田道
- 名前
- 田道【日本書紀】(たじ, たぢ)
- 田道公【新撰姓氏録抄】(たじのきみ, たぢのきみ)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 仁徳天皇53年5月30日)
- 没年月日
- 仁徳天皇55年
- 親
荒田別命 【新撰姓氏録抄 第一帙 第九巻 河内国皇別 止美連条】
- 先祖
- 子
持君 【新撰姓氏録抄 第一帙 第九巻 河内国皇別 止美連条】【母:不明】
- 出来事
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仁徳天皇53年5月
仁徳天皇は竹葉瀬を遣わして新羅が朝貢しないことを問うた。
その途上で白鹿を捕えたので、帰還して天皇に献上した。さらにまた日を改めて出発した。
しばらくして竹葉瀬の弟の田道を重ねて遣わした。
そして「もし新羅が抵抗したら、兵を挙げて討て」と詔して精兵を授けた。新羅は兵を起こして防いだ。新羅人は毎日戦いを挑んだ。
田道は守りを固くしてそこから出なかった。時に新羅の軍卒一人が陣営の外に出たので捕えた。
そして様子を尋ねると、「力の強い人がいて、百衝といいます。身軽で速く、勇猛です。つねに軍の右前鋒にいるので、左を攻めれば敗れるでしょう」と答えた。時に新羅は左を空けて右に備えた。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇五十三年五月条】
田道は精鋭の騎馬を連ねて、その左を攻めると新羅軍は潰走した。
勢いに乗じて攻め、数百人を殺した。
そして四つの邑の人民を捕虜として帰還した。 -
田道公は百済国に遣わされた。
【新撰姓氏録抄 第一帙 第九巻 河内国皇別 止美連条】
止美邑 の呉 の女を娶り、男子持君が生まれた。 -
仁徳天皇55年
蝦夷が叛いた。
仁徳天皇は田道を遣わして討たせたが、蝦夷に敗れて
伊峙水門 で死んだ。
この時に従者が田道の手に巻いていた玉を取り、その妻に与えた。妻はその玉を抱いて縊死した。
時の人はこれを聞いて涙を流した。この後、蝦夷がまた人民を襲った。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇五十五年条】
そして田道の墓を掘った。
すると大蛇がいて、目を怒らして墓から出て喰いついた。
蝦夷のほとんどが蛇の毒を受け、多くが死亡した。ただ一人二人が免れただけだった。
それで時の人が言うには「田道は既に亡くなっているが、遂に復讐した。死人でもよく知っているものだ」と。
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- 関連
- 兄:
竹葉瀬 【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇五十三年五月条】
- 兄: