三輪文屋
- 名前
- 氏(ウジ):三輪【日本書紀】(みわ)
- 姓(カバネ):君【日本書紀】(きみ)
- 名:文屋【日本書紀】(ふみや, ふんや)
- 生年月日
- ( ~ 皇極天皇2年11月1日)
- 没年月日
- (皇極天皇2年11月5日 ~ )
- 出来事
-
皇極天皇2年11月1日
蘇我臣入鹿が小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連土師娑婆連猪手と思われるが確証は無い。を遣わして山背大兄王たちを
斑鳩 で襲わせた。奴の三成と数十人の舎人が出陣して防ぎ戦った。
土師娑婆連は矢に当って死に、兵士は恐れて退いた。
軍中の人は「一人当千とは三成をいうか」と語り合った。山背大兄は馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。
遂にその妃と子弟たちを率いると隙を得て逃げ出して胆駒山 に隠れた。
三輪文屋君・舎人の田目連とその女の菟田諸石・伊勢阿部堅経が従った。巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼いた。
灰の中に骨を見つけ、王の死だと誤って囲いを解いて退去した。これにより山背大兄王たちは四、五日間山に留まって食べる物も無かった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】 -
皇極天皇2年(11月5日 ~ 12月)
三輪文屋君が進み出て言うには「どうか
深草屯倉 に移動し、そこから馬に乗って東国に行き、乳部 同元年十二月是歳条にも見える。をもとに兵を興し、戻って戦いましょう。そうすれば必ず勝てます」と勧めた。
山背大兄王たちが答えて「お前の言う通りにすれば勝ちは必然であろう。ただし私は十年間は人民を役に労することが無いようにと思っている。どうして一人の身の為に万民を煩わせることが出来ようか。また後世に私が原因で父母が亡くなったと言われたくはない。戦いに勝てば丈夫 と言えるのだろうか。身を捨てて国を固めれば丈夫と言えるのではなかろうか」と。ある人が遠くから上宮の王たちを山中に見つけ、戻って蘇我臣入鹿に伝えた。
入鹿はこれを聞いて大いに恐れた。
すぐに兵を発し、王のいる所を高向臣国押に教えて「速やかに山に向って彼の王を探し捕えよ」と言った。
国押は「私は天皇の宮をお守るするので敢えて外には出ません」と答えた。
入鹿は自ら行こうとした。時に古人大兄皇子が息を切らせながらやって来て「何処へ向うのか」と問うた。
入鹿は詳しく理由を説明した。
古人皇子は「鼠は穴に隠れて生きるが、穴を失うと死ぬ」と言った。
入鹿はこれにより行くのをやめ、軍将らを遣わして胆駒を探させたが見つけることは出来なかった。山背大兄王たちは山を下りて斑鳩寺に入った。
軍将らは兵に寺を囲ませた。山背大兄王は三輪文屋君を使って軍将らに言うには「私が兵を興して入鹿を討てば勝ちは必定である。しかし一人の身の為に人民を傷つけたくはない。だから我が身一つを入鹿にくれてやろう」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
遂に子弟・妃妾と諸共に自ら首をくくって死んだ。
-