弥州流

名前
  • 彌州流【日本書紀】(みつる)弥州流
生年月日
( ~ 246年4月3日)
没年月日
(247年5月22日 ~ )
出来事
  • 246年4月3日

    神功皇后斯摩宿禰卓淳(とくじゅん)国に遣わした。

    卓淳王の末錦旱岐斯摩宿禰に言うには「甲子年記事が丙寅年なので、二年前を指すか。の七月中に、百済人である久氐・弥州流・莫古の三人が我が国にやってきて『百済王は、東方に日本という貴い国があると聞き、我々を遣わしてその国に行かせた。それで道を求めてここに着きました。もし我々に道を教えて頂けるなら、我が王はきっと徳の深い君王と称えるでしょう』と言った。そこで久氐らに『東方に貴い国があることは聞いている。しかし通ったことが無いので、その道は知らない。ただ海は遠く浪は険しい。大船に乗れば、なんとか通うことも出来るだろう。もし船着き場があっても、船舶がなければかなわない』と言った。久氐らは『それならば今は通えないので、一度帰って船舶を用意した後に通りましょう』と言った。また重ねて、『もし貴い国の使者が来ることがあれば、我が国にも伝えて欲しい』と言って帰っていった」と。
    斯摩宿禰は従者の爾波移と卓淳の人過古の二人を百済国に遣わして、その王を慰労させた。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十六年三月乙亥朔条】
  • 247年(5月22日 ~ 6月19日)

    百済王が久氐・弥州流・莫古を遣わして朝貢した。
    新羅国の調(みつき)の使いも久氐と共にやって来た。

    皇太后と太子誉田別尊は大いに喜び、そして「先王が所望していらっしゃった国人が今やって来た。御在世中でないのが残念だ」と言った。
    群臣に涙を流さぬ者はなかった。
    二国の貢物を調べると、新羅の貢物には珍品が多かったが、百済の貢物は少なく、良くもなかった。
    そこで久氐らに「百済の貢物は新羅に及ばないのはなぜだ」と問うと、答えて「私共は道がわからずに新羅に入ってしまい、新羅人は私共を捕らえて牢屋に入れました。三カ月が経って殺そうとしました。この時に私共は天に向って呪いました。新羅人はその呪いを怖れて殺しませんでしたが、私共の貢物を奪って自国の物としました。新羅の賤しい物を、我が国の貢物と入れ替えたのです。そして私共に『もしこの事を漏らせば、帰った日にお前らを殺す』と言いました。それで私共は恐怖で従ったのです。それで何とか天朝に参ることが出来たのです」と。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十七年四月条】