名前
  • 中部杆率掠葉禮【日本書紀】(ちゅうほうかんそつけいしょうらい, ちうほうかんそちけいせふらい)中部杆率掠葉礼
  • 中部奈率掠葉禮【日本書紀】(ちゅうほうなそつけいしょうらい, ちうほうなそちけいせふらい)中部奈率掠葉礼
  • 掠葉禮【日本書紀】(けいしょうらい, けいせふらい)掠葉礼
生年月日
( ~ 546年7月25日)
没年月日
(548年8月31日 ~ )
出来事
  • 546年7月25日

    百済の使者として欽明天皇調(みつき)を献上する。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇七年六月癸未条】
  • 548年4月26日

    百済が中部杆率掠葉礼らを遣わして奏上していうには「徳率宣文らが勅を承り、我が国に帰って『乞うところの援軍は、時に応じて送り遣わす』という恩詔を頂き、喜ぶことに限りがございません。しかし馬津城(ましんのさし)の役「正月の辛丑に高麗が兵を率いて馬津城を囲んだ」とある。に捕虜が語って『安羅国と日本府が侵攻を勧めた』といいました。状況から見てありそうなことにも存じます。しかしその事を確かめようと三度呼びにやりましたが来ませんでした。それで深く心配しているのでございます。畏き天皇「西国では皆が日本の天皇を称えて、畏き天皇(可畏天皇)とする」とある。には何卒お調べ頂きたいと存じます。暫くは救援の兵をお留め頂き、私がご返事奉るまでお待ち頂きたいと存じます」と。
    詔して「使人の申しごとを聞いて憂える所を見れば、日本府と安羅が隣りの難事を救わなかったことは朕も心苦しく思う。また高麗に密使を立てたということは信じるべきではない。朕が命令すれば遣わすであろう。命令せずにどうして勝手にできようか。願わくは王は襟を開き帯を緩めて静かに安らぎ、深く疑い恐れることを止めるように。任那と共に先の勅のままに力を合せて北の敵を防いで各々所領を守るように。朕は若干の人を送り遣わして安羅が逃げて空いた地を埋めよう」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年四月甲子条】
  • 548年8月31日

    帰途に就く。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年閏七月辛未条】