聖明王
- 名前
- 聖明王(せいめいおう, せいめいわう)
- 明【日本書紀】(めい)
- 聖明【日本書紀】(せいめい)
- 聖王【日本書紀】(せいおう, せいわう)
- 明王【日本書紀】(めいおう, めいわう)
- キーワード
- 後裔は右京
市往公 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は右京
- 性別
- 男性
- 子
- 出来事
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523年(5月30日 ~ 6月28日)
百済国王武寧が薨じる。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇十七年五月条】
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524年(1月21日 ~ 2月19日)
百済太子明が即位する。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇十八年正月条】
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529年(3月25日 ~ 4月23日)
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529年(3月25日 ~ 4月23日)
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529年(3月25日 ~ 4月23日)
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529年4月30日
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529年(4月30日 ~ 5月23日)
継体天皇が任那にいる近江毛野臣に詔して「奏上するところを問いただして、疑い合っているのを和解させよ」と。
毛野臣は
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年四月是月条】熊川 に宿って『ある書では任那の久斯牟羅(くしむら)に宿ったという』とある。新羅・百済の二国の王を召集した。
新羅王佐利遅は久遅布礼を遣わし『ある書では久礼爾師知于奈師磨里という』とある。、百済は恩率弥騰利を遣わして毛野臣の所に赴かせ、二王が自ら参上することはなかった。
毛野臣は激怒して、二国の使いを責めて言うには「小が大に仕えることは天の道である『ある書では、大木の端には大木を接ぎ、小木の端には小木を接ぐと言ったという』とある。。なぜ二国の王は自ら参集して天皇の勅を承らず、無礼にも使者を遣すのか。もうお前の王が自ら参って勅を承ろうとも、私は勅を伝えずに必ず追い返すであろう」と。
久遅布礼・恩率弥騰利は心に恐怖を抱き、各々帰国して王を呼び寄せた。
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530年(10月8日 ~ 11月5日)
任那の使いが奏上して「毛野臣は遂に
久斯牟羅 に邸宅を造って留まり住むこと二年。政を怠けております。日本人と任那人との間に生まれた子の帰属についての争いは判決が難しく、そもそも判断する能力もございません。毛野臣は好んで誓湯 盟神探湯(くかたち)ともいう。熱湯に手を入れて火傷の有無で正邪を判断すること。させて『真実なら爛れず、虚偽なら必ず爛れる』と言い、熱湯に投げ入れられて爛れ死ぬ者が多いのでございます。また吉備韓子 『大日本人が隣国の女を娶って生まれた子を韓子というのである』とある。の那多利・斯布利を殺し、常に人民を悩ませて融和することはございません」と。天皇はその状況を聞き、人を遣わして呼び寄せた。
しかし来ることはなく、そっと河内母樹馬飼首御狩を京 に上らせ、奏上して「勅旨を成さずに京郷 に戻れば、期待されてやってきたのに虚しく帰ることになります。面目ない気持ちをどうにもできません。伏して願います。陛下、国命を成し、入朝し謝罪するまでお待ち頂きたいと存じます」と。奉使の後、また自ら謀って言うには「調吉士は
皇華 の使いである。もし私より先に帰って、あるがままに報告すれば、私の罪は必ず重くなってしまう」と。
それで調吉士を遣わし、兵を率いさせて伊斯枳牟羅城 を守らせた。阿利斯等は小さく煩わしい事をして任務を実行しないことを知り、頻りに帰朝を勧めた。しかし聞き入れることはなかった。
これによりすっかり行状を知って離反の心が生まれ、久礼斯己母を新羅に遣わして兵を求め、奴須久利を百済に遣わして兵を求めた。毛野臣は百済の兵が来ることを聞いて
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年九月条】背評 に迎え討った。背評は地名であり、またの名は能備己富里 という。
死傷者は半ばに達した。
百済は奴須久利を捕えて手枷・足枷・首鏁をつけ、新羅と共に城を囲んだ。
阿利斯等を責め罵り、「毛野臣を出しなさい」と言った。
毛野臣は城に拠り防備を固めた。虜には出来なかった。
二国はその地に滞在して一月となった。
城を築いて帰還した。名付けて久礼牟羅城 という。
帰還する時に道すがら、騰利枳牟羅 ・布那牟羅 ・牟雌枳牟羅 ・阿夫羅 ・久知波多枳 の五城を抜いた。
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534年(5月28日 ~ 6月26日)
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541年(5月11日 ~ 6月9日)
安羅 の次旱岐夷呑奚・大不孫・久取柔利・加羅 の上首位古殿奚・卒麻 の旱岐 ・散半奚 の旱岐の子・多羅 の下旱岐夷他・斯二岐 の旱岐の子・子他 の旱岐らと、任那の日本府の吉備臣「闕名字」とある。が百済に赴いて詔書を承った。百済の聖明王が任那の旱岐らに言うには「日本の天皇の詔するところは、もっぱら任那を再建せよということである。今どのような策を用いて任那を再建できようか。各々忠を尽くして御心を伸べて安んじようではないか」と。
任那の旱岐らが答えて言うには「再三新羅と議りましたが返答はありません。また図る旨を新羅に告げても返答はないでしょう。今皆で使いを遣わして天皇に奏上しましょう。任那を再建する大王のご意思は慎んで承ります。誰が敢えて言葉を挟みましょう。しかし任那は新羅は国境を接しています。恐れることは
卓淳 らと同じ禍「『ら』とは㖨己呑(とくことん)・加羅(から)をいう。意は卓淳らの国に亡国の禍があるからである」とある。を被ることです」と。聖明王が言うには「昔、我が先祖の速古王・貴首王の御世に安羅・加羅・卓淳の旱岐らが初めて使いを遣わして相通じて厚く親交を結んだ。子弟のように常に隆盛を願った。しかし今新羅に欺かれて、天皇の怒りを買い、任那から恨まれることになったのは
寡人 の過ちである。私は深く懲り悔いて、下部 中佐平麻鹵・城方 甲背昧奴らを遣わして加羅に赴き、任那の日本府に会して共に盟約した。以後は思いを繋げて、任那を再建することを朝夕忘れたことはない。今天皇が『速やかに任那を再建せよ』と詔なされたので、お前たちと共に議って任那国を再建したいと思う。善きに図らえ。また任那の国境に新羅を呼んで、話を聞くかそうでないかを問う。そして皆で使いを遣わして天皇に奏上し、慎んでご教示を承ろう。もし使いが帰還しないうちに新羅が隙を伺って任那に侵攻すれば、私は救援に向う。心配はいらない。しかしよく守り備えて警戒を忘れてはならない。別にお前たちが言う『卓淳らと同じ禍を恐れる』とは、新羅が自らの強さで為したことではない。かの㖨己呑は加羅と新羅の国境で頻りに攻め敗られた。任那も救援することが出来ず、これによって亡んだ。かの南加羅 は狭小で卒に備えることが出来ず、身を寄せる所も知らず、これによって亡んだ。かの卓淳は上下が離れ離れで、主自ら新羅に内応し、これによって亡んだ。これを見ると三国の敗れた理由がよく分かる。昔、新羅が高麗に援助を求め、任那と百済を攻撃したが勝てなかった。どうして新羅が独力で任那を滅ぼせようか。今、寡人とお前たちの力と心を合わせ、天皇の霊威に頼れば、任那は必ず再建できる」と。そして各々に物を贈り、皆喜んで帰った。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年四月条】
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541年(8月8日 ~ 9月5日)
百済は安羅の日本府と新羅が通じていることを聞いて、
前部 奈率鼻利莫古・奈率宣文・中部 奈率木刕眯淳・紀臣奈率弥麻沙割注に「紀臣奈率とは、おそらく紀臣が韓の女を娶って生まれ、百済に留まって奈率となったのであり、その父は詳らかではない。他も皆これにならう」とある。らを安羅に遣わして、新羅に行った任那の執事を呼んで任那の再建を図らせた。別に安羅の日本府の河内直「百済本記では加不至費直・阿賢移那斯・佐魯麻都らと云う。未だ詳らかではない」とある。が計を新羅に通じたことを深く責め罵った。
そして任那に言うには「昔、我が先祖速古王・貴首王と元の旱岐 当時の任那諸国の王を指す。らが初めて和親を約して兄弟となった。私はお前を子弟と為し、お前は私を父兄と為し、共に天皇にお仕えして強敵を防ぎ、国家を安らかにして今日に至る。私は先祖と元の旱岐との和親の言葉を思えば、輝く日のようである。以後は慇懃に好を修めて隣国の友好が続き、骨肉を超える恩が終始変わらないことを常に願っている。不審なことは、なぜ軽々しい言葉を用いて数年の間に、残念にも志を失ってしまったのかである。古人が「追いて悔ゆれども及ぶこと無し」と云うのはこのことか。上は雲際に達し、下は泉中に及ぶまで、今こそ神々に誓って咎を昔に改め、もっぱらに隠すこと無く所為を露わにし、誠心を神に通わせて、深く自らを責めることは当然である。聞くところによると、後を継ぐ者は、先祖の業を担って家を栄えさせて、勲業を成すことを貴いこととするという。だから今からでも先祖が結んだ和親を尊重して、天皇の詔勅の詞に従い、新羅が掠め取った国である南加羅 ・㖨己呑 を奪い返して本貫である任那に戻し、永く日本を父兄として仕えようとしている。これが寡人の食べても美味からず、寝ても安からぬところである。昔を悔い、今を戒め、気を配っていきたいと思う。新羅が甘言を用いて誑かそうとしていることは、天下の知るところである。お前達は妄信して計略に嵌ってしまった。任那は新羅と国境を接している。常に備えを設けるべきである。警戒を怠ってはならない。恐れることは計略に嵌り、国を失い、家を亡ぼし、虜になってしまうことである。寡人はこれを思って安心することが出来ない。聞くところによると任那と新羅は策を巡らす際には蜂・蛇のような本性を現すことは皆の知るところであるという。また禍とは、行いを戒めるための先触れである。天災とは、人に悟らせるために現れるのである。天の戒めはまさに先霊の知らせである。禍に遭ってから悔い、滅んだ後に興そうと思っても及ばない。今お前たち余に従って天皇の勅を承り、任那を立てるべきである。なぜ失敗を恐れる。もし永く本土を保ち、永く民を治めようと思うのであれば、今話した通りである。慎しまなければならない」と。聖明王が任那の日本府に言うには「天皇が詔して『任那がもし滅べば、お前の拠り所が無くなる。任那がもし興れば、お前の助けとなる。いま任那を興し立てて元のように戻し、お前の助けとして万民を満足させよ』と仰せになられた。謹しんで詔勅を承り、恐縮で胸が一杯となった。任那を栄えさせることを誠心に誓い、昔のように永く天皇にお仕え申し上げたいと思う。まず未然を慮り、然る後に安楽がある。いま日本府が詔のままに任那を救えば、天皇に必ずお褒め頂いて、お前達にも賞禄があろう。また日本の諸卿は久しく任那の国に住み、近く新羅に接して実情をご存知である。任那を侵して日本の力を阻もうとすることは久しく、今年だけではない。しかし敢えて動かないのは、近くは百済を恐れ、遠くは天皇を恐れるからである。朝廷を欺いて取り入り、任那と偽りの和睦をしている。任那を滅ぼすことが叶わないので、偽りの服従を示して任那の日本府を感激させたのである。今その間隙を伺い、挙兵して討ち取りたいと思う。天皇が詔勅で南加羅・㖨己呑を立てることを勧めるのはここ数十年だけではない。新羅が命に従わないことは卿らも知るところである。また天皇の詔に従い任那を立てるのにこのままでいられようか。恐れることは卿らが甘言を信じて騙され、任那国を滅ぼして天皇を辱め奉ることである。慎んで欺かれないように」と。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年七月条】
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541年(8月8日 ~ 9月5日)同年七月条が二つあるため、この年を翌年の三年とする説もある。諸本に異文無し。
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543年(5月19日 ~ 6月17日)
百済の紀臣奈率弥麻沙らが帰国する。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年四月条】
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543年(10月14日 ~ 11月11日)
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543年12月19日
欽明天皇が津守連を遣わし、百済に詔して「任那の
下韓 にある百済の郡令 ・城主 を日本府に附属させる」と。
併せて詔書を持たせて宣して「しばしば上表して任那を建てるということ十余年となる。このように奏上しても未だ達成できていない。また任那はお前の国の柱である。柱が折れれば誰が家を建てられようか。朕の心配はここにある。速やかに再建させよ。もし速やかに任那が再建すれば、河内直らは自ずと退くことは言うまでもない」と。この日、聖明王は勅を承り、三人の
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年十一月甲午条】佐平内頭 及び諸臣に「詔勅はかくのごとくである。如何にしたら良いか」と尋ねた。
三人の佐平らは「下韓にある我が郡令・城主は出せません。再建の事は速やかに勅に従うべきでしょう」と答えた。
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544年(1月11日 ~ 2月8日)
百済の聖明王は以前の詔を普く群臣に示して言うには「天皇の詔勅はかくの如くである。如何にすべきか」と。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年十二月条】
上佐平沙宅己婁・徳率鼻利莫古・徳率東城道天・徳率木刕眯淳・徳率国雖多・奈率燕比善那らが議って言うには「我らの人となりが愚闇で智略もございません。任那再建の詔勅を速やかに承るべきでございます。いま任那の執事 ・国々の旱岐 らを呼んで共に謀し、意見を具申して志を表しましょう。また河内直・移那斯・麻都らが猶も安羅 にいるならば任那再建は難しいでしょう。それで併せて上表して、本国へ戻して頂きましょう」と。
聖明王「群臣の議りごとは甚だ寡人 の心に適っている」と言った。
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544年(1月11日 ~ 2月8日)
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544年(2月9日 ~ 3月9日)
百済国が使いを遣わして、任那の執事と日本府の執事を呼んだ。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年正月条】
共に答えて言うには「神をお祭りする時期です。祭りが終れば参りましょう」と。
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544年(2月9日 ~ 3月9日)
百済がまた使いを遣わして、任那の執事と日本府の執事を呼んだ。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年正月是月条】
日本府・任那は共に執事を遣わさずに身分の低い者を遣わした。
これにより百済は共に任那国を再建するということが出来なかった。
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544年(3月10日 ~ 4月7日)
百済が施徳馬武・施徳高分屋・施徳斯那奴次酒らを遣わして任那の使いとし、日本府と任那の旱岐らに言うには「私が紀臣奈率弥麻沙・奈率己連・物部連奈率用奇多を遣わして天皇に拝謁させた。弥麻沙らは日本から帰還して詔書を伝えて『汝らはそちらにある日本府と共に速やかに良い計画を立て、朕の望みをかなえよ。他に欺かれぬよう戒めよ』という。また津守連「百済本記に云うには、津守連己麻奴跪という。しかし訛語により正しくはなく、詳らかではない。」とある。は日本から詔勅を伝えて任那の政を問うている。それで日本府・任那の執事と共に任那の政を議定して天皇に申し奉るため、呼びかけること三度に及ぶがそれでも来ることはない。これにより任那の政を共に計画して天皇に申し奉ることが出来ない。津守連を留め、別に急使を遣わして具に状況を天皇に申し奉ろうと思う。三月十日を以って日本に遣わす。この使いが到着すれば天皇は必ずお前たちを詰問なさるであろう。日本府の卿・任那の旱岐らは各々使いを出して、我が使いと共に天皇の詔勅を承るように」と。
別に河内直「百済本記に云うには、河内直・移那斯・麻都という。訛語により未だその正しさを詳らかにはできない」とある。に言うには「昔から今に至るまで、ただ汝の悪いことばかりを聞く。汝の先祖ら「百済本記に云うには、汝の先祖那干陀甲背・加臘直岐甲背。または那奇陀甲背・鷹奇岐弥と云う。訛語により未だ詳らかではない」とある。も共に偽りの心で欺き説いた。為哥可君「百済本記に云うには、為哥岐弥は名を有非岐という」とある。は専らにその言葉を信じ、国難を憂えず、我が心に背いて勝手に暴虐した。これにより放逐されたのである。ひとえに汝が原因である。汝らは任那に来て常に良くないことをする。任那が日々損なわれたのは、ひとえに汝が原因である。汝は卑しいといえども、譬えば小火が山野を焼いて村里に広がることのようである。汝の悪行によって任那は敗れるであろう。海西の諸国の官家は永く天皇にお仕え申し上げることが出来なくる。いま天皇に汝らを移して本の地に帰して頂くように申し上げる。汝もまた出向いて承るように」と。
また日本府の卿・任那の旱岐らに言うには「任那の国を建てるのに天皇の威を拝借せずに誰が建てられようか。それで私は天皇のもとに参り、将士を請うて任那の国を助けようと思う。将士の糧食は私が運ばせよう。将士の数は未だ不定である。糧食を運ぶべき場所も定め難い。願わくは一ヶ所に集まって共に可否を論じ、最善を選んで天皇に奏上しようと思うが、しきりに呼びに遣わしているが、汝らは来ないので議論も出来ない」と。
日本府が答えて言うには「任那の執事が呼ばれても赴かないのは、私が使いを遣わさないことによるものです。私が天皇に奏上するために遣わした使いが帰還して言うには『朕は印奇臣「語訛により未詳」とある。を新羅に遣わし、津守連を百済に遣わす。汝は勅を待て。新羅・百済に自ら行ってはならない』という勅宣があったとのことです。たまたま印奇臣が新羅に使いすると聞いて、呼んで天皇の仰せになるところを尋ねました。詔は『日本の臣と任那の執事は新羅に行って天皇の勅を承れ』とのことです。百済に行って命を承れと仰せではありません。後に津守連がここに寄った時に言うには『今私が百済に遣わされるのは、下韓 にある百済の郡令・城主を撤退させるためである』とのことです。ただこれだけを聞きました。任那と日本府は百済に集まって天皇の勅を承れとは聞きません。だから赴かないのは任那の意思ではありません」と。任那の旱岐らが言うには「使いが来て呼ぶので参ろうとしますが、日本府の卿が出発を許さないので参れないのです。大王は任那を建てるために、心の細かいところまで示されました。これには言い表せないほどの喜びを感じてます」と。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年二月条】
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544年(4月8日 ~ 5月7日)
百済が奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らを遣わして上表するには「奈率弥麻沙・奈率己連らが我が国に戻り、詔書を読み上げて『お前たちはそこにある日本府と共に良い謀りごとを立て、速やかに任那を建てよ。お前はそれを戒めて他に欺かれてはならない』と言いました。また津守連らが我が国に来て、勅書を読み上げて任那の再建を問いました。慎んで勅を承り、早速共に謀りごとを立てようと思いました。それで使いを遣わして日本府「百済本記に云うには、烏胡跛臣を召したという。これは的臣のことであろう」とある。と任那を呼びました。共に『新年となりましたので同四年十二月是月条では新年間近を理由にしている。、時期が過ぎてから参上したいと思います』と答えて久しく来ません。それでまた使いを遣わして呼ぶと、共に『祭りの時期なので、これが過ぎてから参上したいと思います』と答えて久しく来ません。また使いを遣わして呼ぶと、身分の低い者を遣わしてきたので相談出来ませんでした。任那が呼ぶのに来ないのは本意ではないのです。これは阿賢移那斯・佐魯麻都の奸佞がするところなのです。任那は安羅を兄として、その意に従います。安羅の人は日本府を父として、その意に従うのです「百済本記に云うには、安羅を以って父とし、日本府を以って本とする」とある。安羅は当時の日本府の所在地。。いま的臣・吉備臣・河内直らは移那斯・麻都の指揮に従うのみです。移那斯・麻都は卑しい家の出身ですが、専ら日本府の政治をほしいままにしています。また任那を制して使いを遣わすことを邪魔しました。これにより相談して天皇にお答え奉ることが出来ませんでした。それで己麻奴跪「これは津守連(つもりのむらじ)か」とある。を留め、別に疾きこと飛ぶ鳥の如き使いを遣わして天皇に申し上げ奉ります。もし二人「二人とは移那斯と麻都である」とある。の使いが安羅にて奸佞を多く行えば、任那の再建は難しく、
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年三月条】海西 の諸国朝鮮諸国を指す。がお仕えるすることは出来ません。伏して願うことは、この二人を本のところへ還すことです。勅して日本府と任那を諭し、任那再建を図り、奈率弥麻沙・奈率己連らを遣わし、己麻奴跪に副えて上表奉りました。そこで詔があり、『的臣ら「"ら"とは吉備弟君臣・河内直らである」とある。が新羅を往来することは朕の心ではない。昔、印支弥「未詳」とある。と阿鹵 の旱岐がいた時に、新羅の為に圧迫されて耕作出来なかった。百済は遠く離れているので急を救うことが出来なかった。的臣らが新羅を往来するようになり、耕作することが出来るようになったと朕は以前に聞いている。もし任那再建がすれば移那斯・麻都が自然と退くことは言うまでもない』と仰せになりました。伏してこの詔を承り、喜びと恐れが心中に去来しました。そして新羅と朝廷の通謀は天皇の御命令ではないことを知りました。新羅は春に㖨淳 を取り、そして我が久礼山 の守備兵を追い出し、遂に占有しました。安羅に近い所は安羅が耕作しています。久礼山に近い所は新羅が耕作しています。各々が奪い合いうことはありませんでした。しかし移那斯・麻都は境界を越えて耕作して六月に逃げ去りました。印支弥の後に来た許勢臣の時「百済本記に云うには、我が印支弥を留めた後に既酒臣が至る時という。未だ詳らかではない」とある。には新羅が境界を侵略することは無くなりました。安羅も新羅に圧迫されて耕作できないと言ったことはありません。私がかつて聞いた話では、新羅は毎年多くの兵を集めて安羅と荷山 を襲おうとしているといいます。あるいは加羅を襲おうとしていたと聞きました。この頃情報を得たので将士を遣わして任那を守ることは怠ることがありません。しきりに精鋭兵を送り、時に応じて救っています。それで任那は季節に従った耕作ができています。新羅も敢えて侵略はしてきません。しかし百済は遠く離れていて急を救うことができず、的臣らが新羅を往来して耕作することができたと申すのは、天朝を欺き、奸佞と成り下がったということです。このような明白なことでさえ天朝を欺くのですから、他にも偽りが多くあるでしょう。的臣らが猶も安羅に留まれば、任那の国は恐らく復興が難しいでしょう。早くに退けて頂きたい。私が深く恐れることは、佐魯麻都は母が韓 の人でありながら大連日本の大連とは別物であろう。の位についています。日本の執事と交って繁栄を楽しむ仲間に入っています。しかし今は翻って新羅の奈麻礼 の冠をつけています。心の従うところなど他からもはっきり分ります。よくよく所作を見ると全く恐れることがありません。以前にその悪行は奏上致しました。今も他所の服を着て日々新羅の地に行くこと公私にわたって全く憚ることはありません。喙国 が滅んだのは他でもありません。喙国の函跛旱岐が加羅国に二心があって新羅に内応したので、加羅は外から戦うことになりました。これが滅んだ理由です。もし函跛旱岐が内応しなければ、喙国は小国といえども滅ぶことはなかったでしょう。卓淳 に至ってもまた然り。仮に卓淳の国主が新羅に内応して仇を招かなければ、どうして滅ぶことになりましょうか。諸国の敗亡の禍いを鑑みるに、皆内応する二心がある者によるのです。いま麻都らは新羅に恭順し、その服を着ては朝夕通って密かに姧心を懐いています。恐れることは任那がこれにより永久に滅んでしまうことです。任那がもし滅べば我が国国も危うくなります。朝貢しようと思ってもどうして出来ましょうか。伏してお願いすることは、天皇が遥か遠くをご覧になり、速やかに本の所へ移して任那を安らかにして頂くことです」と。
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544年(1日 ~ 29日)
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544年(11月30日 ~ 12月29日)
百済が使いを遣わして、日本府の臣と任那の執事を呼んで言うには「天皇に遣わした奈率得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らが日本から帰還した。日本府の臣と任那国の執事は来て勅を承り、一緒に任那と相談するように」と。
日本の吉備臣・安羅の下旱岐大不孫・久取柔利・加羅の上首位古殿奚・
卒麻君 ・斯二岐君 ・散半奚君 の子、多羅の二首位訖乾智・子他の旱岐・久嵯の旱岐が百済に赴いた。百済王聖明が詔書を示して言うには「私が遣わした奈率弥麻佐・奈率己連・奈率用奇多らは日本に参朝して『速やかに任那を建てよ』と詔を承った。また津守連が勅を承って任那のことを問われた。それで使いを遣わして呼んだのだ。さて如何にして任那を建てようか。どうかそれぞれの計画を述べてほしい」と。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年十一月条】
吉備臣・任那の旱岐らが言うには「任那国を建てるのは大王の決意にかかっています。王に従って共に勅を承ります」と。
聖明王が言うには「任那の国と我が百済は古来より子弟のような間柄である。日本府の印岐弥「任那にいる日本の臣の名である」とある。は既に新羅を討ち、さらに私を討とうとしている。また好んで新羅の虚言を聞いている。印岐弥を任那に遣わしたのは、その国を侵害するためではない「未詳」とある。。古来より新羅は無道で言葉を偽り、信を違えて卓淳を滅ぼした。助け合おうとしても、かえって後悔してしまうだろう。それで皆を呼んで共に恩詔を承り、任那の国を興して元のように永く兄弟でありたいと思う。聞くところによると新羅・安羅の両国の境には大河があり、要害の地であるという。私はここを拠点として六つの城を造ろうと思う。天皇に三千の兵士を請い、城ごとに五百を充て、我が兵士も併せ、耕作出来ないように煩わせてやれば、久礼山 の五城は自ずから兵を捨てて投降するであろう。卓淳の国もまた復興するであろう。兵士には私から衣食を給しよう。これが天皇に奏上しようと思う策の一つである。なお南韓 に郡令 ・城主 を置くことが、どうして天皇に違背して朝貢の道を絶ってしまうことになるのか。願いは多難を救って強敵を殲滅することである。およそその凶党は誰かに従うことを考えているであろう。北の敵は強大で、我が国は微弱である。もし南韓に郡領・城主の守りを置かなければ、この強敵を防ぐことは出来ない。また新羅を制することも出来ない。それで新羅を攻めて任那を保つのである。もしそうでなければ、恐らくは滅ぼされて参朝も出来なくなるということを天皇に奏上したいと思う。これが策の第二である。また吉備臣欽明天皇五年三月条では吉備臣も排除の対象にしていたが、ここでは本人が策に賛同しているので、同じく名前の挙がっていた的臣の誤りと思われる。・河内直・移那斯・麻都が猶も任那国にいれば、天皇の任那を建てよという詔を実行できない。この四人をそれぞれの本貫へ移して頂くことを天皇に奏上したいと思う。これが第三の策である。日本の臣と任那の旱岐らと共に使いを遣わして、同じく天皇に奏上して恩詔を賜るようにお願いせよ」と。
吉備臣・旱岐らが言うには「大王の述べられた三つの策は我々の心情にも適うものです。願わくは慎んで日本の大臣「任那にある日本府の大臣をいう」とある。・安羅王・加羅王にも申し上げて、共に使いを遣わして同じく天皇に奏上したいと思います。これは千載一遇の時であり、深謀遠慮しなくてはなりません」と。
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545年(3月29日 ~ 4月26日)
膳臣巴提便を百済に遣わす。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年三月条】
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545年(5月27日 ~ 6月24日)
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545年(9月22日 ~ 10月20日)
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545年(9月22日 ~ 10月20日)
百済が丈六の仏像を造った。
願文を作って言うには「聞けば丈六の仏を造る功徳は甚大。いま敬ってお造り奉ります。この功徳を以って願わくは天皇が勝れた徳を得られ、天皇のお治めになられる諸国が福祐を蒙ること。また願わくは天下の一切衆生が解脱を蒙ること。それでお造り奉った次第でございます」と。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年九月是月条】 -
538年(6月13日 ~ 7月11日)
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(545年12月19日 ~ 546年1月17日)
膳臣巴提便が帰国する。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年十一月条】
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546年2月18日
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546年7月25日
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547年(5月5日 ~ 6月3日)
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548年1月28日
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548年4月26日
百済が
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年四月甲子条】中部 杆率掠葉礼らを遣わして奏上していうには「徳率宣文らが勅を承り、我が国に帰って『乞うところの援軍は、時に応じて送り遣わす』という恩詔を頂き、喜ぶことに限りがございません。しかし馬津城 の役「正月の辛丑に高麗が兵を率いて馬津城を囲んだ」とある。に捕虜が語って『安羅国と日本府が侵攻を勧めた』といいました。状況から見てありそうなことにも存じます。しかしその事を確かめようと三度呼びにやりましたが来ませんでした。それで深く心配しているのでございます。畏き天皇「西国では皆が日本の天皇を称えて、畏き天皇(可畏天皇)とする」とある。には何卒お調べ頂きたいと存じます。暫くは救援の兵をお留め頂き、私がご返事奉るまでお待ち頂きたいと存じます」と。
詔して「使人の申しごとを聞いて憂える所を見れば、日本府と安羅が隣りの難事を救わなかったことは朕も心苦しく思う。また高麗に密使を立てたということは信じるべきではない。朕が命令すれば遣わすであろう。命令せずにどうして勝手にできようか。願わくは王は襟を開き帯を緩めて静かに安らぎ、深く疑い恐れることを止めるように。任那と共に先の勅のままに力を合せて北の敵を防いで各々所領を守るように。朕は若干の人を送り遣わして安羅が逃げて空いた地を埋めよう」と。
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548年6月23日
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548年8月31日
百済の使人掠葉礼らが帰途に就く。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年閏七月辛未条】
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548年(11月16日 ~ 12月15日)
欽明天皇が三百七十人を百済に遣わして
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年十月条】得爾辛 に城を築くのを助けさせる。
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549年7月17日
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550年3月13日
欽明天皇が使いを遣わして百済に詔して「百済本記に云う。三月十二日辛酉に日本の使人阿比多が三隻の船を率いて都に来た」とある。「朕は将徳久貴・固徳馬進文らの上表の意のままに、一つ一つ掌中を見るように教え示そう。思うところを詳しく説明しよう。大市頭他に見えない。以前の記事にある使者の内の一人と思われる。の帰国後、特に変わったことはない。今細かく報告しようと思って使いを遣わしたのである。奈率馬武は王の股肱の臣と聞く。上下に伝えることは王の心に適い、王の助けとなる。もし国家に事無く、官家となって永く天皇に仕えようと思えば、馬武を大使として朝廷に遣わすがよい」と。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十一年二月庚寅条】
重ねて詔して「北の敵は強暴と聞く。そこで矢三十具千五百本。矢一具は五十本。を賜ろう。大事な所を防ぐように」と。 -
三月十二日辛酉に日本の使人阿比多が三隻の船を率いて都に来た。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十一年二月庚寅条 百済本記云】
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550年5月2日
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四月一日庚辰に日本の阿比多が帰還した。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十一年四月庚辰朔条 百済本記云】
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550年5月17日
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551年(3月23日 ~ 4月20日)
欽明天皇が麦種一千石原文は一千斛。同義。を百済王に賜る。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十二年三月条】
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(551年1月23日 ~ 552年2月10日)
百済の聖明王は自ら二国「二国とは新羅・任那である」とある。の兵を率いて
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十二年是歳条】高麗 を討って漢城の地を回復した。
また軍を進めて平壌を討った。
全て六郡の地を遂に回復した。
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552年6月15日
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552年(11月2日 ~ 12月1日)
百済聖明王が
西部 姫氏 達率怒唎斯致契らを遣わして釈迦仏の金銅像 一躯・幡蓋 若干・経論若干巻を欽明天皇に献上した。
別に上表し、広く礼拝する功徳を賞賛して「この法は諸々の法の中でも最も勝れています。解り難く入り難く、周公・孔子がなお知り給うことが出来ませんでした。この法は無量無辺の福徳果報 を生じ、すなわち無上の菩提を成し、譬えば人が如意宝珠を懐いて思うがままになるように、この妙法の宝もまた同様です。祈願すること思うがままにして乏しいところはございません。遠くは天竺から三韓に至るまで、教えに従って尊敬しております。これにより百済の王臣明は謹しんで陪臣怒唎斯致契を遣わして帝国 に伝え奉り、国内に流通させて、仏が『我が法は東に伝わる』と記すことを果たそうと思うのです」と。この日、天皇は聞き終わると歓喜踊躍し、使者に詔して「朕は昔よりこれまでに、未だかつてこのような妙法を聞いたことがない。しかし朕は自決しない」と。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十三年十月条】
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(552年2月11日 ~ 553年1月29日)
百済が漢城と平壌を棄てた。これにより新羅は漢城に入城した。今の新羅の
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十三年是歳条】牛頭方 ・尼弥方 「地名未詳」とある。である。
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553年2月10日
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553年2月13日
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553年(6月27日 ~ 7月25日)
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553年8月31日
百済が
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年八月丁酉条】上部 奈率科野新羅・下部 固徳汶休帯山らを遣わして上表して言うには「去年、臣らが相談して内臣 徳率次酒と任那の大夫らを遣わして海外の諸々の宮家 原文「弥移居」の事を申し上げました。伏して恩詔をお待ちすることは春草の甘雨を仰ぐようでございます。今年にわかに聞きますのは、新羅と狛 国が通謀して『百済と任那が日本に頻りに赴いている。思うにこれは軍兵を乞うて我が国を討とうとしているのであろう。もし事実ならば国の滅亡を踵を上げて待つことになる。まずは日本兵が発たぬ間に安羅を討ち取り、日本の路を絶とう』と言っております。その謀はこのようで、臣らはこれを聞いて深く恐れております。それで疾使 ・軽舟を遣わして急ぎ表を申し上げます。伏して願わくは天慈をもって速やかに前軍後軍を遣わし、引き続き救援をお願い致します。秋の頃には海外の宮家を固めましょう。もし遅くなれば臍を噛んでも及ばないでしょう。派遣された軍が臣の国に着けば、衣糧にかかる費用は臣が負担します。任那に至ってもまた同様です。もし負担できなければ、臣が必ず援助して不足が無いように致します。別に的臣が天勅を受け、臣の国に来て安心しました。朝早くから夜遅くまで庶政を勤め上げ、これにより諸国はその誉れを称えました。まさに万世まで諸国を鎮めて頂こうと思いましたが、不幸にも亡くなってしまい、深く悼むところでございます。今任那を誰が治めるべきでございましょうか。伏して願わくは天慈をもって速やかにその代わりを遣わして任那を鎮めて頂きたいと存じます。また諸国は甚だ弓馬が不足しております。古より今まで天皇にお助け頂いて強敵を防いできました。伏して願わくは天慈をもって多くの弓馬を賜りたいと存じます」と。
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553年11月11日
百済の王子余昌「明の王子、威徳王である」とある。は国内全ての兵を発して
高麗 国に向った。
百合野塞 を築いて兵士と寝食を共にした。
夕方に遥に見渡すと、大野は肥え、平原は広くのび、人跡はまれに見えて犬の声を聞くこともない。
にわかに鼓笛の音が聞こえた。
余昌は大いに驚き、鼓を打って応えた。
夜通し固く守り、薄明るくなってから広野の中を見ると、青山が覆うように旗が充満していた。明けがた
頸鎧 頸部を守る鎧状の防具。を着けた者が一騎、鐃 軍中で用いる小さな銅鑼。を挿した者が二騎、豹尾 を挿した者が二騎、合わせて五騎が轡を並べてやってきて、尋ねて言うには「部下たちが『我が野の中に客人がいます』と言っております。お迎えしないわけにはいきません。願わくは礼を以って応答される人の姓名・年・位を知りたいと思います」と。
余昌は答えて「姓は同姓高麗国王の姓に同じの意か。諸書では百済王室は高麗(高句麗)またはその祖である扶余(夫余)から出たとする。。位は杆率。年は二十九」と。
百済が反対に尋ねると、また前の法のように答えた。遂に旗を立てて合戦となった。
百済は鉾で高麗の勇士を馬から刺し落して斬首した。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年十月己酉条】
そして鉾の先に頭を刺し挙げて皆に示した。
高麗の軍将は憤怒すること甚だしかった。
この時の百済の歓声は天地を裂くほどであった。
またその副将は鼓を打って激しく戦い、高麗王を東聖山の上に追い退けた。
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554年2月26日
百済が
中部 木刕施徳文次・前部 施徳曰佐分屋らを筑紫に遣わして、内臣・佐伯連らに言うには「徳率次酒・杆率塞敦らが去年の閏月の四日に参りましたときに『臣「臣らとは内臣をいう」とある。らは来年の正月に行くであろう』と仰りましたが確かではありません。お越しになるのでしょうか。また軍の数はどれ程でしょうか。少しでも話を聞いて予め陣営を設置したいと思っております」と。また別に言うには「畏き天皇の詔を承り、筑紫に詣でて賜る軍を見送ることの喜びは他と比べようがございません。今年の役は以前より甚だ危険でございますので、どうか軍の派遣は正月に間に合うようにお願い申し上げます」と。
内臣は勅を承って「すぐに援軍の数一千・馬一百疋・船四十隻を遣わす」と返答した。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年正月丙申条】
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554年(3月19日 ~ 4月17日)
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554年4月18日
百済の使人
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年三月丁亥朔条】中部 木刕施徳文次らが帰途に就く。
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554年6月18日
内臣が舟軍を率いて百済に向う。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年五月戊子条】
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555年(1月9日 ~ 2月6日)
百済が
下部 杆率汶斯干奴を遣わし、上表して「百済の王臣明及び安羅にいる倭の諸臣達、任那諸国の旱岐らが申し上げます。思い見れば斯羅 は無道にて天皇を恐れず、狛 と心を同じくして海北の宮家を損ない滅ぼそうとしています。臣らは共に議り、有至臣らを遣わし、兵を乞うて斯羅を征伐しようとしました。そして天皇が派遣された有至臣が軍を率いて六月に到着しました。臣らは深く喜びました。十二月九日を以って斯羅を攻めました。臣は先ず東方軍の指揮官物部莫哥武連を遣わし、その方の兵士を率いさせ、函山城を攻めさせました。有至臣が連れてきた竹斯物部莫奇委沙奇は火箭を射るのに優れ、天皇の威霊を蒙り、九日の夕には城を焼いて落しました。それで単使 ・馳船 を遣わして奏上します」と。別に奏上して「もし斯羅のみであれば有至臣が率いた兵だけで足りるでしょう。今の狛と斯羅は心を同じくして力を合わせています。功を成すことは難しく、伏して願いますは速やかに
竹斯島 の上に諸兵を遣わして臣の国をお助け頂きたい。また任那を助ければ事は成功します」と。
また奏上して「臣は別に兵一万人を遣わして任那を助けますことを合わせて奏上します。事はまさに急です。単船 を遣して奏上します。良い錦二疋・毾㲪 獣毛性の敷物。一領・斧三百口、及び捕えた城民である男二人・女五人を奉ります。軽薄なもので恐縮です」と。余昌は新羅討伐を謀った。
老臣は「天は未だ味方しておらず、恐らく禍が及びましょう」と諫めた。
余昌が言うには「老人よ、何を怯えている。我々は大国に仕えている。何を恐れることがあるか」と。遂に新羅国に入って
久陀牟羅塞 を築いた。
その父明王は余昌が長い戦いに苦しんで寝食も足りていないことを憂慮した。
父の慈愛に欠けることも多く、子としての孝を果たすことは難しい思った。そこで自ら出向いて労った。
新羅は明王が来たことを聞いて国中の兵を起し、道を断って撃ち破った。
この時に新羅は佐知村 の飼馬奴 苦都、またの名は谷智に言うには「苦都は賤しい奴である。明王は名のある主である。賤しい奴を使って名のある主を殺そう。後世に伝わって人々の口から忘れることがないであろう」と。
苦都は明王を捕え、再拝して「王の首を斬ります」と言った。
明王は答えて「王の頭は奴の手にかかってはならない」と言った。
苦都は「我が国の法では盟に背けば国王と雖も奴の手にかかります」と言った。明王は天を仰いで嘆息して涙を流した。許して言うには「常に痛みが骨髄まで達するほどの思いをしてきたが、考えてもどうしようもない」と。そして首を伸ばした。
苦都は首を斬って殺し、穴を堀って埋めた。余昌は遂に囲まれて脱出できなかった。兵は慌てて成す術を知らなかった。
弓の名人に筑紫国造という者がいた。進み出て弓を引き、狙いを定め、新羅の騎卒で最も勇壮な者を射落とした。
発した矢の鋭いことは、鞍の前後の橋 を射抜いて甲 の襟に及んだ。
また続けて発した矢は雨の如く激しさを増して止まらず、包囲していた軍は退却した。これにより余昌及び諸将らは間道より逃げ帰ることが出来た。
余昌は国造の射撃で包囲軍を退却させたことを讃え、尊んで鞍橋君と名付けた。新羅の将らは百済が疲れきっていることを知り、全滅させるために相談した。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条】
一人の将が言うには「してはなりません。日本の天皇は任那の事で、しばしば我が国を攻めました。ましてや百済の官家を滅ぼそうとすれば、必ず後の患いを招きます」と。
それで中止した。 -
明王は胡床に乗り、佩いていた刀を解き、谷知に授けて斬らせた。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条 一本云】 -
新羅は明王の頭骨を収め、礼を以って残りの骨を百済に送った。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条 一本云】
新羅王は明王の骨を北庁の階下に埋めた。この庁を都堂 未詳。と名付けたと
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