茨田衫子

名前
  • 氏(ウジ):茨田【日本書紀】(まんた, まむた)
  • 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
  • 名:衫子【日本書紀】衫子。此云莒呂母能古。
  • 筥呂母能古【新撰姓氏録抄】(こ
生年月日
( ~ 仁徳天皇11年10月29日)
没年月日
(仁徳天皇11年10月1日 ~ )
出来事
  • 仁徳天皇11年10月

    仁徳天皇茨田堤(まんだのつつみ)を築いた。
    この時、築いても崩れて防ぎがたい所が二ヶ所あった。

    時に天皇は夢を見て、現れた神が教えるには「武蔵の人強頸・河内の人茨田連衫子の二人を河の神に祭れば、必ずや防ぐことが出来るであろう」と。
    そこで二人を探して、河の神に祭った。
    強頸は泣き悲しんで、水に入って死んだ。その堤は完成した。
    ただ衫子は丸い(ひさご)を二個取って防ぎがたい河に臨み、二個の匏を水の中に投げ入れて言うには「河の神が崇るので、神への供え物として私はやってきた。私を得たければ、この匏を沈めて浮かばないようにしてみせよ。そうすれば私は真の神と知って水の中に入ろう。もし匏を沈められなければ、偽りの神と知って我が身を亡ぼすことはない」と。
    すると忽ちにつむじ風が起こり、匏を水に引き沈めようとしたが、匏は浪の上を転がるだけで沈むことはなく、速い流れの中を浮き躍りながら遠くへ流れていった。
    これによって衫子は死ぬことはなかったが、その堤は完成した。
    これは衫子の才智がその身を亡ぼさなかったのである。
    それで時の人がその二ヶ所を名付けて強頸断間(こわくびのたえま)衫子断間(ころものこのたえま)というのである。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十一年十月条】
    • (仁徳天皇元年1月3日 ~ 仁徳天皇87年1月16日)

      仁徳天皇の御代に茨田堤(まんだのつつみ)を造った。

      【新撰姓氏録抄 第一帙 第九巻 河内国皇別 茨田宿禰条】
関連
  • 先祖:彦八井耳命ひこやいみみのみこと【新撰姓氏録抄 第一帙 第九巻 河内国皇別 茨田宿禰条】
  • 野現宿禰のみのすくね茨田堤を造ったのは「(彦八井耳命の後裔)筥呂母能古」と「(彦八井耳命の男子)野現宿禰」とする写本がある。仁徳天皇の御世だとすると彦八井耳命の子は年代的に誤り。【新撰姓氏録抄 第一帙 第九巻 河内国皇別 茨田宿禰条】