中臣勝海
- 名前
- 氏(ウジ):中臣【日本書紀】(なかとみ)
- 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
- 名:勝海【日本書紀】(かつみ)勝海
- 中臣勝海大夫【日本書紀】(なかとみのかつみのまえつきみ, なかとみのかつみのまへつきみ)中臣勝海大夫
- 生年月日
- ( ~ 敏達天皇14年2月24日)
- 没年月日
- 用明天皇2年4月2日
- 出来事
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敏達天皇14年2月24日
蘇我馬子が病を患う。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年二月辛亥条】 -
敏達天皇14年3月1日
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敏達天皇14年8月15日敏達記では甲辰年四月六日。
敏達天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年八月己亥条】 -
敏達天皇14年9月5日
用明天皇が即位する。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇即位前紀 敏達天皇十四年九月戊午条】 -
用明天皇2年4月2日記事に二年夏四月乙巳朔丙子とあるが、乙巳を朔日とすると丙子(32日)は誤り。次の崩御記事が癸丑(9日)であるから丙午(2日)か壬子(8日)が候補か。当サイトでは丙午とする。
用明天皇は病にかかり宮に還った。群臣が侍った。
天皇は群臣に詔して「朕は三宝仏・法・僧。に帰依しようと思う。卿らも議るように」と。群臣は入朝して議った。
物部守屋大連と中臣勝海連が詔を違えて言うには「どうして国つ神に背いて他の神を敬うことがあろうか。元来このようなことは聞いたことが無い」と。
蘇我馬子宿禰大臣が言うには「詔に従って助け奉るべきである。誰が異なる考えを生じようか」と。
皇弟皇子 「皇弟皇子とは穴穂部皇子、即ち天皇の庶弟である」とある。は豊国法師「闕名」とある。を連れて内裏に入った。
物部守屋大連は横目で睨んで激怒した。この時に押坂部史毛屎が慌ててやってきて、密かに大連に「いま群臣が謀って、あなたの退路を断とうとしています」と語った。
大連はこれを聞き、阿都 「阿都とは大連の別業がある所の地名である」とある。に退いて人を集めた。中臣勝海連は家に兵を集めて大連を助けた。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月丙子条】
遂に太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作って呪った。
しばらくすると事の成り難いことを知り、帰って彦人皇子の水派宮 水派。此云美麻多。に附いた。
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