日羅

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名前
  • 日羅【日本書紀】(にちら)
生年月日
( ~ 583年7月25日)
没年月日
584年(1月18日 ~ 2月16日)
  • 火葦北阿利斯登ひのあしきたのありしと【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年七月丁酉朔条】
先祖
  1. 火葦北阿利斯登
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 達率たつそつ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年七月丁酉朔条】
出来事
  • 583年7月25日

    敏達天皇が詔して「我が先の天皇の御世に、新羅は内官家(うちつみやけ)の国を滅ぼした「天国排開広庭天皇二十三年、任那は新羅の為に滅ぼされた。それで新羅が我が内官家を滅ぼしたというのである」とある。。先の天皇が任那を復興させようとお図りになられたが、果たされることなくお隠れあそばされた。朕はこの偉大な図りごとをお助け奉り、任那を復興させようと思う。いま百済にいる火葦北国造阿利斯登の子達率日羅は賢くて勇ましい。それで朕はその人と計画を立てようと思う」と。
    そして紀国造押勝吉備海部直羽島を遣わして百済に召した。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年七月丁酉朔条】
  • 583年(10月22日 ~ 11月19日)

    紀国造押勝らが百済から帰還して「百済国主は日羅を惜しんで来させませんでした」と復命する。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年十月条】
  • (583年10月22日 ~ 584年2月16日)

    また吉備海部直羽島を遣わして日羅を百済に召した。

    羽島は百済に行って、先に密かに日羅に会おうと一人で家の門に向った。
    しばらくして家の中から(から)婦人が現れ、韓語を用いて「あなたの根を私の根の内に入れなさい」と言うと家に入った。
    羽島はその意味を覚り、後に従い入っていった。
    すると日羅が迎えに来て、手を取って座席に坐らせると、密かに告げて「私が密かに聞くところでは、百済国主は天朝を疑っているようです。私を遣わしてしまえば留めて帰還さないと思い、惜しんで了承しないのです。勅を宣り言する時には、厳しい顔色を見せて性急に召して下さい」と言った。
    羽島はその計画のままに日羅を召した。
    百済国主は天朝を畏怖して、敢えて勅を違えることはせず、日羅・恩率徳爾・余怒・哥奴知どこで区切るかは疑義あり。文脈から恩率・参官・徳爾は別人。<哥奴知の校異に奇奴知>参官(さんかん)柁師(かじとり)徳率次干徳水手(かこ)ら若干の人を奉った。
    日羅らは吉備児島屯倉(きびのこじまのみやけ)に行き着いた。

    朝廷は大伴糠手子連を遣わして慰労させた。また大夫らを難波の館に遣わして日羅を訪ねさせた。
    この時に日羅は(よろい)を着て乗馬して門前にいた。そして政庁の前に進み出た。
    立居し跪拝して、歎き恨んで言うには「桧隈宮御寓天皇宣化天皇。の御世に、我が君大伴金村大連が国家の為に遣わした火葦北国造刑部靭部阿利斯登の子、臣達率日羅は天皇がお召しなられていることを伺い、恐れかしこみ来朝致しました」と。
    そしてその甲を脱いで天皇に奉った。
    それで館を阿斗桑市(あとのくわのいち)に造って日羅を住まわせて、願いのままに支給した。
    また阿倍目臣物部贄子連大伴糠手子連を遣わして、国政を日羅に問わせた。
    日羅が答えて言うには「天皇が天下を治めたまう政とは、必ず人民を護り養うことにあります。なぜ兵を起こし、かえって民を失うことをなさりましょうか。それで議る者は、朝廷に仕える臣・連・二造「二造とは、国造・伴造である」とある。から下は百姓に至るまで、皆富み栄えて、足らない所のないようにするべきです。このようにすること三年。食が足り、兵が足り、喜んで民が使われ、水火も憚らずに国難を憂えるようにします。然る後に多くの船を造って津ごとに連ね置き、客人に観せて恐れを生じさせ、それから百済に良き使者を遣わして国王を召すのです。もし来なければ、その太佐平・王子らを召して来させます。そうすれば自然と服従の心が生じましょう。その後に罪を問うのです」と。
    また奏上して「百済人が謀って『船三百隻の人間が筑紫に居住を願っている』と言っておるようです。もし本当に願ってこれば許すまねをするのです。そこで百済が新に国を造ろうとすれば、必ず先に女人・小子を船に乗せてくるでしょう。これに対して壱岐と対馬に伏兵を多く置き、やって来るのを待って殺すのです。逆に欺かれないように、要害の地ごとに堅い城塞を築くのです」と。

    恩率・参官「旧い本では、恩率を以って一人とし、参官を以って一人とする」とある。は帰国する時に密かに徳爾らに語って言うには「我々が筑紫を離れる頃を見計らって、お前らが日羅を殺せば、我々が詳しく王に申し上げて高い位を賜るようにしてやろう。本人及び妻子は後々まで栄えるであろう」と。
    徳爾・余奴は承知した。

    参官らは遂に血鹿(ちか)に向けて出発した。
    日羅は桑市村(くわのいちのむら)から難波館(なにわのむろつみ)に移った。
    徳爾らは殺そうと昼夜見計らっていた。
    時に日羅の身体から火焔のような光が出ていた。
    これにより徳爾らは恐れて殺せなかった。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年是歳条】
  • 584年(1月18日 ~ 2月16日)

    遂に十二月の晦素直に十二月の末日と判断してよいか。に光を失ったのを伺って殺した。
    日羅は蘇生した。そして「これは我が召使いの奴等の所業である。新羅によるものではない」と言って死んだ「この時に新羅の使いがいた。それでこのように言ったのである」とある。
    天皇は贄子大連糠手子連に詔して、小郡(おごおり)の西の畔の丘の先に収め葬らせ、その妻子・水手らは石川(いしかわ)に住まわせた。
    しかし大伴糠手子連が議って「一ヶ所に集めて住まわせれば返事が生じる恐れがございます」と言った。
    そこで妻子は石川の百済村(くだらのむら)に住まわせ、水手らは石川の大伴村(おおとものむら)に住まわせた。

    徳爾らを捕縛して下百済(しもつくだら)阿田村(あたのむら)校異:河田村に置いた。
    数人の大夫を遣わして、その事を問いただした。
    徳爾らが罪に伏して言うには「本当でございます。これは恩率・参官の教えによるものです。我らは部下として命令に背けませんでした」と。
    これにより獄に下して朝廷に復命した。
    そして葦北(あしきた)に使いを遣わして日羅の同族を召し、徳爾らを賜って心のままに罪を償わせた。
    この時に葦北君(あしきたのきみ)らは受け取ると皆殺しにして弥売島(みめしま)「弥売島とは姫島であろう」とある。に投げ捨てた。

    日羅を葦北に移して葬った。

    後に海辺の者が言うには「恩率の船は風害により海に没した。参官の船は津島に漂泊した後にようやく帰ることが出来た」という。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年是歳条】