吉備品遅部雄鯽
- 名前
- 吉備品遲部雄鯽【日本書紀】(きびのほんちべのおふな, きびのほむちべのをふな)吉備品遅部雄鯽
- 雄鯽【日本書紀】(おふな, をふな)
- 生年月日
- ( ~ 仁徳天皇40年2月30日)
- 没年月日
- (仁徳天皇40年2月1日 ~ )
- 出来事
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仁徳天皇40年2月三月とする写本あり。
天皇は隼別皇子が逃走したと聞いて、吉備品遅部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡を遣わして「後を追って捕えたら、ただちに殺せ」と言った。
皇后八田皇女は「雌鳥皇女は重罪に当たります。しかし殺すときに皇女の身を露わにすることは望みません」と言った。
そこで雄鯽らに勅して「皇女が身につけている足玉・手玉を取ってはいけない」と言った。
雄鯽らは追って菟田 に至り、素珥山 に迫った。
この時に皇子たちは草の中に隠れて僅かに免れることができた。そして急いで逃げて山を越えた。
ここで皇子が歌を詠んだ。「
破 始 多 氐 能 佐 餓 始 枳 揶 摩 茂 和 藝 毛 古 等 赴 駄 利 古 喩 例 麼 揶 須 武 志 呂 箇 茂 」雄鯽らは逃げられたことを知り、急ぎ追って伊勢の
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇四十年二月条】蒋代野 で殺した。
時に雄鯽らは皇女の玉を探して、裳の中から見つけて取った。
そして二王の屍は廬杵河 のほとりに埋めて復命した。
皇后が雄鯽らに「もしや皇女の玉を見ていませんか」と問うと、「見ませんでした」と答えた。
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- 関連
山部大楯 古事記で女鳥王(雌鳥皇女)の玉を取り、死罪になる。