- 名前
- 漢風諡号:繼體天皇(けいたいてんのう, けいたいてんわう)継体天皇
- 和風諡号:男大迹天皇【日本書紀】(おおどのすめらみこと, をほどのすめらみこと, おおおどのすめらみこと, をおほどのすめらみこと)
- 男太迹天皇【日本書紀】(おおどのすめらみこと, をほどのすめらみこと, おおおどのすめらみこと, をおほどのすめらみこと)
- 彥太尊【日本書紀】(ひこふとのみこと)彦太尊
- 男大迹王【日本書紀】(おおどのみこ, をほどのみこ)
- 袁本杼命【古事記】(おおどのみこと, をほどのみこと)
- 乎富等大公王【釈日本紀】(おおどのおおきみ, をほどのおほきみ)
- 男太跡天皇【新撰姓氏録抄】(おおどのすめらみこと, をほどのすめらみこと)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 允恭天皇39年
- 没年月日
- 継体天皇25年2月7日
- 父
彦主人王 【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀】
- 母
振媛 【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 第一皇子:
広国排武金日尊 (安閑天皇 )【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:目子媛 】 - 皇子:
武小広国排盾尊 (宣化天皇 )【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:目子媛 】 - 皇子:
天国排開広庭尊 (欽明天皇 )【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月甲子条】【母:手白香皇女 】 - 皇子:
大郎皇子 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:稚子媛 】 - 皇女:
出雲皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:稚子媛 】 - 皇女:
神前皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛 】 - 皇女:
茨田皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛 】 - 皇女:
馬来田皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛 】 - 皇女:
荳角皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:麻績娘子 】 - 皇女:
茨田大娘皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:関媛 】 - 皇女:
白坂活日姫皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:関媛 】 - 皇女:
小野稚郎皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:関媛 】 - 皇女:
大娘子皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:倭媛 】 - 皇子:
椀子皇子 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:倭媛 】 - 皇子:
耳皇子 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:倭媛 】 - 皇女:
赤姫皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:倭媛 】 - 皇女:
稚綾姫皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:荑媛 】 - 皇女:
円娘皇女 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:荑媛 】 - 皇子:
厚皇子 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:荑媛 】 - 皇子:
兎皇子 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛 】 - 皇子:
中皇子 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛 】
- 第一皇子:
- 称号・栄典
- 第26代
天皇
- 第26代
- 出来事
-
允恭天皇39年【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年二月丁未条】
-
武烈天皇8年12月8日
天皇五十七歳のときに小泊瀬天皇が崩じた。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀 武烈天皇八年十二月己亥条】
元より男女無く、後嗣は絶えようとした。 -
武烈天皇8年12月21日
-
継体天皇元年1月4日
-
継体天皇元年1月6日
臣・連らを遣わして
節 を持たせ、御輿を備えて三国 に迎えに行かせた。
兵士で挟み守り、容儀を粛々と整え、先払いしながら到着した。男大迹天皇は安らかに落ち着き、いつものように胡床に坐していた。
陪臣を整列させて、既に帝が坐しているようであった。
節を持つ使いらは、これにより畏まり、心を傾け、命を委ね、忠誠を尽くすことを願った。
しかし天皇は心の裏になお疑いがあり、久しく承知しなかった。たまたま河内馬飼首荒籠を知っていた。密かに使いを遣わして具に大臣・大連らが迎えようとする本意を伝えた。
留まること二日三夜。遂に出発することとなった。
そして嘆いて言うには「よかった、馬飼首よ。お前がもし使いを寄越して知らせてくれなければ、危うく天下に笑われるところであった。世に『貴賤を論うことなかれ。ただその心を重んずべし』と云うのは、荒籠のことをいうのであろう」と。皇位を継ぐに至り、厚く荒籠を寵愛した。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月丙寅条】 -
継体天皇元年1月24日
【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月甲申条】樟葉宮 に至る。 -
継体天皇元年2月4日
大伴金村大連は跪いて天子の
璽符 の鏡・剣を献上して再拝した。
男大迹天皇が辞退して言うには「民を子として国を治めるは重大な事である。私は不才で上に立つには不足である。願わくは思いを巡らせて賢者を選んでほしい。私では不適当である」と。
大伴大連は地に伏して強く請願した。
男大迹天皇は西に向って三度、南に向って二度譲った。
大伴大連らが言うには「私たちが考えるには、大王が民を子として国を治めることが最適でございます。私たちは宗廟社稷の為に、計りごとを軽々しくは致しません。どうか皆の願いをお聞き入れください」と。
男大迹天皇が言うには「大臣 ・大連 ・将相 ・諸々の臣が私を推すのであれば、私も敢えて背くことはしない」と。
そして璽符を受けた。
この日、天皇に即位した。大伴金村大連を大連、許勢男人大臣を大臣、物部麁鹿火大連を大連とすることは元の通りであり、これを以って大臣・大連らを各々職位のままに任じた。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年二月甲午条】-
【古事記 下巻 継体天皇段】伊波礼之玉穂宮 にて天下を治めた。 -
継体天皇元年2月4日
即位に伴い、皇妃を尊んで皇太夫人媛とする。
【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 継体天皇元年二月甲午条】
-
-
継体天皇元年2月10日
-
継体天皇元年3月1日
詔して「神祇を祀るには主が無くてはならない。天下には君が無くてはならない。天は人民を生み、元首を立てて助け養うことを司らせ、生命を全うさせる。大連は朕に後嗣が無いことを憂い、国家に世々忠誠を尽くしている。朕の世のことだけではない。礼儀を備えて手白香皇女をお迎えせよ」と。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月庚申朔条】 -
継体天皇元年3月5日
-
継体天皇元年3月9日
詔して「朕が聞くところによると、男が耕作しなければ、天下はその飢えを受けることがあるという。女が紡績しなければ、天下はその寒を受けるという。それで帝王は自ら耕作して農業を勧め、后妃は自ら養蚕して桑を与える時期を教える。ましてや百寮・万族に至るまで農績を棄ててしまえば富み栄えることは出来ない。司は天下に告げて、朕の思うところを知らしめよ」と。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月戊辰条】 -
継体天皇元年3月14日
八人の妃を召し入れた。
八人の妃を召し入れることは前後にも例があるが、この癸酉の日に召し入れるということは、即位して良い日を占い選んで、初めて後宮を定めたことによって文に起した。元の妃、尾張連草香の女の目子媛は二子を生んだ。皆天下を治めた。
其の一を勾大兄皇子という。これは広国排武金日尊である。
其の二を桧隈高田皇子という。これは武小広国排盾尊である。次の妃、三尾角折君の妹の稚子媛が生んだのは
大郎皇子。
出雲皇女。次に坂田大跨王の女の広媛は三女を生んだ。
長を神前皇女という。
仲を茨田皇女という。
少を馬来田皇女という。次に息長真手王の女の麻績娘子が生んだのは
荳角皇女。これは伊勢大神祠 に侍った。次に茨田連小望の女(あるいは妹という)の関媛は三女を生んだ。
長を茨田大娘皇女という。
仲を白坂活日姫皇女という。
少を小野稚郎皇女という。またの名は長石姫。次に三尾君堅楲の女の倭媛は二男二女を生んだ。
其の一を大娘子皇女という。
其の二を椀子皇子という。これは三国公 の先祖である。
其の三を耳皇子という。
其の四を赤姫皇女という。次に和珥臣河内の女の荑媛は一男二女を生んだ。
其の一を稚綾姫皇女という。
其の二を円娘皇女という。
其の三を厚皇子という。次に根王の女の広媛は二男を生んだ。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
長を兎皇子という。これは酒人公 の先祖である。
少を中皇子という。これは坂田公 の先祖である。-
三尾君 らの祖、名は若比売を娶り、生まれた御子は
大郎子。
次に出雲郎女の二柱。また
尾張連 らの祖、凡連の妹の目子郎女を娶り、生まれた御子は
広国押建金日命。
次に建小広国押楯命の二柱。また意富祁天皇の御子の手白髪命を娶り(これは大后である)、生まれた御子は
天国押波流岐広庭命の一柱。また息長真手王の女の麻組郎女を娶り、生まれた御子は
佐佐宜郎女の一柱。また坂田大俣王の女の黒比売を娶り、生まれた御子は
神前郎女。
次に田郎女。
次に田郎女。
次に白坂活日子郎女。
次に野郎女。またの名は長目比売の二柱。また三尾君加多夫の妹の倭比売を娶り、生まれた御子は
大郎女。
次に丸高王。
次に耳王。
次に赤比売郎女の四柱。また阿倍之波延比売を娶り、生まれた御子は
若屋郎女。
次に都夫良郎女。
次に阿豆王の三柱。この天皇の御子たちはあわせて十九王。男七・女十二。
この中で天国押波流岐広庭命は天下を治めた。
【古事記 下巻 継体天皇段】
次に広国押建金日命は天下を治めた。
次に建小広国押楯命は天下を治めた。
次に佐佐宜王は伊勢神宮を祀った。
-
-
継体天皇2年10月3日
小泊瀬稚鷦鷯天皇を
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二年十月癸丑条】傍丘磐杯丘陵 に葬る。-
継体天皇2年10月3日
【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 継体天皇二年十月癸丑条】傍丘磐坏丘陵 に葬る。
-
-
継体天皇2年12月
南海中の
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二年十二月条】耽羅 人が初めて百済国に通う。 -
継体天皇3年2月
使いを百済に遣わす。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇三年二月条】任那 の日本県邑 に住む、百済から逃亡してきた者、戸籍から漏れた者の三,四世までさかのぼって調べて、百済に送って戸籍をつけた。-
久羅麻致支弥が日本より来たる。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇三年二月条 百済本記云】
-
-
継体天皇5年10月
【日本書紀 巻第十七 継体天皇五年十月条】山背 の筒城 に遷都する。-
継体天皇5年10月
山背に遷都する。筒城宮という。
【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 継体天皇五年十月条】
-
-
継体天皇6年4月6日
穂積臣押山を百済に遣わして筑紫国の馬四十匹を賜る。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年四月丙寅条】 -
継体天皇6年12月
百済が使いを遣わして朝貢した。
別に上表文を奉って任那国の
上哆唎 ・下哆唎 ・娑陀 ・牟婁 の四県を要請した。
哆唎国守 の穂積臣押山が奏上して「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっております。朝夕通いやすく、鶏も犬も分け難いほどでございます。いま百済に賜って合わせて同じ国とすれば、保全の策としてこれに過ぎるものはございません。しかし国を合わせても後世に危うさは残ります。まして境界を異とすれば何年ともたないでしょう」と。
大伴大連金村は詳しくこの言葉を聞いて意見を同じくした。
物部大連麁鹿火を勅使とした。物部大連は難波の館に行って、百済の使いに勅令を伝えようとするときに、その妻が強く言うには「住吉大神は海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを胎中の誉田天皇に授けました。それで大后気長足姫尊と大臣武内宿禰が国毎に
官家 を置いて、海外の垣根としたのです。こうして久しく渡来するようになった由来があります。もし割いて賜わるようなことになれば、元の境界を違えてしまいます。後世の誹りを受けることになりましょう」と。
大連が答えて「言っていることは理に適っているが、それでは勅に背くことになってしまう」と言った。
その妻が強く諌めて「病気と申し上げてしまうのです」と言った。
大連は諌めに従った。こうして勅使を改めた。
賜物と併せて制旨を付けて、上表文に応じて任那の四県を賜った。大兄皇子は先に事情があって国を賜うことに関わらず、後になって勅宣を知った。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年十二月条】
驚き悔いて改めさせようと令して「胎中の帝の御世より官家を置いてきた国を軽々しく隣国の求めのままに容易く賜わってもよいのだろうか」と。
日鷹吉士を遣わして、改めて百済の使いに宣べた。
使者は答えて「父の天皇が便宜をお図りになられ、勅を賜わったことは既に終ったことでございます。子の皇子がどうして帝の勅を違えて妄りに改めて仰るのでしょうか。きっとこれは虚言でしょう。たとえこれが真実であっても、杖の大きい方で打つのと杖の小さい方で打つのとどちらが痛いでしょうか」と言うと退出した。 -
継体天皇7年6月
-
継体天皇7年8月26日
百済の太子淳陀が薨じる。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年八月戊申条】 -
継体天皇7年9月
勾大兄皇子は自ら春日皇女を迎えた。
月夜に清らかに語り合い、思わず夜が明けた。
歌を作る雅な心がすぐに形となり、口ずさんで言うには「
野 絁 磨 倶 儞 都 磨 磨 祁 哿 泥 底 播 屢 比 能 哿 須 我 能 倶 儞 儞 倶 波 絁 謎 鳴 阿 利 等 枳 枳 底 與 慮 志 謎 鳴 阿 利 等 枳 枳 底 莽 紀 佐 倶 避 能 伊 陀 圖 鳴 飫 斯 毗 羅 枳 倭 例 以 梨 魔 志 阿 都 圖 唎 都 麼 怒 唎 絁 底 魔 倶 囉 圖 唎 都 麼 怒 唎 絁 底 伊 慕 我 堤 鳴 倭 例 儞 魔 柯 斯 每 倭 我 堤 嗚 麼 伊 慕 儞 魔 柯 斯 每 麼 左 棄 逗 囉 多 多 企 阿 藏 播 梨 矢 泪 矩 矢 慮 于 魔 伊 禰 矢 度 儞 儞 播 都 等 唎 柯 稽 播 儺 倶 儺 梨 奴 都 等 利 枳 蟻 矢 播 等 余 武 婆 絁 稽 矩 謨 伊 麻 娜 以 幡 孺 底 阿 開 儞 啓 梨 倭 蟻 慕 」と。
妃が答えて歌った。「
【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年九月条】莒 母 唎 矩 能 簸 覩 細 能 哿 波 庾 那 峨 例 倶 屢 駄 開 能 以 矩 美 娜 開 余 嚢 開 謨 等 等 陛 嗚 麼 莒 等 儞 都 倶 唎 須 衞 陛 嗚 麼 府 曳 儞 都 倶 唎 符 企 儺 須 美 母 盧 我 紆 陪 儞 能 朋 梨 陀 𦤶 倭 我 彌 細 麼 都 奴 娑 播 符 以 簸 例 能 伊 開 能 美 那 矢 駄 府 紆 嗚 謨 紆 陪 儞 堤 堤 那 皚 矩 野 須 美 矢 矢 倭 我 於 朋 枳 美 能 於 魔 細 屢 娑 佐 羅 能 美 於 寐 能 武 須 彌 陀 例 駄 例 夜 矢 比 等 母 紆 陪 儞 泥 堤 那 皚 矩 」 -
継体天皇7年11月5日
-
継体天皇7年11月
【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年十一月是月条】伴跛国 が戢支を遣わして珍宝を献上して己汶 の地を乞うたが、終ぞ国は賜らなかった。 -
継体天皇7年12月8日
-
継体天皇8年1月
太子妃春日皇女は朝遅く出てきて異常なところがあった。
太子は疑う心があって殿に入って覗いてみた。妃は床に伏して泣いていた。
悶え苦しんで耐えられない様子だった。
太子は怪しんで「今朝泣いていたが、何の恨みがあるのか」と問うた。
妃が言うには「他ではございません。私が悲しむのは、飛ぶ鳥も子を育てるために木の末に巣を作ります。その愛情が深いからでございます。地を這う虫も子を守るために土の中に穴を掘ります。その守りを厚くします。ましてや人に至れば、どうして考えないで居られましょうか。後継ぎが無い恨みは太子に集まります。私の名も従って絶えてしまうでしょう」と。
太子は心を痛めて天皇に奏上した。詔して「朕の子麻呂古。お前の妃の言葉は深く理に適っている。そんなことはどうでもいいと答えて、慰めることが無くてよいのか。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇八年正月条】匝布屯倉 を賜わり、妃の名を万世に表しなさい」と。 -
継体天皇8年3月
【日本書紀 巻第十七 継体天皇八年三月条】伴跛 が城を子呑 ・帯沙 に築いて満奚 に連ね、烽候 ・邸閣 を置いて日本に備えた。
また城を爾列比 ・麻須比 に築いて麻且奚 ・推封 に渡した。
士卒・兵器を集めて新羅を攻めた。
子女を奪い、村邑を侵掠した。
凶賊が襲撃した所に物が残ることは稀であった。
暴虐をほしいままにして民を悩ませた。
殺害すること甚だ多く、詳しく載せることはできない。 -
継体天皇9年2月4日
-
継体天皇9年2月(4日 ~ 30日)
-
継体天皇9年4月
-
継体天皇10年5月
-
継体天皇10年9月
-
継体天皇12年3月9日
【日本書紀 巻第十七 継体天皇十二年三月甲子条】弟国 に遷都する。 -
継体天皇17年5月
百済国王武寧が薨じる。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇十七年五月条】 -
継体天皇18年1月
百済太子明が即位する。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇十八年正月条】 -
継体天皇20年9月13日
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十年九月己酉条】磐余玉穂 に遷都する。
ある書では七年という。 -
継体天皇21年6月3日
近江毛野臣が兵六万を率いて
任那 に往き、新羅 に破られた南加羅 ・喙己呑 を復興させて任那に合わせようとした。筑紫国造磐井は密かに叛逆を図るも実行せずに年を経た。
事の成り難いことを恐れて常に隙を伺っていた。
新羅はこれを知り、密かに賂を磐井の所に贈って毛野臣の軍を防がせた。磐井は
火国 ・豊国 の二国に勢力を張って職務を行わなかった。
外は海路を遮って高麗・百済・新羅・任那らの国の年貢を積んだ船を欺き、内は任那に遣わされた毛野臣の軍を遮り、みだりに言挙げして「今は使者となっているが、昔は我が友として肩肘擦り合わせて同じ釜の飯を食べた。にわかに使者となって私をお前に従わせる事ができようか」と。
そして交戦して従わず、驕って自らを誇った。
毛野臣は遮られて中途で停滞した。天皇が大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに詔して「筑紫磐井が背いて西戎の地を我が物としている。誰を将とするのが良いか」と。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十一年六月甲午条】
大伴大連らが言うには「正直で仁・勇に勝れ、兵事に通じること麁鹿火の右に出る者はおりません」と。
天皇は「ゆるす」と言った。 -
継体天皇21年8月1日
詔して「大連よ。磐井が従おうとしない。お前が行って征伐せよ」と。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十一年八月辛卯朔条】
物部麁鹿火大連が再拝して言うには「磐井は西戎の奸賊でございます。川の険しさをたよりにして仕え奉らず、山の険しさをたよりにして乱を起こしました。道徳に背き、侮り驕って自分を賢いと思っております。昔道臣より室屋に至るまで帝を助けて戦いました。民の難儀を救うことは、今も昔も変わりません。ただ天の助けを得ることは、私が常に重んじることでございます。よく慎んで討ちましょう」と。
詔して「良将の軍は恩を施し、恵を推し、己を慮って人を治める。攻めること河を割くが如し、戦うこと風の発つが如し」と。
重ねて詔して「大将は民の命を預かる。社稷の存亡はここにある。努めよ。慎んで天罰を与えよ」と。
天皇は自ら斧鉞 を取り、大連に授けて言うには「長門より東は朕が制する。筑紫より西はお前が制せよ。賞罰は思うままに行ってよい。一々奏上することはない」と。 -
継体天皇22年11月11日
大将軍物部大連麁鹿火は賊の首領磐井と筑紫の
御井郡 で交戦した。
旗鼓は向き合い、埃塵入り乱れ、機を両陣の間に定めて万死の地を譲らなかった。遂に磐井を斬って境を定めた。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十二年十一月甲子条】 -
継体天皇22年12月
筑紫君葛子は父に連座して誅されることを恐れ、
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十二年十二月条】糟屋屯倉 を献上して死罪を免れることを請うた。 -
継体天皇23年3月
-
継体天皇23年3月
加羅王が勅使に言うには「この津は官家を置いて以来、私が朝貢するときの寄港地としております。どうしてたやすく隣国に賜わられるのでしょうか。始めに与えられた地と違います」と。
勅使の父根らはこれによって下賜が難しいとして大島に退いた。
別に録史 を遣わして、果して扶余 に遣わした。
これにより加羅は新羅と結んで日本を怨むようになった。加羅王は新羅王の女を娶って子が生まれた。
新羅がはじめ女を送るときに百人を遣わして女の従者とした。これを諸県に分散させて受け入れて新羅の衣冠を着けさせた。
阿利斯等はその服を変えさせたことに憤り、使いを遣わして送り返した。
新羅は面目を失い、女を戻そうとして言うには「そちらの話を受けて私は結婚を許したのだ。このようになるなら王女を返してもらおう」と。
加羅の己富利知伽は答えて「夫婦として合わせて今更どうやって離れることが出来ようか。また子もあり、これを棄ててどこに行けるものか」と。遂に新羅は
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年三月是月条 第一】刀伽 ・古跛 ・布那牟羅 の三城を取り、また北の境の五城を取った。 -
継体天皇23年3月
-
継体天皇23年4月7日
-
継体天皇23年(4月7日 ~ 7月)
使いを遣わして己能末多干岐を送った。
併せて任那にいる近江毛野臣に詔して「奏上するところを問いただして、疑い合っているのを和解させよ」と。毛野臣は
熊川 に宿って新羅・百済の二国の王を召集した。
新羅王佐利遅は久遅布礼を遣わし、百済は恩率弥騰利を遣わして毛野臣の所に赴かせ、二王が自ら参上することはなかった。
毛野臣は激怒して、二国の使いを責めて言うには「小が大に仕えることは天の道である。なぜ二国の王は自ら参集して天皇の勅を承らず、無礼にも使者を遣すのか。もうお前の王が自ら参って勅を承ろうとも、私は勅を伝えずに必ず追い返すであろう」と。
久遅布礼・恩率弥騰利は心に恐怖を抱き、各々帰国して王を呼び寄せた。これにより新羅は改めて上臣伊叱夫礼智干岐を遣わし、兵三千を率いて来て勅を聞きたいと言ってきた。
毛野臣は遥に武器を備えた数千人の兵を見て、熊川から任那の己叱己利城 に入った。伊叱夫礼智干岐は
多多羅原 に宿り、敢えて帰国せずに待つこと三月。
頻りに勅を聞きたいと言ってきたが、ついに伝えることはなかった。
伊叱夫礼智が率いた兵士たちは村落で乞食した。毛野臣の従者の河内馬飼首御狩が立ち寄った。
御狩は他人の門に入って隠れ、乞者が過ぎるのを待ち、腕を捲って遠くから殴る真似をした。
乞者が見て言うには「謹んで三月待ち、ただ勅旨を承ろうと望んだが、一向にお伝え頂けない。勅を承る使者を悩ますということは、騙し欺いて上臣を殺そうとしているのか」と。
そして有様を上臣に詳しく報告した。
上臣は四村を掠め取り(金官 。背伐 。安多 。委陀 。これを四村とする)、人々を率いて本国に入った。あるいは多多羅などの四村が掠め取られたのは、毛野臣の過ちであるという。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年四月是月条】 -
継体天皇23年9月
巨勢男人大臣が薨じる。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年九月条】 -
継体天皇24年2月1日
詔して「磐余彦之帝・水間城之王以来、博識な臣の明哲な補佐を頼りにしてきた。それで道臣は計りごとを陳べ、
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年二月丁未朔条】神日本 が用いて栄えさせた。大彦は計りごとを陳べ、胆瓊殖 が用いて栄えさせた。継体之君 となり、中興の功を立てようとするには、賢哲の謀議に頼らなければならない。小泊瀬天皇が天下を治められてより、幸いにも先の聖を受けて太平な日々は長かったが、人民は段々と眠ったようになり、政も段々と衰えて改まることもなくなった。ただ然るべき人が仲間の協力で進み出ることを待つばかりである。深謀ある者は短所を問わず、才能ある者は失敗を誹謗しない。そうして宗廟を護り、社稷を危ぶめることはしない。これを考えるに優秀な補佐が必要である。朕が帝業を承けて今で二十四年。天下は大平で内外に憂いはない。土地も肥えて穀物の実りもよい。密かに恐れるのは人民がこれに慣れて驕ることである。廉節な士を推挙させ、大道を宣揚し、鴻化を流布し、才ある官吏を用いることは古来より難しいとする。朕の世に至っても慎まなければならない」と。 -
継体天皇24年9月
任那の使いが奏上して「毛野臣は遂に
久斯牟羅 に邸宅を造って留まり住むこと二年。政を怠けております。日本人と任那人との間に生まれた子の帰属についての争いは判決が難しく、そもそも判断する能力もございません。毛野臣は好んで誓湯 させて『真実なら爛れず、虚偽なら必ず爛れる』と言い、熱湯に投げ入れられて爛れ死ぬ者が多いのでございます。また吉備韓子 の那多利・斯布利を殺し、常に人民を悩ませて融和することはございません」と。天皇はその状況を聞き、人を遣わして呼び寄せた。
しかし来ることはなく、そっと河内母樹馬飼首御狩を京 に上らせ、奏上して「勅旨を成さずに京郷 に戻れば、期待されてやってきたのに虚しく帰ることになります。面目ない気持ちをどうにもできません。伏して願います。陛下、国命を成し、入朝し謝罪するまでお待ち頂きたいと存じます」と。奉使の後、また自ら謀って言うには「調吉士は
皇華 の使いである。もし私より先に帰って、あるがままに報告すれば、私の罪は必ず重くなってしまう」と。
それで調吉士を遣わし、兵を率いさせて伊斯枳牟羅城 を守らせた。阿利斯等は小さく煩わしい事をして任務を実行しないことを知り、頻りに帰朝を勧めた。しかし聞き入れることはなかった。
これによりすっかり行状を知って離反の心が生まれ、久礼斯己母を新羅に遣わして兵を求め、奴須久利を百済に遣わして兵を求めた。毛野臣は百済の兵が来ることを聞いて
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年九月条】背評 に迎え討った。背評は地名であり、またの名は能備己富里 という。
死傷者は半ばに達した。
百済は奴須久利を捕えて手枷・足枷・首鏁をつけ、新羅と共に城を囲んだ。
阿利斯等を責め罵り、「毛野臣を出しなさい」と言った。
毛野臣は城に拠り防備を固めた。虜には出来なかった。
二国はその地に滞在して一月となった。
城を築いて帰還した。名付けて久礼牟羅城 という。
帰還する時に道すがら、騰利枳牟羅 ・布那牟羅 ・牟雌枳牟羅 ・阿夫羅 ・久知波多枳 の五城を抜いた。 -
継体天皇24年10月
-
継体天皇24年(10月 ~ 12月)
-
継体天皇25年2月
病が重くなる。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年二月条】 -
継体天皇25年2月7日
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年二月丁未条】磐余玉穂宮 で崩じる。
時に年八十二。-
ある本に云うには、天皇は二十八年甲寅に崩じたという。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年十二月庚子条 或本云】
それをここに二十五年辛亥に崩じたというのは、百済本記によって記事としたからである。
その文に云うには「大歳辛亥三月。進軍して安羅 に至り、乞乇城 を造った。この月に高麗はその王安を殺した。また聞くところによると、日本の天皇は崩じ、太子・皇子も薨じた」と。
これによれば辛亥の歳は二十五年に当たる。
後に勘校する者が明かにするだろう。 -
継体天皇25年2月7日
天皇は大兄を立てて天皇とした。
その日に天皇は崩じた。
【日本書紀 巻第十八 安閑天皇即位前紀 継体天皇二十五年二月丁未条】 -
継体天皇21年4月9日
天皇の御年は四十三歳。
【古事記 下巻 継体天皇段】
丁未年四月九日に崩じた。
-
-
継体天皇25年12月5日
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年十二月庚子条】藍野陵 に葬られる。-
御陵は
【古事記 下巻 継体天皇段】三島之藍御陵 である。
-
-