推古天皇11年2月4日
来目皇子が筑紫で薨じた。
天皇はこれを聞いて大いに驚き、皇太子と蘇我大臣を召して言うには「征新羅大将軍来目皇子が薨じた。大事に臨んだが遂げることは出来なかった。甚だ悲しいことである」と。 そして周芳(すおう)国の娑婆(さば)に殯した。土師連猪手を遣わして殯の事を司らせた。 それで猪手連の孫を娑婆連(さばのむらじ)というのは是の縁からである。
皇極天皇2年9月17日
皇極天皇の命令で吉備島皇祖母命の喪礼を執り行う。
皇極天皇2年11月1日
蘇我臣入鹿が小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣わして山背大兄王たちを斑鳩(いかるが)で襲わせた。
奴の三成と数十人の舎人が出陣して防ぎ戦った。 土師娑婆連は矢に当って死に、兵士は恐れて退いた。 軍中の人は「一人当千とは三成をいうか」と語り合った。