阿利斯等
- 名前
- 阿利斯等【日本書紀】(ありしと)
- 己能末多干岐【日本書紀】(このまたかんき)
- 生年月日
- ( ~ 529年4月30日)
- 没年月日
- (530年10月8日 ~ )
- 出来事
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物部伊勢連父根・吉士老らを遣わして津多沙津を百済王に賜わった。
加羅王が勅使に言うには「この津は官家を置いて以来、私が朝貢するときの寄港地としております。どうしてたやすく隣国に賜わられるのでしょうか。始めに与えられた地と違います」と。
勅使の父根らはこれによって下賜が難しいとして大島に退いた。
別に録史 を遣わして、果して扶余 に遣わした。
これにより加羅は新羅と結んで日本を怨むようになった。加羅王は新羅王の女を娶って子が生まれた。
新羅がはじめ女を送るときに百人を遣わして女の従者とした。これを諸県に分散させて受け入れて新羅の衣冠を着けさせた。
阿利斯等はその服を変えさせたことに憤り、使いを遣わして送り返した。
新羅は面目を失い、女を戻そうとして言うには「そちらの話を受けて私は結婚を許したのだ。このようになるなら王女を返してもらおう」と。
加羅の己富利知伽『未詳』とある。は答えて「夫婦として合わせて今更どうやって離れることが出来ようか。また子もあり、これを棄ててどこに行けるものか」と。遂に新羅は
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年三月是月条 第一】刀伽 ・古跛 ・布那牟羅 の三城を取り、また北の境の五城を取った。 -
529年4月30日
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529年(4月30日 ~ 5月23日)
帰国の途に就く。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年四月是月条】 -
530年(10月8日 ~ 11月5日)
任那の使いが奏上して「毛野臣は遂に
久斯牟羅 に邸宅を造って留まり住むこと二年。政を怠けております。日本人と任那人との間に生まれた子の帰属についての争いは判決が難しく、そもそも判断する能力もございません。毛野臣は好んで誓湯 盟神探湯(くかたち)ともいう。熱湯に手を入れて火傷の有無で正邪を判断すること。させて『真実なら爛れず、虚偽なら必ず爛れる』と言い、熱湯に投げ入れられて爛れ死ぬ者が多いのでございます。また吉備韓子 『大日本人が隣国の女を娶って生まれた子を韓子というのである』とある。の那多利・斯布利を殺し、常に人民を悩ませて融和することはございません」と。天皇はその状況を聞き、人を遣わして呼び寄せた。
しかし来ることはなく、そっと河内母樹馬飼首御狩を京 に上らせ、奏上して「勅旨を成さずに京郷 に戻れば、期待されてやってきたのに虚しく帰ることになります。面目ない気持ちをどうにもできません。伏して願います。陛下、国命を成し、入朝し謝罪するまでお待ち頂きたいと存じます」と。奉使の後、また自ら謀って言うには「調吉士は
皇華 の使いである。もし私より先に帰って、あるがままに報告すれば、私の罪は必ず重くなってしまう」と。
それで調吉士を遣わし、兵を率いさせて伊斯枳牟羅城 を守らせた。阿利斯等は小さく煩わしい事をして任務を実行しないことを知り、頻りに帰朝を勧めた。しかし聞き入れることはなかった。
これによりすっかり行状を知って離反の心が生まれ、久礼斯己母を新羅に遣わして兵を求め、奴須久利を百済に遣わして兵を求めた。毛野臣は百済の兵が来ることを聞いて
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年九月条】背評 に迎え討った。背評は地名であり、またの名は能備己富里 という。
死傷者は半ばに達した。
百済は奴須久利を捕えて手枷・足枷・首鏁をつけ、新羅と共に城を囲んだ。
阿利斯等を責め罵り、「毛野臣を出しなさい」と言った。
毛野臣は城に拠り防備を固めた。虜には出来なかった。
二国はその地に滞在して一月となった。
城を築いて帰還した。名付けて久礼牟羅城 という。
帰還する時に道すがら、騰利枳牟羅 ・布那牟羅 ・牟雌枳牟羅 ・阿夫羅 ・久知波多枳 の五城を抜いた。
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