誉津別命

  • twitterでツイートする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
名前
  • 譽津別命【日本書紀】(ほんつわけのみこと, ほむつわ)誉津別命
  • 譽津別王【日本書紀】(ほんつわけのみこ, ほむつわ)誉津別王
  • 譽津別皇子【日本書紀】(ほんつわけのみこ, ほむつわ)誉津別皇子
  • 品牟都和氣命【古事記】(ほんつわけのみこと, ほむつわ)品牟都和気命
  • 本牟智和氣御子【古事記】(ほんちわけのみこ, ほむちわ)本牟智和気御子
  • 譽津別王子【先代旧事本紀】(ほんつわけのみこ, ほむつわ)誉津別王子
性別
男性
生年月日
崇神天皇62年
没年月日
(垂仁天皇23年11月2日 ~ )
  • 垂仁天皇すいにんてんのう【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年二月己卯条】
  • 狭穂姫さほひめ【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年二月己卯条】
先祖
  1. 垂仁天皇
    1. 崇神天皇
      1. 開化天皇
      2. 伊香色謎命
    2. 御間城姫
      1. 大彦命
      2. unknown
  2. 狭穂姫
    1. 日子坐王
      1. 開化天皇
      2. 姥津媛
    2. 沙本之大闇見戸売
      1. unknown
      2. 春日建国勝戸売
出来事
  • 崇神天皇62年日本書紀の垂仁天皇二十三年の記事にある年30歳の記述から判断。

    垂仁天皇の第一皇子として生まれる。母は狭穂姫
    天皇はこの子を愛し、常に側においた。しかし大きくなっても言葉を発することが無かった。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年二月己卯条】
  • 垂仁天皇5年10月1日

    母の兄の狭穂彦王が反乱して城にこもった際に、母に抱かれてその城に入る。
    その後に救出されるが、母は燃える城の中で兄と共に死んだ。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇五年十月己卯朔条】
    • 沙本毘売命は兄を思うに堪えず、裏門から逃げ出て、その稲城の中に入った。このとき后は懐妊していた。
      天皇は后が懐妊していること、また寵愛すること三年になるので、堪えがたい思いをした。それでその軍勢で取り囲ませたが、急には攻めさせなかった。
      こうして戦いが停滞している間に御子が産まれた。
      それでその御子を出して稲城の外に置き、天皇に言うには「もしこの御子を天皇の御子と思し召すならば、お育て頂きたく存じます」と。
      天皇は「兄を恨んではいるが、后が愛おしくて忍びない」と言った。これは后を取り返す心があるためである。
      そこで軍の中から力が強く、敏捷な者を選び集めて言うには「御子を取り返す時に、その母王も奪い取りなさい。髪であろうと、手であろうと、取れるものはすべて掴んで引き出しなさい」と。
      后はその情を予知して、その髪を全て剃り、その髪で頭を覆い、玉緒を腐らせて三重に手に巻き、また酒で衣を腐らせて、それを完全な衣服のようにした。
      このように準備して、その御子を抱いて城外に出た。
      そこで力の強い者らがその御子を受け取ると、その母を捕えようとした。しかしその髪を握ると髪は落ち、その手を握ると玉緒が切れ、その衣を握ると衣は破けた。それでその御子は受け取ることが出来たが、その母は捕えることは出来なかった。
      兵士達は帰還して、「御髪は自然に落ち、御衣は容易く破れ、また御手に巻かれた玉緒も切れてしまい、それで御祖は捕えられずに、御子だけは取り返すことが出来ました」と報告した。

      また天皇は、后に命じて言うには「およそ子の名は必ず母が名付ける。この子の御名は何と付けたら良いか」と。答えて「今、火が稲城を焼くときに火中で生まれました。だからその御名は本牟智和気御子と名付けます」と。また命じて言うには「どうのように養育したら良いか」と。答えて「乳母を取り、大湯坐(おおゆえ)若湯坐(わかゆえ)を定めて御養育して頂きたく存じます」と。それでその后の言葉に従って養育した。

      遂にその沙本比古王を殺した。その妹もまた殉じた。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇23年9月2日

    垂仁天皇が群卿に詔して「誉津別王は生まれて既に三十年。長いあご髭が伸びているのに赤子のように泣いている。言葉を発することもないのはなぜだ。皆で考えてくれ」と。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十三年九月丁卯条】
  • 垂仁天皇23年10月8日

    天皇は大殿の前に立ち、誉津別皇子は側にいた。
    時に(くぐい)白鳥が大空を飛んだ。
    皇子は鵠を仰ぎ見て「あれは何者か」と言った。
    天皇は皇子が鵠を見て言葉を発したことを喜んだ。そして側の者に詔して「誰かあの鳥を捕えよ」と言った。
    天湯河板挙が「私が必ず捕えてご覧に入れましょう」と言った。
    天皇は湯河板挙に勅して「お前があの鳥を献上すれば、必ず褒美を与えよう」と言った。
    湯河板挙は鵠が飛んでいった方に追って出雲で捕獲した。あるいは但馬国で捕えたという。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十三年十月壬申条】
    • 垂仁天皇が尾張の相津(あいづ)にある二股の杉で二股の小舟を作って持ち運び、(やまと)市師池(いちしのいけ)軽池(かるのいけ)に浮かべて、その御子と一緒に遊んだ。
      この御子は(あごひげ)が胸元に届くようになっても物を言わなかったが、空高く飛ぶ(くぐい)の音を聞いて、はじめて物を言おうとした。
      そこで山辺之大鶙を遣わして、その鳥を捕まえさせた。
      この人はその鵠を追って木国(きのくに)から針間国(はりまのくに)に至り、また追って稲羽国(いなばのくに)を越え、旦波国(たにわのくに)多遅麻国(たじまのくに)に至り、東の方に追い廻って近淡海国(ちかつおうみのくに)に至り、三野国(みののくに)を越え、尾張国(おわりのくに)を伝って科野国(しなののくに)に追い、遂に高志国(こしのくに)に追い至り、和那美(わなみ)の水門に網を張り、その鳥を捕まえて献上した。それでその水門を名付けて和那美の水門という。
      またその鳥を見れば物を言うと思っていたが、物を言うことは無かった。

      それで天皇は落胆し、寝ていた時に夢を見て、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)のように造れば、御子は必ず物を言うであろう」と教えられた。
      太占(ふとまに)で占って何れの神の御心かを求めると、出雲の大神の御心であることがわかった。
      それでその御子に大神の宮を参拝させるために遣わそうとする時に、誰を副えるかを占った。すると曙立王が占いに当たった。
      それで曙立王に命じて、誓約(うけい)を述べさせて「この大神を参拝することにより、誠に(しるし)があるのであれば、この鷺巣池(さぎすのいけ)の樹に住む鷺よ。誓約のままに落ちよ」と。誓約したその鷺は地に堕ちて死んだ。
      また「誓約によって生きよ」と述べると生き返った。
      また甜白檮之前(あまかしのさき)にある葉広熊白檮(はびろくまかし)を誓約によって枯らし、また誓約によって生き返らせた。
      そこでその曙立王に名を賜って倭者師木登美豊朝倉曙立王という。
      曙立王菟上王の二王を御子に副えて遣わす時に占って、「那良戸(ならど)を行くと、足や目の不自由な人に出会って不吉だろう。大坂戸(おおさかど)を行くと、これも足や目の不自由な人に出会って不吉だろう。ただ木戸(きど)は縁起が良い」と。到着する土地ごとに品遅部(ほんちべ)を定めた。
      出雲に至り、大神の参拝を終えて帰還する時、肥河(ひのかわ)の中に黒巣橋(くろぎのすばし)を作り、仮宮を造って御子を迎えた。
      出雲国造の祖、名は岐比佐都美が青葉が茂る山のように飾ってその河下に立てた。
      大御食を献上する時に御子が言うには「この河下の青葉の山のようなものは、山に見えるが山ではない。もしや出雲の石𥑎之曽宮(いわくまのそのみや)にいらっしゃる葦原色許男大神を斎く(はふり)の祭場ではないか」と。
      そこでお供に遣わされた王達は、聞いて喜び、見て喜んだ。
      御子は檳榔(あじまさ)長穂宮(ながほのみや)にて、駅使(はゆまづかい)を使って天皇に報告した。

      その御子は肥長比売と一夜を共にした。ところがその美人を密かに覗くと蛇だった。それで恐れて逃げた。
      肥長比売は悲しんで、海原を照らして船で追いかけた。
      それを見てますます恐れて、山の撓りから船を引き越して、逃げ上って行った。
      そして復命して「大神を参拝したので、大御子は物をおっしゃるようになりました。それで帰って参りました」と。
      天皇は歓喜して、すぐに菟上王を返して神の宮を造らせた。
      そして天皇は、その御子にちなんで鳥取部(ととりべ)鳥甘部(とりかいべ)品遅部(ほんちべ)大湯坐(おおゆえ)若湯坐(わかゆえ)を定めた。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇23年11月2日

    湯河板挙が鵠を献上した。
    誉津別命は鵠を弄び、遂に喋れるようになった。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十三年十一月乙未条】