名前
  • 二首位訖乾智【日本書紀】(にしゅいこちげんち, にしゅゐこちげんち)
生年月日
( ~ 544年12月29日)
没年月日
(544年11月30日 ~ )
出来事
  • 544年(11月30日 ~ 12月29日)

    百済が使いを遣わして、日本府の臣と任那の執事を呼んで言うには「天皇に遣わした奈率得文許勢奈率奇麻物部奈率奇非らが日本から帰還した。日本府の臣と任那国の執事は来て勅を承り、一緒に任那と相談するように」と。

    日本の吉備臣・安羅の下旱岐大不孫久取柔利・加羅の上首位古殿奚卒麻君(そちまのきし)斯二岐君(しにきのきし)散半奚君(さんはんげのきし)の子、多羅の二首位訖乾智・子他の旱岐・久嵯の旱岐が百済に赴いた。

    百済王聖明が詔書を示して言うには「私が遣わした奈率弥麻佐奈率己連奈率用奇多らは日本に参朝して『速やかに任那を建てよ』と詔を承った。また津守連が勅を承って任那のことを問われた。それで使いを遣わして呼んだのだ。さて如何にして任那を建てようか。どうかそれぞれの計画を述べてほしい」と。
    吉備臣・任那の旱岐らが言うには「任那国を建てるのは大王の決意にかかっています。王に従って共に勅を承ります」と。
    聖明王が言うには「任那の国と我が百済は古来より子弟のような間柄である。日本府の印岐弥「任那にいる日本の臣の名である」とある。は既に新羅を討ち、さらに私を討とうとしている。また好んで新羅の虚言を聞いている。印岐弥を任那に遣わしたのは、その国を侵害するためではない「未詳」とある。。古来より新羅は無道で言葉を偽り、信を違えて卓淳を滅ぼした。助け合おうとしても、かえって後悔してしまうだろう。それで皆を呼んで共に恩詔を承り、任那の国を興して元のように永く兄弟でありたいと思う。聞くところによると新羅・安羅の両国の境には大河があり、要害の地であるという。私はここを拠点として六つの城を造ろうと思う。天皇に三千の兵士を請い、城ごとに五百を充て、我が兵士も併せ、耕作出来ないように煩わせてやれば、久礼山(くれむれ)の五城は自ずから兵を捨てて投降するであろう。卓淳の国もまた復興するであろう。兵士には私から衣食を給しよう。これが天皇に奏上しようと思う策の一つである。なお南韓(ありひしのから)郡令(こおりのつかさ)城主(きのつかさ)を置くことが、どうして天皇に違背して朝貢の道を絶ってしまうことになるのか。願いは多難を救って強敵を殲滅することである。およそその凶党は誰かに従うことを考えているであろう。北の敵は強大で、我が国は微弱である。もし南韓に郡領・城主の守りを置かなければ、この強敵を防ぐことは出来ない。また新羅を制することも出来ない。それで新羅を攻めて任那を保つのである。もしそうでなければ、恐らくは滅ぼされて参朝も出来なくなるということを天皇に奏上したいと思う。これが策の第二である。また吉備臣欽明天皇五年三月条では吉備臣も排除の対象にしていたが、ここでは本人が策に賛同しているので、同じく名前の挙がっていた的臣の誤りと思われる。河内直移那斯麻都が猶も任那国にいれば、天皇の任那を建てよという詔を実行できない。この四人をそれぞれの本貫へ移して頂くことを天皇に奏上したいと思う。これが第三の策である。日本の臣と任那の旱岐らと共に使いを遣わして、同じく天皇に奏上して恩詔を賜るようにお願いせよ」と。
    吉備臣・旱岐らが言うには「大王の述べられた三つの策は我々の心情にも適うものです。願わくは慎んで日本の大臣「任那にある日本府の大臣をいう」とある。・安羅王・加羅王にも申し上げて、共に使いを遣わして同じく天皇に奏上したいと思います。これは千載一遇の時であり、深謀遠慮しなくてはなりません」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年十一月条】