紀生磐宿禰は任那を越えて高麗に通った。
西方で三韓の王になろうとして宮府を整え、神聖を自称した。
任那の左魯・那奇他甲背らが謀って、百済の適莫爾解を爾林で殺した。爾林は高麗の地である。
帯山城を築いて東道を守った。
糧食を運ぶ津を断ち、兵士は飢えに苦しんだ。
百済王は激怒し、領軍古爾解・内頭莫古解らを遣わして、兵を率いて帯山を攻めさせた。
生磐宿禰は進軍して迎え撃った。勢い盛んで向うところ全て破った。
一を以って百に当たったが、俄に兵は力尽き、失敗を知って任那から帰った。
これにより百済国は佐魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇三年是歳条】