敏達天皇の皇子として生まれる。母は老女子夫人。
舒明天皇8年7月1日
大派王が豊浦大臣に言うには「群卿及び百寮が参朝することを怠っている。今後は卯の刻の始めに参朝し、巳の刻の後に退朝させよう。これらを鍾で知らせるように」と。 しかし大臣は従わなかった。
皇極天皇元年12月13日
皇極天皇が舒明天皇の喪を発した際に、大派皇子の代りに巨勢臣徳太が誄(しのびごと)する。