左魯

  • twitterでツイートする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
名前
  • 左魯【日本書紀】(さる)
  • 佐魯【日本書紀】(さる)
没年月日
(487年2月9日 ~ 488年1月28日)
出来事
  • (487年2月9日 ~ 488年1月28日)

    紀生磐宿禰任那(みまな)を越えて高麗(こま)に通った。
    西方で三韓の王になろうとして宮府を整え、神聖(かみ)を自称した。

    任那の左魯・那奇他甲背らが謀って、百済の適莫爾解爾林(にりん)で殺した。爾林は高麗の地である。
    帯山城(しとろもろのさし)を築いて東道(やまとじ)を守った。
    糧食を運ぶ津を断ち、兵士は飢えに苦しんだ。

    百済王は激怒し、領軍(いくさ)古爾解内頭(ないとう)莫古解らを遣わして、兵を率いて帯山を攻めさせた。
    生磐宿禰は進軍して迎え撃った。勢い盛んで向うところ全て破った。
    一を以って百に当たったが、俄に兵は力尽き、失敗を知って任那から帰った。

    これにより百済国は佐魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した。

    【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇三年是歳条】
関連
  • 那奇他甲背なかたこうはい『佐魯那奇他甲背』を一つの名とする可能性もある。