巨勢徳太

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名前
  • 氏(ウジ):巨勢【日本書紀】せ)
  • 姓(カバネ):臣【日本書紀】(お
  • 名:德太【日本書紀】(とこた)徳太
  • 名:德大【日本書紀】(とこだ)徳大
  • 名:德陀【日本書紀】(とこだ)徳陀
  • 名:德陀古【日本書紀】(とこだ)徳陀古
生年月日
( ~ 皇極天皇元年12月13日)
没年月日
斉明天皇4年1月13日
先祖
  1. 巨勢胡人
    1. 巨勢男人
      1. 巨勢川上宿禰
      2. unknown
    2. unknown
  2. unknown
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 小徳しょうとく【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲午条】
  • 小紫しょうし【日本書紀 巻第二十五 大化五年四月甲午条】
  • 大紫だいし【日本書紀 巻第二十五 大化五年四月甲午条】
  • 左大臣さだいじん【日本書紀 巻第二十五 大化五年四月甲午条】
出来事
  • 皇極天皇元年12月13日

    皇極天皇舒明天皇の喪を発した際に、大派皇子の代りに(しのびごと)する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲午条】
  • 皇極天皇2年11月1日

    蘇我臣入鹿小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連土師娑婆連猪手と思われるが確証は無い。を遣わして山背大兄王たちを斑鳩(いかるが)で襲わせた。

    奴の三成と数十人の舎人が出陣して防ぎ戦った。
    土師娑婆連は矢に当って死に、兵士は恐れて退いた。
    軍中の人は「一人当千とは三成をいうか」と語り合った。

    山背大兄は馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。
    遂にその妃と子弟たちを率いると隙を得て逃げ出して胆駒山(いこまやま)に隠れた。
    三輪文屋君・舎人の田目連とその女の菟田諸石伊勢阿部堅経が従った。

    巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼いた。
    灰の中に骨を見つけ、王の死だと誤って囲いを解いて退去した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
    • 巨勢徳太臣・倭馬飼首を将軍とした。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条 或本云】
  • 皇極天皇4年6月12日

    蘇我入鹿が殺害される。

    漢直(あやのあたい)らは族党を総べ集め、(よろい)を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
    中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。

    高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
    言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
    賊徒もまた随って散り散りに去った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
  • 大化元年7月10日

    高麗・百済・新羅が使いを遣わして調(みつき)を献上した。百済の調の使いは任那の調の使いを兼領して任那の調を献上した。
    ただ百済の大使佐平縁福は病にかかり、津の館に留まって(みやこ)に入らなかった。
    巨勢徳太臣は高麗の使いに詔を伝えて「明神御宇日本天皇(あきつかみとあめのしたしろしめすやまとのすめらみこと)明神と天下を治める日本の天皇。の詔旨である。天皇が遣わす使いと高麗の神の子が遣わす使いは過去の往来こそ短くても将来は長いであろう。温和な心をもって相互に往来したい」と。
    また百済の使いに詔して「明神御宇日本天皇の詔旨である。我が遠い皇祖の御世に百済国を内官家(うちつみやけ)となさったことは、例えば三絞(みせ)の綱のようである。中頃、任那国を百済に属させた。後に三輪栗隈君東人を遣わして任那の国境を視察させた。百済王は勅に従って全てその境を示したが、調は欠けるところがあった。それでその調を返却した。任那の奉った物は天皇が御覧になるところである。今後は詳しく国と出すところの調を記すように。汝佐平らは変らず来朝せよ。速やかに全て明かに報告せよ。いま重ねて三輪君東人馬飼造(うまかいのみやつこ)「闕名」とある。を遣わす」と。
    また勅して「鬼部達率意斯の妻子らを送り遣わすように」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月丙子条】
  • 大化5年4月20日

    大紫を授かり左大臣を拝命する。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年四月甲午条】
  • 白雉元年2月15日

    朝庭の儀仗隊が元日の儀式のように整った。
    の大臣・百官の人々が四列になって紫門の外に並んだ。
    粟田臣飯虫ら四人が雉の輿を担いで先立ちとして進み、左の大臣・百官、百済君豊璋、その弟の塞城忠勝、高麗の侍医毛治、新羅の侍学士らを率いて中庭に至った。
    三国公麻呂猪名公高見三輪君甕穂紀臣乎麻呂岐太ら四人が雉の輿を代わって担いで御殿の前に進んだ。
    そして左の大臣が輿の前頭をとり、伊勢王三国公麻呂倉臣小屎が輿の後頭をとって御座の前に置いた。

    天皇は皇太子を召して、共に手に取って見た。皇太子は退いて再拝した。
    巨勢大臣に奉賀させて言うには「公卿・百官の人々がお祝い申し上げます。陛下が清く平かな徳で天下を御統治あそばされますので、白雉が西方より現れました。陛下におかれましては、千秋万歳に至るまで四方の大八島を御統治あそばせたまい、公卿・百官・諸々の人々は忠誠を尽して勤しんでお仕え申し上げます」と。奉賀が終り再拝した。

    詔して「聖の王が世に出て天下を治める時、天は応えて祥瑞を示すという。昔、西土の君で、周の成王の御世と漢の明帝の時に白雉が現れた。我が日本国では誉田天皇の御世に白鳥が宮に巣を作った。大鷦鷯帝の時には竜馬が西に現れた。このように古から今に至るまで、祥瑞が現れて有徳に応える類は多い。いわゆる鳳凰・騏驎・白雉・白鳥、こうして鳥獣・草木に及ぶまで、しるしで応えることがあるのは、天地が生む休祥・嘉瑞なのである。明聖の君がこの祥瑞を得るのはわかるが、虚薄な朕がどうしてこれを受けられようか。思うにこれは専ら扶翼する公卿・臣・連・伴造・国造らが誠を尽し、制度を遵奉するからであろう。そこで公卿から始めて百官らに至るまで、清く明かな心で神祇を敬い、皆で休祥を受けて天下を栄えさせよ」と。
    また詔して「四方の諸々の国や郡など、天が委ね授けられる為に、朕が総じて天下を治めている。今我が親愛なる神祖の治められる穴戸(あなと)後の長門。国の中に嘉瑞があった。そこで天下に大赦する。改元して白雉とする」と。
    そして鷹を穴戸の境に放つことを禁じた。

    公卿大夫以下、史に至るまで各々に下賜があった。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年二月甲申条】
  • 白雉2年

    新羅の貢調使知万沙飡らが唐国の服を着て筑紫に着いた。朝庭は勝手に風俗を変えたことを憎み、厳しく責めて追い返した。

    時に巨勢大臣が奏上して「いま新羅を討たなければ必ず後悔するでしょう。討つと言っても力は要りません。難波津から筑紫の海の裏に至るまで船で満たし、新羅を召してその罪を問えば容易でございます」と。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉二年是歳条】
  • 斉明天皇4年1月13日

    薨じる。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年正月丙申条】