- 名前
- 漢風諡号:皇極天皇(こうぎょくてんのう, くゎうぎょくてんわう)
- 漢風諡号:齊明天皇(さいめいてんのう, さいめいてんわう)斉明天皇
- 寶皇女【日本書紀】(たからのひめみこ)宝皇女
- 飛鳥天皇【上宮聖徳法王帝説】(あすかのすめらみこと)
- 天豐財重日足姬天皇【日本書紀】(あまとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)天豊財重日足姫天皇
- 豐財天皇【日本書紀】(とよたからのすめらみこと)豊財天皇
- 齋明天皇【新撰姓氏録抄】(さいめいてんのう, さいめいてんわう)斎明天皇
- 後岡本天皇【日本書紀】(のちのおかもとのすめらみこと, のちのをかもとのすめらみこと)
- 性別
- 女性
- 生年月日
- ( ~ 舒明天皇2年1月12日)
- 没年月日
- 斉明天皇7年7月24日
- 父
茅渟王 【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
- 母
吉備姫王 【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 称号・栄典
- 出来事
-
舒明天皇2年1月12日
舒明天皇の皇后となる。
【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】 -
舒明天皇13年10月9日
舒明天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丁酉条】 -
皇極天皇元年1月15日
-
皇極天皇元年1月29日
-
皇極天皇元年2月2日
-
皇極天皇元年2月6日
高麗の使人が難波津に泊る。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月壬辰条】 -
皇極天皇元年2月21日
-
皇極天皇元年2月22日
-
皇極天皇元年2月24日
-
皇極天皇元年2月25日
高麗・百済の客に饗応する。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月辛亥条】 -
皇極天皇元年2月27日
高麗の使人と百済の使人が共に帰途に就く。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月癸丑条】 -
皇極天皇元年3月3日
雲が無いのに雨が降った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月戊午条】 -
皇極天皇元年3月6日
新羅が
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月辛酉条】賀騰極使 と弔喪使 を遣わした。 -
皇極天皇元年3月15日
新羅の使人が帰途に就く。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月庚午条】 -
皇極天皇元年3月
長雨が降った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月是月条】 -
皇極天皇元年4月8日
太使翹岐がその従者を率いて天皇に拝謁する。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月癸巳条】 -
皇極天皇元年4月10日
-
皇極天皇元年4月
長雨が降った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月是月条】 -
皇極天皇元年5月5日
河内国の
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月己未条】依網屯倉 の前に翹岐らを召して射猟を見物させた。 -
皇極天皇元年5月16日
百済国の調使の船と吉士の船が共に難波津に泊った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月庚午条】 -
皇極天皇元年5月18日
百済の使人が調を進上する。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月壬申条】
吉士が服命する。 -
皇極天皇元年5月21日
翹岐の従者の一人が死去する。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月乙亥条】 -
皇極天皇元年5月22日
-
皇極天皇元年5月23日
熟した稲が見られた。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月丁丑条】 -
皇極天皇元年5月24日
翹岐がその妻子を率いて百済の大井の家に移った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月戊寅条】
人を遣わして子を石川に葬った。 -
皇極天皇元年6月16日
小雨が降った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年六月庚子条】 -
皇極天皇元年6月
大旱だった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年六月是月条】 -
皇極天皇元年7月9日
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月壬戌条】客星 が月に入った。 -
皇極天皇元年7月22日
-
皇極天皇元年7月23日
-
皇極天皇元年7月25日
群臣が相談して言うには「村々の
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月戊寅条】祝部 の教えに従い、或いは牛馬を殺して諸々の社の神を祭り、或いは頻繁に市を移し、或いは河伯 を祈祷することは全く効果が無い」と。
蘇我大臣は「寺々は大乗経典 を転読して、悔過 すること仏説のように敬って雨乞いしよう」と答えた。 -
皇極天皇元年7月27日
大寺の南の庭に仏菩薩の像と四天王の像を厳飾して、諸僧を召して
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月庚辰条】大雲経 などを読ませた。
時に蘇我大臣は手に香鑪を取り、香を焚いて発願した。 -
皇極天皇元年7月28日
小雨が降った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月辛巳条】 -
皇極天皇元年7月29日
雨乞いが出来ず、読経を止めた。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月壬午条】 -
皇極天皇元年8月1日
天皇天皇は
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月甲申朔条】南淵 の河上に行幸した。
跪いて四方を拝礼して天を仰いで祈った。すると雷が鳴って大雨が降った。
雨は五日間続いて天下を潤した。
天下の百姓は共に喜んで「この上ない徳を備えた天皇である」と言った。-
五日間雨が続いて九穀は登熟した。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月甲申朔条 或本云】
-
-
皇極天皇元年8月6日
百済の使いの参官らは帰途に就いた。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月己丑条】
そこで大舶と同船 三艘を賜った。
この日の夜半に西南の方角で雷が鳴り、風が吹き雨が降った。
参官らが乗る船舶は岸に触れて破損した。 -
皇極天皇元年8月13日
-
皇極天皇元年8月15日
船を百済の参官等に賜って発遣する。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月戊戌条】 -
皇極天皇元年8月16日
高麗の使人が帰途に就く。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月己亥条】 -
皇極天皇元年8月26日
百済・新羅の使人が帰途に就く。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月己酉条】 -
皇極天皇元年9月3日
大臣に詔して「朕は大寺を造り起そうと思う。近江と越の丁を呼ぶように」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月乙卯条】
また諸国に課して船舶を造らせた。 -
皇極天皇元年9月19日
大臣に詔して「この月に起して十二月以来を限りに宮室を造営しようと思う。国々に
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月辛未条】殿屋材 を取らせよう。また東は遠江に限りに、西は安芸を限りに宮を造る丁を集めよ」と。 -
皇極天皇元年9月21日
越のほとりの蝦夷数千人が帰服した。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月癸酉条】 -
皇極天皇元年10月8日
地震があり雨が降った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月庚寅条】 -
皇極天皇元年10月9日
地震があった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月辛卯条】 -
皇極天皇元年10月12日
蝦夷を朝廷に饗応する。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月甲午条】 -
皇極天皇元年10月15日
蘇我大臣が蝦夷を家に迎えて自ら慰問した。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月丁酉条】
この日、新羅の弔使の船と賀騰極使 の船が壱岐島に泊った。 -
皇極天皇元年10月24日
夜中に地震があった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月丙午条】 -
皇極天皇元年10月
夏の
令 を行った。雲が無いのに雨が降った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月是月条】 -
皇極天皇元年11月2日
大雨が降って雷が鳴った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月癸丑条】 -
皇極天皇元年11月5日
夜半に雷が一度西北の方角で鳴った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月丙辰条】 -
皇極天皇元年11月8日
雷が五度西北の方角で鳴った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月己未条】 -
皇極天皇元年11月9日
天の暖かさは春の気のようだった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月庚申条】 -
皇極天皇元年11月10日
雨が降る。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月辛酉条】 -
皇極天皇元年11月11日
天の暖かさは春の気のようだった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月壬戌条】 -
皇極天皇元年11月13日
雷が一度北方で鳴って風が起った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月甲子条】 -
皇極天皇元年11月16日
新嘗を行った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月丁卯条】
この日、皇子・大臣もそれぞれ自ら新嘗を行った。 -
皇極天皇元年12月1日
天の暖かさは春の気のようだった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月壬午朔条】 -
皇極天皇元年12月3日
雷が昼に五度鳴り、夜に二度鳴った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲申条】 -
皇極天皇元年12月9日
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月庚寅条】雷が二度東で鳴り、風が吹き雨が降った。
-
皇極天皇元年12月13日
-
皇極天皇元年12月14日
息長山田公が日嗣の誄を奉る。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月乙未条】 -
皇極天皇元年12月20日
雷が三度東北の方角で鳴った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月辛丑条】 -
皇極天皇元年12月21日
息長足日広額天皇を
滑谷岡 に葬った。この日、天皇は
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月壬寅条】小墾田宮 に遷った。-
東宮の南庭の
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月壬寅条 或本云】権宮 に遷った。
-
-
皇極天皇元年12月23日
雷が一度夜に鳴った。裂けるような音だった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲辰条】 -
皇極天皇元年12月30日
天の暖かさは春の気のようだった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月辛亥条】 -
皇極天皇元年
蘇我大臣蝦夷が己の祖廟を
葛城高宮 に立てて八佾 の舞をした。
歌を作って言うには、「
野 麻 騰 能 飫 斯 能 毗 稜 栖 鳴 倭 柁 羅 務 騰 阿 庸 比 柁 豆 矩 梨 擧 始 豆 矩 羅 符 母 」と。
また国中の民と沢山の
部曲 を集めて、予め双墓 を今来に造った。
一つを大陵 という。大臣の墓とした。
一つを小陵 という。入鹿臣の墓とした。
死後に人に世話させることを望まず、さらに上宮 の乳部 の民を全て集めて、塋兆所 に役使した。上宮大娘姫王が発憤して歎いて言うには「蘇我臣は国政を専らにして無礼な行いが多い。天に二つの日は無く、国に二人の王は無い。どうして意のままに封民を役使できるのか」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年是歳条】
このように恨みを買い、遂には共に亡ぼされることとなる。 -
皇極天皇2年1月1日
元旦、五色の大雲が天に満ちて覆って寅の方角が欠けた。また一色の青い霧が周りの地に起った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年正月壬子朔条】 -
皇極天皇2年1月10日
大風が吹いた。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年正月辛酉条】 -
皇極天皇2年2月20日
桃の花が初めて咲いた。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年二月庚子条】 -
皇極天皇2年2月25日
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年二月乙巳条】雹 が降って草木の花や葉を傷めた。 -
皇極天皇2年2月
風が吹き雷が鳴り
雨氷 が降った。冬の
令 を行った。国内の
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年二月是月条】巫覡 らが枝葉を折り取って木綿 を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語 を細かく陳べた。
その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。 -
皇極天皇2年3月13日
難波の百済の客の館と民の家が火災に遭う。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年三月癸亥条】 -
皇極天皇2年3月25日
霜が降って草木の花や葉を傷めた。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年三月乙亥条】 -
皇極天皇2年3月
風が吹き雷が鳴り
雨氷 が降った。冬の
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年三月是月条】令 を行った。 -
皇極天皇2年4月7日
大風が吹いて雨が降った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月丙戌条】 -
皇極天皇2年4月8日
風が起って寒い天気だった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月丁亥条】 -
皇極天皇2年4月20日
西風が吹いて雹が降って寒い天気だった。人は綿入りの着物を重ね着した。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月己亥条】 -
皇極天皇2年4月21日
-
皇極天皇2年4月28日
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月丁未条】権宮 から飛鳥の板蓋の新宮に移る。 -
皇極天皇2年4月25日
近江国が言うには「雹が降りました。その大きさは直径一寸でした」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月甲辰条】 -
皇極天皇2年5月16日
月蝕があった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年五月乙丑条】 -
皇極天皇2年6月13日
筑紫大宰が早馬を使って「
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年六月辛卯条】高麗 が使いを遣わして来朝しました」と奏上した。
群卿はこれを聞いて「高麗は己亥年から来朝してないのに今年になって来朝した」と話し合った。 -
皇極天皇2年6月23日
百済の朝貢船が難波津に泊る。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年六月辛丑条】 -
皇極天皇2年7月3日
-
皇極天皇2年7月
茨田池の水が大いに腐り、小虫が水を覆った。その虫は口が黒く身は白かった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年七月是月条】 -
皇極天皇2年8月15日
茨田池の水が変って藍の汁ようになり、死んだ虫が水を覆った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年八月壬戌条】溝涜 の流れがまた滞った。厚さ三、四寸。大小の魚の臭さは夏の腐敗臭のようで食物にはならなかった。 -
皇極天皇2年9月6日
息長足日広額天皇を
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月壬午条】押坂陵 に葬る。 -
皇極天皇2年9月11日
吉備島皇祖母命が薨じる。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月丁亥条】 -
皇極天皇2年9月17日
-
皇極天皇2年9月19日
皇祖母命を
檀弓岡 に葬る。この日、大雨と
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月乙未条】雹 が降った。 -
皇極天皇2年9月30日
皇祖母命の墓を造る役をやめさせた。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月丙午条】
そして臣・連・伴造に帛布 をそれぞれ賜った。 -
皇極天皇2年9月
茨田池の水がだんだんと白色に変った。また臭気も無くなった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月是月条】 -
皇極天皇2年10月3日
群臣・伴造を朝堂の庭に饗応して授位の事を議った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月己酉条】
そして国司に詔して「以前の勅のとおり改めて変ることは無い。任命した所に行き、慎しんで治めよ」と。 -
皇極天皇2年10月6日
-
皇極天皇2年10月12日
-
皇極天皇2年10月
茨田池の水が戻って清らかになった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月是月条】 -
皇極天皇2年11月1日
蘇我臣入鹿が小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣わして山背大兄王たちを
斑鳩 で襲わせた。奴の三成と数十人の舎人が出陣して防ぎ戦った。
土師娑婆連は矢に当って死に、兵士は恐れて退いた。
軍中の人は「一人当千とは三成をいうか」と語り合った。山背大兄は馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。
遂にその妃と子弟たちを率いると隙を得て逃げ出して胆駒山 に隠れた。
三輪文屋君・舎人の田目連とその女の菟田諸石・伊勢阿部堅経が従った。巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼いた。
灰の中に骨を見つけ、王の死だと誤って囲いを解いて退去した。これにより山背大兄王たちは四、五日間山に留まって食べる物も無かった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】-
巨勢徳太臣・倭馬飼首を将軍とした。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条 或本云】
-
-
皇極天皇2年(11月5日 ~ 12月)
三輪文屋君が進み出て言うには「どうか
深草屯倉 に移動し、そこから馬に乗って東国に行き、乳部 をもとに兵を興し、戻って戦いましょう。そうすれば必ず勝てます」と勧めた。
山背大兄王たちが答えて「お前の言う通りにすれば勝ちは必然であろう。ただし私は十年間は人民を役に労することが無いようにと思っている。どうして一人の身の為に万民を煩わせることが出来ようか。また後世に私が原因で父母が亡くなったと言われたくはない。戦いに勝てば丈夫 と言えるのだろうか。身を捨てて国を固めれば丈夫と言えるのではなかろうか」と。ある人が遠くから上宮の王たちを山中に見つけ、戻って蘇我臣入鹿に伝えた。
入鹿はこれを聞いて大いに恐れた。
すぐに兵を発し、王のいる所を高向臣国押に教えて「速やかに山に向って彼の王を探し捕えよ」と言った。
国押は「私は天皇の宮をお守るするので敢えて外には出ません」と答えた。
入鹿は自ら行こうとした。時に古人大兄皇子が息を切らせながらやって来て「何処へ向うのか」と問うた。
入鹿は詳しく理由を説明した。
古人皇子は「鼠は穴に隠れて生きるが、穴を失うと死ぬ」と言った。
入鹿はこれにより行くのをやめ、軍将らを遣わして胆駒を探させたが見つけることは出来なかった。山背大兄王たちは山を下りて斑鳩寺に入った。
軍将らは兵に寺を囲ませた。山背大兄王は三輪文屋君を使って軍将らに言うには「私が兵を興して入鹿を討てば勝ちは必定である。しかし一人の身の為に人民を傷つけたくはない。だから我が身一つを入鹿にくれてやろう」と。
遂に子弟・妃妾と諸共に自ら首をくくって死んだ。時に五色の幡と
蓋 、様々な伎楽が空に照り輝いて寺に垂れかかった。
衆人は仰ぎ見て嘆き、遂に入鹿を指し示した。
その幡や蓋などは黒雲に変った。これにより入鹿は見ることが出来なかった。蘇我大臣蝦夷は山背大兄王たちが入鹿に亡ぼされたことを聞き、怒り罵って「ああ、入鹿は甚だ愚かだ。暴悪を専らにするとは。お前の身命は危ういだろう」と言った。
時の人は先の謡を解釈して言うには「『岩の上に』というのは
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】上宮 に喩え、『小猿』というのは林臣に喩え、『米焼く』というのは上宮を焼くことに喩え、『米だにも、食 げて通らせ、山羊 の老翁 』というのは山背王の白髪まじりの頭髪の乱れが山羊に似たのに喩えたのだ。またその宮を捨てて深い山に隠れたしるしである」と。-
皇極天皇2年10月14日
-
-
皇極天皇2年
百済の太子余豊が密蜂の巣四枚を以って三輪山に放し飼いにしたが、遂に繁殖しなかった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年是歳条】 -
皇極天皇3年1月1日
-
時に軽皇子は脚を患って参朝しなかった。
中臣鎌子連は以前から軽皇子と親しかった。
それで宮に詣でて宿侍しようとした。
軽皇子は中臣鎌子連の意気が高く優れて容姿に犯し難いことを深く知り、寵妃阿倍氏を使って別殿を掃き清めさせ、新しい寝床を高く敷いて細々と世話させた。敬重さは特異だった。中臣鎌子連は待遇に感激して舎人に言うには「特別な恩沢を賜ることは思ってもいなかった。天下の王となるのを阻む者はいない」と。
舎人はこの話を皇子に報告した。皇子は大変喜んだ。中臣鎌子連は人となりが忠正で、匡済の心があった。
蘇我臣入鹿が君臣・長幼の序を失い、社稷を窺い権力を奪おうとしていることに憤り、次々と王家に接触して功名を立てるべき哲主を探した。
心を中大兄に付けていたが、近付く機会が無く、その深謀を打ち明けられなかった。たまたま中大兄が法興寺の
槻 の木の下で蹴鞠をしていた仲間に加わった。
革靴が蹴り上げた鞠と一緒に脱げ落ちたので、拾って手の平に置いて跪き恭しく奉った。
中大兄も対して跪き恭しく受け取った。
ここから親交を深めて、共に胸の内を語り合って隠す所が無かった。後に、他の人が頻繁な接触を疑うことを恐れ、共に書物を持って南淵先生の所で儒教を学んだ。
往復の路上で肩を並べて密かに図った。一致しない事は無かった。中臣鎌子連が言うには「大事を謀るには、助けが有るに越したことはございません。どうか蘇我倉山田麻呂の長女を召して妃とし、婿舅の関係を築きなさいませ。然る後に説得して計画を実行するのです。成功の道にこれより近いものはございません」と。
中大兄はこれを聞いて大喜びして計画に従った。
中臣鎌子連は自ら出向いて仲立ちした。しかし長女は約束した夜に族に盗まれた。これにより倉山田臣は憂え恐れて為す術が無かった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
少女は憂える父を怪しんで「何を憂え悔いているのですか」と尋ねた。父はその理由を話した。
少女が言うには「どうか心配しないで下さい。私を差し上げても遅くはないでしょう」と。
父は大喜びしてその女を奉った。真心を尽くして非の打ち所が無かった。
中臣鎌子連は佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田を中大兄に勧めて云々と述べた。 -
皇極天皇3年3月
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年三月条】休留 が豊浦大臣の大津の家の倉で子を産んだ。 -
皇極天皇3年3月
倭国が言うには「この頃、
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年三月条】菟田郡 の人で押坂直が一人の子供を連れて雪の上で遊んでいました。菟田山に登って紫の茸が雪から出て生えているのを見つけた。高さは六寸余りで、四町ばかりに満ちていた。そこで子供に採らせ、帰って隣家の人に見せました。皆『知らない』と言いました。また毒を持っていることを疑いました。押坂直と子供は煮て食べてみました。とても香ばしい味がしました。翌日また行って見てみると全て無くなっていました。押坂直と子供は茸の吸物を食べたために、病にかからず長生きしました」と。
或る人が云うには「きっと土地の人は芝草 と知らずに妄りに茸と言ったのではないか」と。 -
皇極天皇3年6月1日
大伴馬飼連が百合の花を献上した。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月癸卯朔条】
その茎の長さは八尺で、根元は別なのに先は連なっていた。 -
皇極天皇3年6月3日
-
皇極天皇3年6月6日
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月戊申条】剣池 の蓮の中に、一つの茎に二つの萼が付いているものがあった。
豊浦大臣は妄りに推察して「これは蘇我臣が栄えるしるしである」と言った。
そして金の墨で書いて大法興寺 の丈六の仏に献上した。 -
皇極天皇3年6月
国内の
巫覡 らが枝葉を折り取って木綿 を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語 を細かく陳べた。
その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。老人らは「風が移ろう兆しである」と言った。
時に
謡歌 が三首あった。
その一に曰く「
波 魯 波 魯 儞 渠 騰 曾 枳 擧 喩 屢 之 麻 能 野 父 播 羅 」と。
その二に曰く「
烏 智 可 拕 能 阿 娑 努 能 枳 枳 始 騰 余 謀 作 儒 倭 例 播 禰 始 柯 騰 比 騰 曾 騰 余 謀 須 」と。
その三に曰く「
烏 麼 野 始 儞 倭 例 烏 比 岐 例 底 制 始 比 騰 能 於 謀 提 母 始 羅 孺 伊 弊 母 始 羅 孺 母 」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月是月条】 -
皇極天皇3年7月
東国の
不尽河 のほとりの人大生部多が、虫を祭ることを村里の人に勧めて「これは常世の神である。この神を祭る者は富と長寿を得る」と言った。
巫覡 らも詐って神語 して「常世の神を祭れば貧しい人は富を得て、老人は若返る」と言った。
このように更に勧めて、民家の財宝を捨てさせ、酒を並べ、野菜・六種の家畜を道端に並べ、「新しい富が入って来たぞ」と言わせた。
都鄙の人は常世の虫を取って祭り、歌い舞い、福を求めて財宝を捨てた。
しかし益は無く、損ばかりが極めて多かった。葛野 の秦造河勝は民を惑わしたことを憎んで大生部多を打った。
巫覡らは恐れて祭りを止めた。時の人が歌を作って言うには
「
禹 都 麻 佐 波 柯 微 騰 母 柯 微 騰 枳 擧 曳 倶 屢 騰 擧 預 能 柯 微 乎 宇 智 岐 多 麻 須 母 」と。
この虫は常に橘の木に生じ、或いは
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年七月条】曼椒 に生じる。
その長さは四寸余り。その大きさは親指ほどで、その色は緑で黒い点があった。その姿は蚕に似ていた。 -
皇極天皇3年11月
蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は家を
甘檮岡 に並べて建てた。
大臣の家を上宮門 と呼んだ。入鹿の家を谷宮門 と呼んだ。
男女の子らを王子と呼んだ。
家の外には城柵を作り、門の傍には武器庫を作った。
門ごとに用水桶を一つ、木鉤数十を置いて火災に備えた。
常に武器を持った力人 に家を守らせた。大臣は
長直 を使って大丹穂山 に桙削寺 を造らせた。また
畝傍山 の東に家を建てた。
池を掘って城とし、武器庫を建てて矢を蓄えた。常に五十人の兵士を率いて出入りした。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年十一月条】
力人を名付けて東方儐従者 という。
諸氏の人らがその門に侍った。名付けて祖子孺者 という。
漢直 らは専ら二門に侍った。 -
皇極天皇4年1月
或いは丘の峰つづきに、或いは河辺に、或いは宮寺の間に遥かに見える物があり、猿のうめきが聞こえた。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年正月条】
或いは十ばかり、或いは二十ばかり、行って見れば物は見えず、尚もうめきは響いて聞こえた。
その姿は見ることが出来なかった。
時の人は「これは伊勢大神の使いである」と言った。-
皇極天皇4年
この年、
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年正月条 旧本云】京 を難波 に移した。板蓋宮 が廃墟になる兆しである。
-
-
皇極天皇4年4月1日
-
皇極天皇4年6月8日
-
皇極天皇4年6月12日
天皇は大極殿に御座した。古人大兄が侍った。
中臣鎌子連は蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、
俳優 に教えて騙し解かせた。
入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
中大兄は衛門府 に戒めて、一斉に十二の通門を固めて往来を止めた。
衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
中大兄は子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
入鹿は驚いて立とうとした。
子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
中大兄は地に伏して言うには「鞍作は天宗を全て滅ぼして日位 を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代えることが出来ましょうか」と。
天皇は立ち上がって殿の中に入った。
この日、雨が降って水が庭に溢れた。
席障子 で鞍作の屍を覆った。古人大兄は私宅に走り入って、人に「韓人が鞍作臣を殺した。私の心は痛い」と言った。
そして寝所に入り、門を閉ざして出なかった。
中大兄は法興寺に入って城として備えた。
諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、全て皆が従い侍った。
人を使って鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。
漢直 らは族党を総べ集め、甲 を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
賊徒もまた随って散り散りに去った。-
皇極天皇4年6月11日
-
-
皇極天皇4年6月13日
蘇我臣蝦夷らは誅殺される前に天皇記・国記・珍宝を全て焼いた。
船史恵尺はすぐに取りに走って焼けた国記を中大兄に献上した。この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬ることを許した。また喪中に泣くことを許した。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
或る人が第一の謡歌 を説いて言うには「その歌に『はろはろに ことそきこゆる しまのやぶはら』と言うが、これは宮殿を島大臣の家に接して建てた。中大兄と中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を謀殺しようとした兆しである」と。
第二の謡歌を説いて言うには「その歌に『をちかたの あさののきぎし とよもさず われはねしかど ひとそとよもす』と言うが、これは上宮の王たちの人となりが素直で、かつて罪も無く入鹿に殺された。自ら報復しなくても。天が人を使って誅殺される兆しである」と。
第三の謡歌を説いて言うには「その歌に『をばやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらず いへもしらずも』と言うが、これは入鹿臣が忽ちに宮中で佐伯連子麻呂・稚犬養連網田に斬られる兆しである」と。-
皇極天皇4年6月12日
明くる日に、その父豊浦大臣の子孫らを全て滅した。
【上宮聖徳法王帝説】
-
-
皇極天皇4年6月14日
-
皇極天皇4年6月14日
天豊財重日足姫天皇は位を中大兄に伝えようと思い、詔して云々。
中大兄は退いて中臣鎌子連に語った。
中臣鎌子連が言うには「古人大兄は殿下の兄君です。軽皇子は殿下の舅 君です。古人大兄がおいでになる今、殿下が天皇の位をお嗣ぎになれば、人の弟として遜恭の心に背いてしまいます。しばらくは舅上をお立てになり、民の望みにお答えになれば良いではございませんか」と。
そこで中大兄は深くその言葉を誉め、密かに奏上した。天豊財重日足姫天皇は璽綬を授けて禅位して「ああ、なんじ軽皇子よ」と言って云々。
軽皇子は再三固辞し、いよいよ古人大兄、またの名は古人大市皇子に譲って言うには「大兄命は天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理を以って天位におつきになるべきです」と。
古人大兄は座を退いて拱手して言うには「天皇の思し召しに従います。どうして無理して私に譲ることがありましょうか。私は出家して吉野に入りたいと思います。仏道を勤め修めて天皇の幸せをお祈りします」と。
言い終わると佩刀を解いて地面に投げ打った。また帳内 に命じて刀を解かせた。
そして法興寺の仏殿と塔の間に詣でると、髯・髪を剃って袈裟を着た。これにより軽皇子は固辞することが出来なくなり、
壇 に上って即位した。大伴長徳連は金の
靭 を帯びて壇の右に立った。犬上建部君は金の靭を帯びて壇の左に立った。百官の臣 ・連 ・国造 ・伴造 ・百八十部 は連なり重なって拝礼した。この日、豊財天皇に号を奉って皇祖母尊とする。
中大兄を皇太子とする。
阿倍内摩呂臣を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣とする。大錦冠を中臣鎌子連に授けて内臣とする。封を若干増やして云々。
【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月庚戌条】
中臣鎌子連は至忠の誠を懐き、宰臣として官司の上にあった。
その進退・廃置の計は従われ、事立つと云々。
-
-
皇極天皇4年6月19日
-
大化5年3月17日
-
白雉4年6月
旻法師が亡くなり弔使を遣わす。
【日本書紀 巻第二十五 白雉四年六月条】 -
白雉4年
-
白雉5年10月1日
-
白雉5年10月10日
孝徳天皇が正殿で崩じる。
【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十月壬子条】 -
白雉5年12月8日
-
斉明天皇元年1月3日
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年正月甲戌条】飛鳥板蓋宮 で即位して天皇となる。 -
斉明天皇元年5月1日
空中に竜に乗る者が現れた。姿は唐人に似ていた。青い油笠を着て、葛城山から馳せて胆駒山のほうに隠れた。正午頃に住吉の松嶺の上から西に向って馳せ去った。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年五月庚午朔条】 -
斉明天皇元年7月11日
難波の
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年七月己卯条】朝 で北の蝦夷九十九人、東の蝦夷九十五人に饗応した。同時に百済の調使百五十人にも饗応した。
柵養 の蝦夷九人、津刈 の蝦夷六人に冠位それぞれ二階を授けた。 -
斉明天皇元年7月11日
河辺臣麻呂らが大唐から帰還する。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年七月己卯条】 -
斉明天皇元年10月1日
小墾田に大宮を造って瓦葺きにしようと思った。しかし深山広谷にある宮殿造営用の木材は朽ちたものが多く、遂に造ることを止めた。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年十月丁酉朔己酉条】 -
斉明天皇元年(10月 ~ 12月)
飛鳥板蓋宮から出火した。それで
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年是冬条】飛鳥川原宮 に遷居した。 -
斉明天皇元年
-
斉明天皇2年8月8日
高麗が達沙らを遣わして調を進上した。大使達沙、副使伊利之、総員八十一人であった。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年八月庚子条】 -
斉明天皇2年9月
-
斉明天皇2年
飛鳥 の岡本 にさらに宮地を定めた。時に高麗・百済・新羅が使いを遣わして調を進上した為、この宮地に紺色の幕を張って饗応した。
遂に宮が完成して天皇は遷った。名付けて
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年是歳条】後飛鳥岡本宮 という。 -
斉明天皇2年
田身嶺 の頂上の周りに冠のような垣を築いた。
また嶺の頂上の二つの槻の樹のそばに高殿を起てた。名付けて両槻宮 という。また天宮 という。天皇は工事を好んだ。
水工 に溝を掘らせ、香山 の西から石上山 に至った。
船二百隻に石上山の石を載せて水流に任せて運び、宮の東の山に石を重ねて垣とした。
時の人が謗って言うには「狂心の溝による功夫三万あまりが無駄になった。垣を造ることによる功夫七万あまりが無駄になった。宮材は腐り、山頂は埋もれた」と。
また謗って言うには「石の山丘を作る。作ったところから壊れていくであろう」と。また
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年是歳条】吉野宮 を造った。 -
斉明天皇2年
-
斉明天皇2年
岡本宮から出火する。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年是歳条】 -
斉明天皇3年7月3日
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年七月己丑条】覩貨邏 国の男二人・女四人が筑紫に漂着して「私たちははじめ海見島 に漂着しました」と言った。駅馬を使って召した。 -
斉明天皇3年7月15日
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年七月辛丑条】須弥山 の像を飛鳥寺の西に作った。
また盂蘭瓮会を催した。
夕暮れに覩貨邏人に饗応した。 -
斉明天皇3年9月
有間皇子はずる賢くて狂人を装った云々。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年九月条】牟婁温湯 に行って療養してきたと偽り、国の体勢を讃えて言うには「ただ彼の地を見るだけで病は自ずと消える」と云々。
天皇はこれを聞いて喜び、行って見てみたいと思った。 -
斉明天皇3年
-
斉明天皇3年
-
斉明天皇3年
石見国が言うには「白い狐を見ました」と。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年是歳条】 -
斉明天皇4年1月13日
-
斉明天皇4年4月
-
斉明天皇4年5月
皇孫建王が年八歳で薨じた。
今城谷 の上に殯を起てて収めた。
天皇は元より皇孫の美しい心を愛した。それで哀しみを隠さず慟哭した。
群臣に詔して「朕が死んだ後に朕の陵に合葬せよ」と。
そして歌詠みして「
伊 磨 紀 那 屢 乎 武 例 我 禹 杯 爾 倶 謨 娜 尼 母 旨 屢 倶 之 多 多 婆 那 爾 柯 那 皚 柯 武 」「
伊 喩 之 之 乎 都 那 遇 舸 播 杯 能 倭 柯 矩 娑 能 倭 柯 倶 阿 利 岐 騰 阿 我 謨 婆 儺 倶 爾 」「
阿 須 箇 我 播 瀰 儺 蟻 羅 毗 都 都 喩 矩 瀰 都 能 阿 比 娜 謨 儺 倶 母 於 母 保 喩 屢 柯 母 」と。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年五月条】
天皇は時々歌っては泣いた。 -
斉明天皇4年7月4日
-
斉明天皇4年7月
-
斉明天皇4年10月15日
-
斉明天皇4年11月3日
-
斉明天皇4年11月5日
有間皇子は赤兄の家に向い、高殿に登って画策していると、
夾膝 が自然に壊れた。
これを不祥の前兆と知り、共に誓って中止した。皇子は帰って寝た。この夜半に赤兄は物部朴井連鮪を遣わし、宮を造る
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年十一月甲申条】丁 を集めて有間皇子の市経 の家を囲んだ。
そして駅使を遣わして天皇に奏上した。 -
斉明天皇4年11月9日
-
斉明天皇4年11月11日
-
斉明天皇4年
越国守阿倍引田臣比羅夫が粛慎を討って羆二頭と羆の皮七十枚を献上する。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条】 -
斉明天皇4年
沙門智踰が指南車を造る。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条】 -
斉明天皇4年
出雲国が言うには「北海の浜に死んだ魚が積まれています。厚さは三尺ほどになります。その大きさは
鮐 のようです。雀のような口で、針のような鱗です。鱗の長さは数寸。俗人は『雀が海に入って魚になった。名を雀魚 としよう』と言っております」と。また西海使小花下阿曇連頬垂が百済から帰還して言うには「百済が新羅を討って帰還する時に、馬自ら寺の金堂の周りを歩き出しました。昼夜休むことはなく、草を食べる時に止まるだけです」と。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条】-
斉明天皇6年7月
庚申年七月に至り、百済が使いを遣わし奏上して「大唐と新羅が力を合せて我が国を攻めました。既に義慈王・王后・太子は捕虜となって連れ去られました。これにより国では兵を使って西北の畔に陣取り、城柵を繕って山川を断ち塞ごうとしております」と。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条 或本云 第一】 -
庚申年に至って敵に滅ぼされる兆しである。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条 或本云 第二】
-
-
斉明天皇5年1月3日
紀温湯から還幸する。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年正月辛巳条】 -
斉明天皇5年3月1日
吉野に行幸して宴会する。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月戊寅朔条】 -
斉明天皇5年3月3日
近江の
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月庚辰条】平浦 に行幸する。 -
斉明天皇5年3月10日
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月丁亥条】吐火羅 人が妻の舎衛の婦人と共にやってくる。 -
斉明天皇5年3月17日
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月甲午条】甘檮丘 の東の川上 に須弥山 を造り、陸奥と越の蝦夷に饗応する。 -
斉明天皇5年3月
阿倍臣が船軍百八十艘を率いて蝦夷国を討った。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月是月条】
阿倍臣は飽田 ・渟代 の二郡の蝦夷二百四十一人、その捕虜三十一人、津軽 郡の蝦夷百十二人、その捕虜四人、胆振鉏 の蝦夷二十人を一ヶ所に選び集め、大いに饗応して禄を賜った。
そして船一隻と五色に染めわけた絹を捧げてその地の神を祭った。
肉入籠 に至った時、問菟 の蝦夷胆鹿島・菟穂名の二人が進み出て「後方羊蹄 を政所 とするのが良いでしょう」と言った。
胆鹿島らの言葉に従い、郡領 を置いて帰還した。
道奥と越の国司に位それぞれ二階を、郡領と主政 それぞれに一階を授けた。-
阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦い帰還して捕虜三十九人を献上した。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月是月条 或本云】
-
-
斉明天皇5年7月3日
-
伊吉連博徳の書に曰く、同天皇の御世に、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連らの二船が呉・唐の路に遣わされた。
己未年七月三日に難波の三津の浦から船出した。
八月十一日に筑紫の六津の浦を出た。
九月十三日に百済の南の辺の島に着いた。島の名は不明である。
十四日の寅時。二船は相従って大海に出た。
十五日の日没。石布連の船は横から逆風に遭って南の海の島に漂着した。島の名は爾加委 という。そして島人に殺された。
東漢長直阿利麻・坂合部連稲積ら五人は島人の船に盗み乗って括州に逃げ着いた。州県の官人は洛陽の京 に送った。
十六日の夜半。吉祥連の船は越州の会稽県の須岸山に着いた。東北の風が非常に強かった。
二十二日に余姚県に着く。乗ってきた大船と諸々の調度物をそこに留め置いた。
潤十月一日に越州の州衙に着いた。
十月十五日に駅馬に乗って京に入る。
二十九日に東京 に着いた。天子は東京にいた。三十日に天子と面会して「日本国天皇は平安であるか」と尋ねられた。使人は「天地の徳を合せ、平安でございます」と謹しんで答えた。
天子が「事を執る卿らも変わりないか」と尋ねると、使人は「天皇の恵み深く、変わりございません」と謹んで答えた。
天子が「国内は平和であるか」と尋ねると、使人は「政治は天地に適い、万民は無事でございます」と謹んで答えた。
天子が「これら蝦夷の国はどの方角にあるか」と尋ねると、使人は「国の東北にございます」と謹んで答えた。
天子が「蝦夷は何種あるか」と尋ねると、使人は「三種ございます。遠い者を都加留 と名付け。次の者を麁蝦夷 、近い者を熟蝦夷 と名付けております。今ここにいますのは熟蝦夷でございます。毎年本国の朝 に入貢します」と謹んで答えた。
天子が「その国に五穀はあるか」と尋ねると、使人は「ございません。肉を食して生活しております」と謹んで答えた。
天子が「国に屋舎はあるか」と尋ねると、使人は「ございません。深山の中で木の下に住んでおります」と謹んで答えた。
天子が重ねて言うには「朕は蝦夷の姿の珍しさを見て大変喜ばしくも怪しんでいる。使人は遠くからやってきて苦労であった。退出して館で休むがよい。後にまた相見えよう」と。十一月一日に朝廷で冬至の会があった。会の日にまた拝謁した。参朝する諸蕃の中で
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】倭 の客人が最も勝れていた。後に出火騒ぎにより、また検められなかった。
十二月三日に韓智興の供人西漢大麻呂が我ら客人を讒言した。我らは唐朝から罪せられて流罪が決まった。
先に智興が三千里の外に流された。
客人の中に伊吉連博徳があり、奏上して罪を免れることとなった。
事が後って勅旨があり、「我が国は来年必ず海の東の政をするであろう。汝ら倭の客は東に帰ることは許されない」と。
遂に西京から出してもらえず、それぞれ別に幽閉された。戸を閉ざされ、自由が許されなかった。何年も苦しむこととなった。 -
難波吉士男人の書に曰く、大唐に向った大使は島に触れて転覆した。副使は天子に拝謁して蝦夷を見せた。蝦夷は白鹿の皮一・弓三・箭八十を天子に献上した。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 難波吉士男人書曰】
-
-
斉明天皇5年7月15日
群臣に詔して、京内の寺々に
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月庚寅条】盂蘭盆経 を講説させて、七世の父母に報いさせた。 -
斉明天皇5年
出雲国造に命じて神の宮を修造させる。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年是歳条】 -
斉明天皇5年
狐が
於宇郡 の役丁 が採った葛の末を噛み切って逃げた。また犬が死人の腕を噛み切って
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年是歳条】言屋社 に置いた。
-
斉明天皇5年
高麗の使人が羆の皮一枚を持ってきて「綿六十斤でどうだ」と言った。
市司 は笑って去っていった。高麗画師子麻呂が同姓の客を自分の家に招いた日、官の羆の皮七十枚を借りて、客席に敷いた。客らは羞じ怪しんで退出した。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年是歳条】 -
斉明天皇6年1月1日
-
斉明天皇6年3月
阿倍臣を遣わして船軍二百艘を率いて粛慎国を討たせた。阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて大河の側まで来た。
渡島 の蝦夷一千余が海のほとりに集まり、河に向って屯営していた。営の中の二人が進み出て急に叫んで「粛慎の船が多くやってきて我らを殺そうとしています。どうか河を渡って仕官させて下さい」と言った。
阿倍臣は船を遣わして二つの蝦夷を呼び、賊の隠れ家とその船の数を尋ねた。
二つの蝦夷は隠れ家を指し示して「船は二十余艘です」と言った。使いを遣わして呼んだが来なかった。阿倍臣は
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年三月条】綵帛 ・武器・鉄などを海畔に積んで興味を引いた。
粛慎の船軍を連ね、羽を木に掛けると、それを挙げて旗とした。棹を揃え操って近くに来ると、浅い所に停めた。
一艘の船の裏から二人の老人が出てきて、積まれた綵帛などを歩きながら確認した。すると単衫 に着替え、それぞれ布一端を提げて船に乗って還った。
しばらくすると老人がまたやってきた。着替えた衫を脱ぎ置き、提げた布を置くと船に乗って去った。
阿倍臣は多くの船を遣わして呼んだ。しかし来ることなく弊賂弁島 に帰ってしまった。
しばらくしてから和を乞うてきたが聞き入れず、自ら築いた柵にこもって戦った。
この時に能登臣馬身竜は敵に殺された。
戦局が決まる前に賊は自分の妻子を殺して敗走した。 -
斉明天皇6年5月8日
-
斉明天皇6年5月
有司に勅して、百の
高座 ・百の納袈裟 を作らせて仁王般若 の会を設けた。また皇太子が初めて
漏剋 を造らせて民に時を知らせた。また阿倍引田臣が夷五十余人を献上した。
また
石上池 のほとりに須弥山 を作った。高さは寺院の塔のようであった。粛慎三十七人に饗応した。
また国中の人民が故無く武器を持って道を往来した。国の老人が言うには「百済国が土地を失う兆しか」と。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年五月是月条】 -
斉明天皇6年7月16日
-
斉明天皇6年7月
高麗の沙門道顕の日本世記に曰く、七月云々、春秋智は大将軍蘇定方の手を借りて百済を挟み撃ちにして亡ぼした。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 日本世記曰】
或いは曰く、百済は自ら亡んだ。君の大夫人が妖女かつ無道であり、ほしいままに国権を奪って、賢良の士を誅殺したことにより禍を招いた。慎まなければならない。慎まなければならない。
その注に云うには、新羅の春秋智は、内臣蓋金に願いを入れられなかった。また唐に使いして、自国の衣冠を捨てて天子に媚びた。禍を隣国に投げる意図を構えた。-
斉明天皇6年7月
-
斉明天皇6年7月13日
-
-
斉明天皇6年
-
斉明天皇6年9月5日
百済が達率・沙弥覚従らを遣わして奏上して「今年の七月に新羅が力に恃んで勢いを作り、隣国と親しまずに唐人を引き合わせて百済を転覆しようとしました。君臣は皆俘虜となり、残る者はほとんどおりません」と。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年九月癸卯条】西部 恩率鬼室福信は激しく発憤して任射岐 の山に拠った。
達率余自進は中部の久麻怒利 の城に拠った。
それぞれ一所に陣取って離散した兵を誘い集めた。武器は前の戦いで尽きたので棓 を使って戦った。新羅の軍は破れ、百済はその武器を奪った。
百済兵は戻って鋭く戦った。唐は敢えて入らなかった。
福信らは遂に同国人を集めて王城を守りきった。
国人は尊んで佐平福信・佐平自進と呼び、「福信は神武の権 を起し、既に亡んだ国を興した」と言った。 -
斉明天皇6年10月
百済の佐平鬼室福信が佐平貴智らを遣わして唐の俘虜百余人を献上した。今の美濃国の
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】不破 ・片県 の二郡の唐人らである。
また援軍を乞うて救いを求めてきた。併せて王子余豊障を乞うて言うには「唐人は害虫のような賊を率いて国境を犯し、我が社稷を覆し、我が君臣を俘虜としました。百済国は天皇への護念を頼りに人々を集めて国を成しました。いま謹んでお願い申し上げます。百済国から天朝に遣わした王子豊璋を国主として迎えたいと思います」云々と。
詔して「援軍を乞うて救いを求めることは古昔にも聞く。危きを助け絶えたるを継ぐことは当然である。百済国が窮して我に頼ったのは、本の国が亡び乱れ、依る所も無く、告げる所も無いからである。戈を枕にして胆を嘗めても、必ず救いがあると遠くから来て思いを表したのだ。その志を奪うことは出来ない。将軍にそれぞれ命じ、百の道から共に進むべきである。雲のように集まり、雷のように動け。共に沙喙 に集まれば、その仇を斬り、その迫る苦しみを和らげることが出来る。有司は充分に備えを与え、礼を以って送り遣わすように」云々と。 -
斉明天皇6年12月24日
難波宮 に行幸する。天皇は福信の願いに応じ、筑紫に行幸して救援軍を遣わそうと思い、まずここで武器を準備した。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十二月庚寅条】 -
斉明天皇6年
百済の為に新羅を討とうと思い、駿河国に勅して船を造らせた。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年是歳条】
造り終って績麻郊 に引き入れる時、その船は夜中に故無く艫舳が逆になっていた。人々は敗れることを知った。 -
斉明天皇6年
科野国が言うには「蠅が群がって西に向い、
巨坂 を飛び越えていきました。大きさは十人で囲んだ程です。高さは蒼天に至っていました」と。
或いは救援軍が敗れる怪 であろうことを知った。童謡があり、
「
摩 比 邏 矩 都 能 倶 例 豆 例 於 能 弊 陀 乎 邏 賦 倶 能 理 歌 理 鵝 美 和 陀 騰 能 理 歌 美 烏 能 陛 陀 烏 邏 賦 倶 能 理 歌 理 鵝 甲 子 騰 和 與 騰 美 烏 能 陛 陀 烏 邏 賦 倶 能 理 歌 理 鵝 」と。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年是歳条】 -
斉明天皇7年1月6日
御船が西征のため海路に就く。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年正月壬寅条】 -
斉明天皇7年1月8日
-
斉明天皇7年1月14日
御船が伊予の
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年正月庚戌条】熟田津 の石湯行宮 に着く。 -
斉明天皇7年3月25日
御船を還して
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年三月庚申条】娜大津 に着いた。
磐瀬行宮 に入った。天皇はこれを改めて長津 と名付けた。 -
斉明天皇7年4月
-
斉明天皇7年5月9日
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月癸卯条】朝倉橘広庭宮 に遷居する。
この時、朝倉の社の木を斬り倒してこの宮を造った為、神が怒って御殿を壊した。また宮中に鬼火が見えた。これにより大舎人や諸々の近侍に病死する者が多かった。-
斉明天皇7年4月
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年四月条 或本云】朝倉宮 に遷居する。
-
-
斉明天皇7年5月23日
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条】耽羅 が初めて王子阿波伎らを遣わして貢献した。-
斉明天皇7年
-
-
斉明天皇7年6月
伊勢王が薨じる。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年六月条】 -
斉明天皇7年7月24日
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年七月丁巳条】朝倉宮 で崩じる。 -
斉明天皇7年8月1日
-
斉明天皇7年10月7日
天皇の亡骸は帰途に就いた。
皇太子はある所に泊って、天皇を慕い悲しんだ。そして口ずさんで言うには「
枳 瀰 我 梅 能 姑 裒 之 枳 舸 羅 儞 婆 底 底 威 底 舸 矩 野 姑 悲 武 謀 枳 濔 我 梅 弘 報 梨 」と。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十月己巳条】 -
斉明天皇7年10月23日
天皇の亡骸は還って
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十月乙酉条】難波 に着いた。 -
斉明天皇7年11月7日
天皇の亡骸を
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十一月戊戌条】飛鳥川原 で殯した。
この日から九日に至るまで発哀した。 -
斉明天皇7年11月
-
斉明天皇7年
-
-
天智天皇6年2月27日
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇六年二月戊午条】小市岡上陵 に間人皇女と共に合葬される。