神功皇后が新羅を征伐して帰国した。
翌年、車駕が都に還ろうとする時、忍熊別皇子らが密かに謀反を企んで明石の堺に兵を備えて待っていた。 皇后は見分けて弟彦王を針間(はりま)の吉備(きび)の堺に遣わし、関を造って防がせた。 いわゆる和気関(わけのせき)がこれである。
太平の後、駕(みとも)に従った勲を録して封地を与えた。 そして吉備の磐梨県(いわなしのあがた)を被り、初めて家とした。
光仁天皇宝亀五年、改めて和気朝臣(わけのあそみ)の姓を賜った。