木尹貴 名前 木尹貴【日本書紀】(もくいんき, もくいんくゐ) 尹貴【日本書紀】(いんき, いんくゐ) 生年月日( ~ 529年4月23日) 没年月日(544年1月11日 ~ ) 称号・栄典とても広〜い意味です。下佐平【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年十二月条】 出来事 529年(3月25日 ~ 4月23日) 継体天皇が近江毛野臣を安羅(あら)に遣わした。 勅して新羅に勧めて、更に南加羅(ありひしのから)・喙己呑(とくことん)を建てた。 百済は将軍君(いくさのきみ)尹貴・麻那甲背・麻鹵らを遣わし、安羅に行って詔勅を聴かせた。 新羅は隣国の官家を破ったことを恐れて高貴な人を遣わさずに夫智奈麻礼・奚奈麻礼らを遣わし、安羅に行って詔勅を聴かせた。 安羅は新たに高堂を建てて勅使を上らせた。国主は後に従って階を上った。国内の大臣で昇殿したのは一、二人だった。 百済の使い・将軍君らは堂下にあった。 数ヶ月間、再三堂上で謀議を行ったが、将軍君らは常に堂下にあることを恨んだ。 【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年三月是月条 第二】 544年(1月11日 ~ 2月8日) 聖明王は欽明天皇の任那再建の催促を受け、群臣に策を講じるよう命じた。 この時に上佐平沙宅己婁・徳率東城道天・徳率木刕眯淳・徳率国雖多・奈率燕比善那らと議って言うには「我らの人となりが愚闇で智略もございません。任那再建の詔勅を速やかに承るべきでございます。いま任那の執事(つかさ)・国々の旱岐(かんき)らを呼んで共に謀し、意見を具申して志を表しましょう。また河内直・移那斯・麻都らが猶も安羅(あら)にいるならば任那再建は難しいでしょう。それで併せて上表して、本国へ戻して頂きましょう」と。 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年十二月条】