- 名前
- 漢風諡号:宣化天皇(せんかてんのう, せんくゎてんわう)
- 和風諡号:武小廣國押盾天皇【日本書紀】(たけおひろくにおしたてのすめらみこと, たけをひろくにおしたてのすめらみこと)武小広国押盾天皇
- 武小廣國排盾尊【日本書紀】(たけおひろくにおしたてのみこと, たけをひろくにおしたてのみこと)武小広国排盾尊
- 武小廣排盾尊【日本書紀】(たけおひろおしたてのみこと, たけをひろおしたてのみこと)武小広排盾尊
- 檜隈高田皇子【日本書紀】(ひのくまのたかたのみこ)桧隈高田皇子
- 建小廣國押楯命【古事記】(たけおひろくにおしたてのみこと, たけをひろくにおしたてのみこと)建小広国押楯命
- 建小廣國押建命【古事記】(たけおひろくにおしたけのみこと, たけをひろくにおしたけのみこと)建小広国押建命
- 檜坰天皇【古事記】(ひのくまのすめらみこと)桧坰天皇
- 檜隈高向皇子【先代旧事本紀】桧隈高向皇子
- 武小廣押盾尊【先代旧事本紀】武小広押盾尊
- 武小廣楯后尊【先代旧事本紀】武小広楯后尊
- 檜隈高田武小廣國押盾尊【先代旧事本紀】(ひのくまたかたのたけおひろおしたてのみこと, ひのくまたかたのたけをひろおしたてのみこと)桧隈高田武小広国押盾尊
- 檜隈高田武小廣楯后尊【先代旧事本紀】桧隈高田武小広楯后尊
- 檜隈高向武小廣押后尊【先代旧事本紀】桧隈高向武小広押后尊
- 武小廣國押盾尊【先代旧事本紀】(たけおひろくにおしたてのみこと, たけをひろくにおしたてのみこと)武小広国押盾尊
- 檜隈高田天皇【日本書紀】(ひのくまのたかたのすめらみこと)桧隈高田天皇
- 檜隈宮御寓天皇【日本書紀】(ひのくまのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)桧隈宮御寓天皇
- 檜隈天皇【日本書紀】(ひのくまのすめらみこと)桧隈天皇
- 檜前天皇【上宮聖徳法王帝説】(ひのくまのすめらみこと)桧前天皇
- 檜前廬入宮御宇天皇【先代旧事本紀】(ひのくまのいおりのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, ひのくまのいほりのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)桧前廬入宮御宇天皇
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 継体天皇25年2月7日)
- 没年月日
- 宣化天皇4年2月10日
- 父
継体天皇 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
- 母
目子媛 【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 皇女:
石姫皇女 (石比売命 )【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年三月己酉条, 古事記 下巻 宣化天皇段】【母:橘仲皇女 】 - 皇女:
小石姫皇女 (小石比売命 )【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年三月己酉条, 古事記 下巻 宣化天皇段】【母:橘仲皇女 】 - 皇女:
倉稚綾姫皇女 (倉之若江王 )【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年三月己酉条, 古事記 下巻 宣化天皇段】【母:橘仲皇女 】 - 皇子:
上殖葉皇子 (恵波王 )【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年三月己酉条, 古事記 下巻 宣化天皇段】【母:橘仲皇女 】 - 皇子:
火焔皇子 (火穂王 )【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年三月己酉条, 古事記 下巻 宣化天皇段】【母:大河内稚子媛 】 - 皇女:
日影皇女 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:不明】 - 皇子:
宅部皇子 【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月辛亥条】【母:不明】
- 皇女:
- 称号・栄典
- 第28代
天皇
- 第28代
- 出来事
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継体天皇25年2月7日
継体天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年二月丁未条】 -
安閑天皇2年12月(17日 ~ 30日)【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年十二月己丑条】
勾大兄広国押武金日天皇が崩じた。後嗣は無かった。
群臣が奏上して剣・鏡を武小広国押盾尊に奉り、天皇に即位した。この天皇の人となりは清く通り、御心は明かに優れていた。
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇即位前紀 安閑天皇二年十二月条】
才能・地位を以って人に矜ることはなく、王者らしい顔をせず、君子の順うところであった。 -
宣化天皇元年1月
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年正月条】桧隈廬入野 に遷都する。よって宮の名とする。-
【古事記 下巻 宣化天皇段】桧坰之廬入野宮 にて天下を治めた。 -
宣化天皇元年1月
【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 宣化天皇元年正月条】桧前 に遷都する。廬入野宮 という。
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宣化天皇元年2月1日
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宣化天皇元年3月1日
有司が皇后を立てることを請う。
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年三月壬寅朔条】 -
宣化天皇元年3月8日
詔して「前の正妃、億計天皇の女の橘仲皇女を立てて皇后とする」と。
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年三月己酉条】
これが一男三女を生んだ。
長を石姫皇女という。
次を小石姫皇女という。
次を倉稚綾姫皇女という。
次を上殖葉皇子という。またの名は椀子。これは丹比公 ・偉那公 の二姓の先祖である。 -
宣化天皇元年5月1日
詔して「食は天下の本である。黄金が万貫あろうとも飢えを癒すことは出来ない。真珠が千箱あろうとも、どうして凍えるのを救えようか。筑紫国は遠近の国が朝貢してくる所であり、往来の関門とする所である。それで海外の国は潮の流れや天候を観察して貢ぎを奉る。胎中の帝から朕に至るまで籾種を収めて穀物を蓄えた。凶年に備えて賓客を厚くもてなした。国を安んずるにはこれに過ぎるものは無い。それで朕は
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年五月辛丑朔条】阿蘇仍君 を遣わして、河内国の茨田郡 の屯倉 の籾を運ばせよう。蘇我大臣稲目宿禰は尾張連 を遣わして、尾張国の屯倉の籾を運ばせなさい。物部大連麁鹿火は新家連 を遣わして新家の屯倉の籾を運ばせなさい。阿倍臣は伊賀臣 を遣わして伊賀国の屯倉の籾を運ばせなさい。官家 を那津之口 に造りなさい。また筑紫・肥・豊の三国の屯倉は離れていて運ぶには遠い。もし必要となる場合に、急に備えることは難しい。諸郡に命じて分け移し、那津之口に集めて建てて非常時に備えて民の命を守りなさい。早く郡・県に命じて朕の心を知らしめなさい」と。 -
宣化天皇元年7月
物部麁鹿火大連が薨じる。
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年七月条】 -
宣化天皇2年10月1日
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宣化天皇4年2月10日
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇四年二月甲午条】桧隈廬入野宮 で崩じる。
時に年七十三。-
宣化天皇4年10月
崩じる。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇即位前紀 宣化天皇四年十月条】
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宣化天皇4年11月17日
大倭国身狭桃花鳥坂上陵 に葬られる。皇后橘皇女及びその
【日本書紀 巻第十八 宣化天皇四年十一月丙寅条】孺子 も、この陵に合葬した。