木刕眯淳

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名前
  • 木刕眯淳【日本書紀】(もくらまいじゅん)
  • 木刕昧淳校異【日本書紀】(もくらまいじゅん)
  • 木劦昧淳校異【日本書紀】(もくきょうまいじゅん, もくけふまいじゅん)
生年月日
( ~ 541年9月5日)
没年月日
(544年1月11日 ~ )
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 奈率なそつ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年七月条】
  • 徳率とくそつ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年十二月条】
出来事
  • 541年(8月8日 ~ 9月5日)

    百済は安羅の日本府と新羅が通じていることを聞いて、前部(ぜんほう)奈率鼻利莫古奈率宣文中部(ちゅうほう)奈率木刕眯淳・紀臣奈率弥麻沙らを安羅に遣わして、新羅に行った任那の執事を呼んで任那の再建を図らせた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年七月条】
  • 544年(1月11日 ~ 2月8日)

    聖明王欽明天皇の任那再建の催促を受け、群臣に策を講じるよう命じた。
    この時に上佐平沙宅己婁徳率鼻利莫古徳率東城道天徳率国雖多奈率燕比善那らと議って言うには「我らの人となりが愚闇で智略もございません。任那再建の詔勅を速やかに承るべきでございます。いま任那の執事(つかさ)・国々の旱岐(かんき)らを呼んで共に謀し、意見を具申して志を表しましょう。また河内直移那斯麻都らが猶も安羅(あら)にいるならば任那再建は難しいでしょう。それで併せて上表して、本国へ戻して頂きましょう」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年十二月条】