて「父の天皇が便宜をお図りになられ、勅を賜わったことは既に終ったことでございます。子の皇子がどうして帝の勅を違えて妄りに改めて仰るのでしょうか。きっとこれは虚言でしょう。たとえこれが真実であっても、杖の大きい方で打つのと杖の小さい方で打つのとどちらが痛いでしょうか」と言うと退出した。ここに流言があって「大伴大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済から賄賂を受けている」と。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年十二月条】 -
継体天皇21年6月3日
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継体天皇23年4月7日
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継体天皇25年2月7日
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継体天皇25年2月
大連となることは元のとおりであった。
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇即位前紀 継体天皇二十五年二月是月条】 -
安閑天皇元年10月15日
安閑天皇が大伴大連金村に勅して「朕は四人の妻を召し入れたが、今に至るまで嗣子がいない。万世の後に朕の名は絶えてしまう。大伴の伯父よ。一計を案じてくれ。いつもこれを思うと憂慮に堪えないのだ」と。
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年十月庚戌朔甲子条】
大伴大連金村が奏上して「このことはまた私が憂い申し上げていることでございます。我が国家の天下に王たる者は、お世継ぎの有無を論じるのではなく、必ず物によって名を為します。どうか皇后や次の妃の為に屯倉の地を建て、後世に留めて跡に顕しましょう」と。
詔して「よろしい。速やかに設けよ」と。
大伴大連金村が奏上して「小墾田屯倉 と国ごとの田部 屯倉の田を耕作する農民。を紗手媛に賜りますよう。桜井屯倉 (ある本では茅渟山屯倉 を加え賜うという)と国ごとの田部を香香有媛に賜りますよう。難波屯倉 と郡 ごとの钁丁 田部と同義か。を宅媛に賜りますよう。これらを以て後に示し、昔を思うようにしましょう」と。
詔して「申すままに施行せよ」と。 -
安閑天皇元年閏12月4日
安閑天皇の
三島 行幸に従った。天皇は大伴大連を遣わして、良田を県主飯粒に問うた。
県主飯粒は喜ぶこと限りなく、謹しみ敬って誠を尽くした。そして上御野 ・下御野 ・上桑原 ・下桑原 、併せて竹村 の地、全て合わせて四十町を献上した。
大伴大連が勅を受けて言うには「国中には封土に非ざるはなく、天下には王域に非ざるはない。それで先の天皇は御名を顕し、広大な天下に副い、光り麗しい日月のように長駕して民を愛撫し、都の外に出ては国内を磨き照らして限り無く充たされた。御徳は天地の果てまで達し、四方八方まで行き渡った。礼を定めて功成ることを告げ、楽を作って政治が定まっていることを明らかにした。福に応え誠に至れば、祥慶は往歳に符合する。今お前味張は国内の人民一人に過ぎない。急に王地を惜しみ、勅使を軽んじて背いた。味張は今後、郡司に預かることはない」と。
県主飯粒は喜びと恐懼が入り交じった。
そしてその子の鳥樹を大連に献じて僮竪 少年の従者。とした。
ここに大河内直味張は恐れ畏まって後悔した。そして地に伏して冷や汗を流した。
大連に言うには「愚民の罪は万死に当ります。伏してお願い申し上げます。郡ごとに钁丁 を春には五百丁、秋には五百丁、天皇に奉献致します。子々孫々に至るまで絶やしません。これによって生を乞い、永く戒めと致します」と。別に
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年閏十二月壬午条】狭井田 六町を大伴大連に賂した。
三島 の竹村屯倉 には河内県 の部曲 を田部とすることの始まりがここに起こったのであろう。 -
安閑天皇2年12月17日安閑記では乙卯年三月十三日。
安閑天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年十二月己丑条】 -
安閑天皇2年12月(17日 ~ 30日)
宣化天皇が即位する。
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇即位前紀 安閑天皇二年十二月条】 -
宣化天皇元年2月1日
大連となることは元のとおりであった。
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年二月壬申朔条】 -
宣化天皇2年10月1日
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宣化天皇4年12月5日
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欽明天皇元年9月5日
欽明天皇の
難波祝津宮 行幸に許勢臣稲持・物部大連尾輿らと共に従う。天皇が諸臣に「どれだけの軍勢があれば新羅を討てるだろうか」と問うた。
物部大連尾輿らが奏上して「少々の軍勢では容易く征することはできません。昔、男大迹天皇の六年に百済が使いを遣わして、任那の上哆唎 ・下哆唎 ・娑陀 ・牟婁 の四県を要請しました。大伴大連金村は要請のままに求めてきた地を譲渡しました。これを新羅は積年の怨みとしております。軽々しく討伐してはなりません」と。大伴大連金村は
住吉 の家にこもり、病と称して参朝しなかった。
天皇は青海夫人勾子を遣わして慇懃に慰問させた。大連が恐縮して言うには「私が病とすることは他ではございません。私が任那を滅ばしたと諸臣が申しておりますので、恐怖で参朝できないのでございます」と。
そして鞍馬 を使いに贈って厚く敬意を表した。
青海夫人はあるままに奏上した。詔して「久しく忠誠を尽くしてきたのだ。人の噂を気にすることはない」と。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年九月己卯条】
遂に罪に問うことはなく、さらに厚遇するようになった。
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