蘇我入鹿

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名前
  • 氏(ウジ):蘇我【日本書紀】が)
  • 姓(カバネ):臣【日本書紀】(お
  • 名:入鹿【日本書紀】(いるか)
  • 名:鞍作日本書紀の皇極天皇四年六月戊申条に「蘇我臣入鹿のまたの名が鞍作である」とある。【日本書紀】(くらつくり)
  • 入鹿臣■■林太郞【上宮聖徳法王帝説】入鹿臣■■林太郎
  • 林太郞■■【上宮聖徳法王帝説】林太郎■■
  • 林臣【日本書紀】(はやし
  • 君大郞【日本書紀】たいろう)君大郎
  • 豐浦大臣【先代旧事本紀】(とゆらのおおおみ, とゆらおほお)豊浦大臣
  • 入鹿連公【先代旧事本紀】(いるかむらじ)入鹿連公
性別
男性
生年月日
( ~ 皇極天皇元年1月15日)
没年月日
皇極天皇4年6月12日
  • 蘇我蝦夷そがのえみし【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月辛未条, 上宮聖徳法王帝説, 先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
  • 物部鎌姫もののべのかまひめ【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
先祖
  1. 蘇我蝦夷
    1. 蘇我馬子
      1. 蘇我稲目
      2. unknown
    2. 太媛
      1. 物部尾輿
      2. 阿佐姫
  2. 物部鎌姫
    1. 物部贄子
      1. 物部尾輿
      2. 加波流姫
    2. 物部布都姫
      1. 物部尾輿
      2. 阿佐姫
出来事
  • 皇極天皇元年1月15日

    皇后は即位して天皇となった。
    蘇我臣蝦夷大臣とすることは元のとおりであった。
    大臣の子の入鹿。またの名は鞍作が自ら国政を執ることはの威にも勝った。
    これにより盗賊は恐れて道に落ちてる物も拾わなくなった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月辛未条】
  • 皇極天皇元年7月23日

    蘇我臣入鹿の豎者(しとべ)少年の従者。が白い雀の子を獲った。
    この日の同じ時にある人が白雀を籠に入れて蘇我大臣に送った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月丙子条】
  • 皇極天皇元年

    蘇我大臣蝦夷が己の祖廟を葛城高宮(かずらきのたかみや)に立てて八佾(やつら)の舞をした。
    歌を作って言うには、

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    と。

    また国中の民と沢山の部曲(かきのたみ)を集めて、予め双墓(ならびのはか)を今来に造った。
    一つを大陵(おおみささぎ)という。大臣の墓とした。
    一つを小陵(こみささぎ)という。入鹿臣の墓とした。
    死後に人に世話させることを望まず、さらに上宮(かみつみや)乳部(みぶ)「乳部。此云美父」とある。皇子の養育料を出す部とされている。の民を全て集めて、塋兆所(はかどころ)に役使した。

    上宮大娘姫王聖徳太子の長女と思われる。舂米女王か。が発憤して歎いて言うには「蘇我臣は国政を専らにして無礼な行いが多い。天に二つの日は無く、国に二人の王は無い。どうして意のままに封民を役使できるのか」と。
    このように恨みを買い、遂には共に亡ぼされることとなる。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年是歳条】
  • 皇極天皇2年10月6日

    蘇我大臣蝦夷が病を理由として参朝せず、密かに紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位に擬えた。
    またその弟入鹿の弟。または蝦夷の弟か。蝦夷の弟であれば倉麻呂が候補か。物部大臣と呼んだ。
    大臣物部大臣を指すと思われる。の祖母は物部弓削大連の妹である。それで母方。の財に因って威を世に振るった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月壬子条】
  • 皇極天皇2年10月12日

    蘇我臣入鹿は独りで謀り、上宮の王たち聖徳太子の皇子たち。を廃して古人大兄天皇立てようとしたこの条の末に「蘇我臣入鹿は上宮の王たちの威名が天下に振るっていることを深く憎み、自分を君主に擬えて独断で立てようとした」と割注がある。

    時に童謡があり、

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    といった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月戊午条】
  • 皇極天皇2年11月1日

    蘇我臣入鹿が小徳巨勢徳太臣大仁土師娑婆連土師娑婆連猪手と思われるが確証は無い。を遣わして山背大兄王たちを斑鳩(いかるが)で襲わせた。

    奴の三成と数十人の舎人が出陣して防ぎ戦った。
    土師娑婆連は矢に当って死に、兵士は恐れて退いた。
    軍中の人は「一人当千とは三成をいうか」と語り合った。

    山背大兄は馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。
    遂にその妃と子弟たちを率いると隙を得て逃げ出して胆駒山(いこまやま)に隠れた。
    三輪文屋君・舎人の田目連とその女の菟田諸石伊勢阿部堅経が従った。

    巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼いた。
    灰の中に骨を見つけ、王の死だと誤って囲いを解いて退去した。

    これにより山背大兄王たちは四、五日間山に留まって食べる物も無かった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
    • 巨勢徳太臣・倭馬飼首を将軍とした。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条 或本云】
  • 皇極天皇2年(11月5日 ~ 12月)

    三輪文屋君が進み出て言うには「どうか深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移動し、そこから馬に乗って東国に行き、乳部(みぶ)同元年十二月是歳条にも見える。をもとに兵を興し、戻って戦いましょう。そうすれば必ず勝てます」と勧めた。
    山背大兄王たちが答えて「お前の言う通りにすれば勝ちは必然であろう。ただし私は十年間は人民を役に労することが無いようにと思っている。どうして一人の身の為に万民を煩わせることが出来ようか。また後世に私が原因で父母が亡くなったと言われたくはない。戦いに勝てば丈夫(ますらお)と言えるのだろうか。身を捨てて国を固めれば丈夫と言えるのではなかろうか」と。

    ある人が遠くから上宮の王たちを山中に見つけ、戻って蘇我臣入鹿に伝えた。
    入鹿はこれを聞いて大いに恐れた。
    すぐに兵を発し、王のいる所を高向臣国押に教えて「速やかに山に向って彼の王を探し捕えよ」と言った。
    国押は「私は天皇の宮をお守るするので敢えて外には出ません」と答えた。
    入鹿は自ら行こうとした。

    時に古人大兄皇子が息を切らせながらやって来て「何処へ向うのか」と問うた。
    入鹿は詳しく理由を説明した。
    古人皇子は「鼠は穴に隠れて生きるが、穴を失うと死ぬ」と言った。
    入鹿はこれにより行くのをやめ、軍将らを遣わして胆駒を探させたが見つけることは出来なかった。

    山背大兄王たちは山を下りて斑鳩寺に入った。
    軍将らは兵に寺を囲ませた。

    山背大兄王三輪文屋君を使って軍将らに言うには「私が兵を興して入鹿を討てば勝ちは必定である。しかし一人の身の為に人民を傷つけたくはない。だから我が身一つを入鹿にくれてやろう」と。
    遂に子弟・妃妾と諸共に自ら首をくくって死んだ。

    時に五色の幡と(きぬがさ)、様々な伎楽が空に照り輝いて寺に垂れかかった。
    衆人は仰ぎ見て嘆き、遂に入鹿を指し示した。
    その幡や蓋などは黒雲に変った。これにより入鹿は見ることが出来なかった。

    蘇我大臣蝦夷山背大兄王たちが入鹿に亡ぼされたことを聞き、怒り罵って「ああ、入鹿は甚だ愚かだ。暴悪を専らにするとは。お前の身命は危ういだろう」と言った。

    時の人は先の謡同十月戊午条の童謡。を解釈して言うには「『岩の上に「伊波能杯儞」』というのは上宮(かみつみや)に喩え、『小猿「古佐屡」』というのは林臣「林臣とは入鹿のことである」とある。に喩え、『米焼く「渠梅野倶」』というのは上宮を焼くことに喩え、『米だにも、()げて通らせ、山羊(かましし)老翁(おじ)「渠梅施儞母 陀礙底騰褒羅栖 柯麻之之能鳴膩」』というのは山背王の白髪まじりの頭髪の乱れが山羊に似たのに喩えたのだ。またその宮を捨てて深い山に隠れたしるしである」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
    • 皇極天皇2年10月14日

      飛鳥天皇の御世の癸卯年十月十四日に蘇我豊浦毛人大臣の児入鹿臣■■林太郎「■■」は欠失。伊加留加宮(いかるかのみや)にいた山代大兄及びその兄弟合せて十五王子の悉くを滅ぼした。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇3年6月3日

    志紀上郡(しきのかみのこおり)が言うには「ある人が三輪山で昼寝をする猿を見ました。その身を損なわないように、こっそりその腕を取ると、猿は眠ったまま歌って

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    と言ったので、その人は猿の歌を驚き怪しんで捨て去りました」と。
    これは数年を経て、上宮の王たちが蘇我鞍作の為に胆駒山に囲まれる兆しであった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月乙巳条】
  • 皇極天皇3年11月

    蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は家を甘檮岡(うまかしのおか)に並べて建てた。
    大臣の家を上宮門(うえのみかど)と呼んだ。入鹿の家を谷宮門(はさまのみかど)谷。此云波佐麻。と呼んだ。
    男女の子らを王子と呼んだ。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年十一月条】
  • 皇極天皇4年6月12日

    天皇は大極殿に御座した。古人大兄が侍った。

    中臣鎌子連は蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、俳優(わざひと)に教えて騙し解かせた。
    入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。

    倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
    中大兄衛門府(ゆけいのつかさ)に戒めて、一斉に十二の通門を固めて往来を止めた。
    衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。

    時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
    中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。

    海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
    子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
    倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
    鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
    中大兄子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
    そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
    入鹿は驚いて立とうとした。
    子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
    入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
    天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
    中大兄は地に伏して言うには「鞍作「蘇我臣入鹿のまたの名が鞍作である」とある。は天宗を全て滅ぼして日位(ひつぎのくらい)を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代えることが出来ましょうか」と。
    天皇は立ち上がって殿の中に入った。

    佐伯連子麻呂稚犬養連網田は入鹿臣を斬った。


    この日、雨が降って水が庭に溢れた。
    席障子(むしろしとみ)で鞍作の屍を覆った。

    古人大兄は私宅に走り入って、人に「韓人が鞍作臣を殺した「韓(からひと)の政に因り誅したことを言う」とある。。私の心は痛い」と言った。
    そして寝所に入り、門を閉ざして出なかった。
    中大兄は法興寺に入って城として備えた。
    諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、全て皆が従い侍った。
    人を使って鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。
    漢直(あやのあたい)らは族党を総べ集め、(よろい)を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
    中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。

    高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
    言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
    賊徒もまた随って散り散りに去った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
    • 皇極天皇4年6月11日

      ■■天皇「■■」は欠失。「天」は違筆補記。右傍にも「■■天皇」、「■極天皇(皇極天皇)」か。の御世の乙巳年六月十一日、近江天皇が生まれて廿一年、林太郎■■「■■」は欠失。を殺した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇4年6月13日

    蘇我臣蝦夷らは誅殺される前に天皇記・国記・珍宝を全て焼いた。
    船史恵尺はすぐに取りに走って焼けた国記を中大兄に献上した。

    この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬ることを許した。また喪中に泣くことを許した。


    或る人が第一の謡歌(わざうた)を説いて言うには「その歌に『はろはろに ことそきこゆる しまのやぶはら同三年六月是月条にある謡歌の第一。』と言うが、これは宮殿を島大臣の家に接して建てた。中大兄中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を謀殺しようとした兆しである」と。
    第二の謡歌を説いて言うには「その歌に『をちかたの あさののきぎし とよもさず われはねしかど ひとそとよもす同三年六月是月条にある謡歌の第二。』と言うが、これは上宮の王たちの人となりが素直で、かつて罪も無く入鹿に殺された。自ら報復しなくても。天が人を使って誅殺される兆しである」と。
    第三の謡歌を説いて言うには「その歌に『をばやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらず いへもしらずも同三年六月是月条にある謡歌の第三。「われをひきいれて」は同三年六月是月条では「われをひきれて」』と言うが、これは入鹿臣が忽ちに宮中で佐伯連子麻呂稚犬養連網田に斬られる兆しである」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
    • 皇極天皇4年6月12日

      明くる日蘇我入鹿殺害の翌日。に、その父豊浦大臣の子孫らを全て滅した。

      【上宮聖徳法王帝説】