名前
  • 威德王【日本書紀】(いとくおう, ゐとくわう)威徳王
  • 盛德王校異【日本書紀】盛徳王
  • 餘昌【日本書紀】(よしょう, よしゃう)余昌
  • 聖明王せいめいおう【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年十月己酉条】
先祖
  1. 聖明王
  2. unknown
  • 阿佐あさ【日本書紀 巻第二十二 推古天皇五年四月丁丑朔条】【母:不明】
子孫
  1. 阿佐
出来事
  • ・・・
    • (526年1月29日 ~ 527年2月16日)欽明天皇十四年十月己酉条の年二十九という記述から逆算。【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年十月己酉条】

      聖明王の王子として生まれる。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年十月己酉条】
  • ・・・
    • 553年11月11日

      百済の王子余昌「明の王子、威徳王である」とある。は国内全ての兵を発して高麗(こま)国に向った。
      百合野塞(ゆりののそこ)を築いて兵士と寝食を共にした。
      夕方に遥に見渡すと、大野は肥え、平原は広くのび、人跡はまれに見えて犬の声を聞くこともない。
      にわかに鼓笛の音が聞こえた。
      余昌は大いに驚き、鼓を打って応えた。
      夜通し固く守り、薄明るくなってから広野の中を見ると、青山が覆うように旗が充満していた。

      明けがた頸鎧(あかのへのよろい)頸部を守る鎧状の防具。を着けた者が一騎、(くすび)軍中で用いる小さな銅鑼。を挿した者が二騎、豹尾(なかつかみのお)を挿した者が二騎、合わせて五騎が轡を並べてやってきて、尋ねて言うには「部下たちが『我が野の中に客人がいます』と言っております。お迎えしないわけにはいきません。願わくは礼を以って応答される人の姓名・年・位を知りたいと思います」と。
      余昌は答えて「姓は同姓高麗国王の姓に同じの意か。諸書では百済王室は高麗(高句麗)またはその祖である扶余(夫余)から出たとする。。位は杆率(かんそち)百済の官位十六階の第五。。年は二十九」と。
      百済が反対に尋ねると、また前の法のように答えた。

      遂に旗を立てて合戦となった。

      百済は鉾で高麗の勇士を馬から刺し落して斬首した。
      そして鉾の先に頭を刺し挙げて皆に示した。
      高麗の軍将は憤怒すること甚だしかった。
      この時の百済の歓声は天地を裂くほどであった。
      またその副将は鼓を打って激しく戦い、高麗王を東聖山の上に追い退けた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年十月己酉条】
  • ・・・
    • 555年(1月9日 ~ 2月6日)

      余昌は新羅討伐を謀った。
      老臣は「天は未だ味方しておらず、恐らく禍が及びましょう」と諫めた。
      余昌が言うには「老人よ、何を怯えている。我々は大国に仕えている。何を恐れることがあるか」と。

      遂に新羅国に入って久陀牟羅塞(くだむらのそこ)を築いた。
      その父明王は余昌が長い戦いに苦しんで寝食も足りていないことを憂慮した。
      父の慈愛に欠けることも多く、子としての孝を果たすことは難しい思った。そこで自ら出向いて労った。
      新羅は明王が来たことを聞いて国中の兵を起し、道を断って撃ち破った。
      この時に新羅は佐知村(さちすき)飼馬奴(うまかいやっこ)苦都、またの名は谷智に言うには「苦都は賤しい奴である。明王は名のある主である。賤しい奴を使って名のある主を殺そう。後世に伝わって人々の口から忘れることがないであろう」と。
      苦都明王を捕え、再拝して「王の首を斬ります」と言った。
      明王は答えて「王の頭は奴の手にかかってはならない」と言った。
      苦都は「我が国の法では盟に背けば国王と雖も奴の手にかかります」と言った。

      明王は天を仰いで嘆息して涙を流した。許して言うには「常に痛みが骨髄まで達するほどの思いをしてきたが、考えてもどうしようもない」と。そして首を伸ばした。
      苦都は首を斬って殺し、穴を堀って埋めた。

      余昌は遂に囲まれて脱出できなかった。兵は慌てて成す術を知らなかった。
      弓の名人に筑紫国造という者がいた。進み出て弓を引き、狙いを定め、新羅の騎卒で最も勇壮な者を射落とした。
      発した矢の鋭いことは、鞍の前後の(くらぼね)を射抜いて(よろい)の襟に及んだ。
      また続けて発した矢は雨の如く激しさを増して止まらず、包囲していた軍は退却した。

      これにより余昌及び諸将らは間道より逃げ帰ることが出来た。
      余昌は国造の射撃で包囲軍を退却させたことを讃え、尊んで鞍橋君と名付けた。

      新羅の将らは百済が疲れきっていることを知り、全滅させるために相談した。
      一人の将が言うには「してはなりません。日本の天皇は任那の事で、しばしば我が国を攻めました。ましてや百済の官家を滅ぼそうとすれば、必ず後の患いを招きます」と。
      それで中止した。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条】
    • 明王は胡床に乗り、佩いていた刀を解き、谷知に授けて斬らせた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条 一本云】
    • 新羅は明王の頭骨を収め、礼を以って残りの骨を百済に送った。
      新羅王は明王の骨を北庁の階下に埋めた。この庁を都堂(とどう)未詳。と名付けた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条 一本云】
  • ・・・
    • 555年(3月9日 ~ 4月6日)

      百済の王子余昌が王子「王子恵は威徳王の弟である」とある。を遣わして「聖明王は賊の為に殺されました」と奏上した。
      天皇は聞いて傷み恨んだ。使者を遣わして難波津か。に迎えて慰問させた。

      許勢臣名は不明。は王子に「ここに留まりますか。それとも本国へ向われますか」と問うた。
      は答えて「天皇の徳に頼って父王の仇を報いたいと思います。もし哀れみを垂れて多くの武器を賜れば、恥を雪ぎ、仇を報いることが臣の願いです。臣の去就は、ただ命に従うのみです」と。

      しばらくして蘇我臣名は不明。が尋ねて「聖王は天道地理を悟り、名は四方八方に知られていた。永く安寧を保ち、海外諸国を統べ治め、千年万年と天皇にお仕えすると思っていたが、思いがけないことになってしまった。にわかに遥かに別れ、水が帰らぬように、玄室(くらきや)にお休みされるとは。何という痛酷の甚だしさよ。何という悲哀の甚だしさよ。心のある者に悼まない者があろうか。もしや何かの咎でこの禍を招いたのか。今また何の策を用いて国家を鎮められようか」と。
      が答えて「臣は暗愚で大計を知りません。ましてや禍・福に因るところや国家の存亡などと」と。
      蘇我卿が言うには「昔、大泊瀬の天皇の御世に汝の国が高麗の為に攻められたことの危うさは累卵のようでありました。天皇が神祇伯(かみつかさのかみ)に仰せ付けられて、策を神祇にお尋ねになられた。祝者(はふり)が神の言葉を告げて『(くに)を建てた神を屈請し、亡ぼうとする主を救えば、必ず国家は静まり、人民もまた安らぐであろう』と言った。これによって神をお招きし、行かれてお救いになった。それで国家は安らいだのです。原ねてみれば邦を建てし神とは、天地が分れた頃、草木も物語した時に、天から降られて国家をお造りになった神です。聞くところによると、あなたの国は祀ることをしないといいますが、まさに今、以前の過ちを悔いて神の宮を修理し、神の御霊をお祭りすれば、国家は栄えるでしょう。あなたはこれを忘れてはなりません」と。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十六年二月条】
  • ・・・
    • 555年(2日 ~ 30日)

      百済の余昌が諸臣らに言うには「少子(やつかれ)が今願うのは、父王の為に出家して修道することである」と。
      諸臣・人民が答えて言うには「君王が出家して修道したいと思うということは、教えを奉じられてしまうのでしょうか。ああ前の思慮不足が後の大患となったのは誰の過ちでしょう。百済国は高麗・新羅が争って滅ぼそうとしています。国を開いてこの年に至り、今この国の宗廟を何れの国に授けるというのでしょう。あるべき道理を明かにお教え下さい。もしよく老人の言葉を用いられれば、どうしてこのようになりましょうか。どうか前の過ちを改めて出家はお止め下さい。もし願いを果そうとお思いであれば国民を得度させるべきです」と。
      余昌は「もっともである」と答えた。
      即ち臣下に図った。

      臣下は相談して、百人を得度させ、多くの幡蓋(はたきぬがさ)を造り、種々の功徳を云々百済の文献からの引用か。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十六年八月条】
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    • 556年(1月28日 ~ 2月25日)

      百済の王子が帰国を願い出た。
      よって多くの兵仗・良馬を賜り、また賞禄も多く、衆人は感嘆した。
      阿倍臣(あべのおみ)佐伯連(さえきのむらじ)播磨直(はりまのあたい)を遣わし、筑紫国の軍船を率いて国まで護送させた。

      別に筑紫火君「百済本記に云う。筑紫君の子、火中君の弟」とある。筑紫君が誰を指すのか不明。筑紫葛子または筑紫磐井か。それとも別の誰かか。を遣わして勇士一千を率いて弥弖(みて)「弥弖は津の名」とある。に護送させ、津の路の要害の地を守らせた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十七年正月条】
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    • 557年4月15日

      百済の王子余昌が王位を嗣いだ。これを威徳王という。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十八年三月庚子朔条】
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    • 597年4月22日

      百済王が王子阿佐を遣わして朝貢する。

      【日本書紀 巻第二十二 推古天皇五年四月丁丑朔条】