物部至至

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名前
  • 氏(ウジ):物部【日本書紀】(も
  • 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
  • 名:至至日本書紀本文には『闕名』とある。【日本書紀】(ちち)
生年月日
( ~ 継体天皇9年2月4日)
没年月日
(継体天皇10年9月1日 ~ )
出来事
  • 継体天皇9年2月4日

    継体天皇の命令で百済の使者文貴将軍らを帰国させる。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇九年二月丁丑条】
  • 継体天皇9年2月(4日 ~ 30日)

    沙都島(さとせま)巨済島に至る。
    伝え聞くところによると、伴跛(はへ)の人は恨みを抱き、悪事を図り、力を恃みに邪なことをほしいままにした。
    それで物部連は水軍五百を率いて直ちに帯沙江(たさのえ)に赴いた。
    文貴将軍は新羅を通って帰国した。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇九年二月是月条】
  • 継体天皇9年4月

    物部連は帯沙江(たさのえ)に六日間留まった。
    伴跛は兵を起こして攻めてきた。衣類を剥ぎ取り、持物を奪い、全ての帷幕を焼いた。
    物部連らは恐怖して逃遁した。
    命からがら汶慕羅(もんもら)に辿り着いた。汶慕羅は島の名である。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇九年四月条】
  • 継体天皇10年5月

    百済が前部木刕不麻甲背を遣わして、物部連らを己汶(こもん)で迎えて労い、国に引き入れた。
    群臣はそれぞれ衣裳・斧鉄・帛布を出し、国の産物に加えて朝廷に積み置いた。
    慰問は慇懃で賞禄は優れていた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇十年五月条】
  • 継体天皇10年9月

    百済が州利即次将軍を遣わして、物部連に副えて渡来させ、己汶(こもん)の地を賜わったことを感謝した。

    別に五経博士漢高安茂を献上して、博士段楊爾の代わりとしたいと願い出たので、願いのままに代えさせた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇十年九月条】
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