皇極天皇

  • twitterでツイートする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
名前
  • 漢風諡号:皇極天皇(こうぎょくてんのう, くゎうぎょくてんわう)
  • 漢風諡号:齊明天皇(さいめいてんのう, さいめいてんわう)斉明天皇
  • 寶皇女【日本書紀】(たから)宝皇女
  • 飛鳥天皇【上宮聖徳法王帝説】(あすか
  • 天豐財重日足姬天皇【日本書紀】あまたからいかしたらし重日、此云伊柯之比。)天豊財重日足姫天皇
  • 豐財天皇【日本書紀】たから)豊財天皇
  • 齋明天皇【新撰姓氏録抄】(さいめいてんのう, さいめいてんわう)斎明天皇
  • 後岡本天皇【日本書紀】(のちのおかもとのすめらみこと, をかも
性別
女性
生年月日
( ~ 舒明天皇2年1月12日)
没年月日
斉明天皇7年7月24日
  • 茅渟王ちぬのおおきみ【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
  • 吉備姫王きびつひめのおおきみ【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
先祖
  1. 茅渟王
    1. 押坂彦人大兄皇子
      1. 敏達天皇
      2. 広姫
    2. 大俣王
  2. 吉備姫王
    1. 桜井皇子
      1. 欽明天皇
      2. 堅塩媛
    2. unknown
配偶者
  • 高向王たかむくのおおきみ【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇即位前紀】
  • 舒明天皇じょめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 漢皇子あやのみこ【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇即位前紀】【父:高向王たかむくのおおきみ
  • 葛城皇子かずらきのみこ天智天皇てんじてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【父:舒明天皇じょめいてんのう
  • 間人皇女はしひとのひめみこ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【父:舒明天皇じょめいてんのう
  • 大海皇子おおあまのみこ天武天皇てんむてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【父:舒明天皇じょめいてんのう
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 第35代天皇てんのう
  • 第37代天皇てんのう
出来事
  • 天豊財重日足姫天皇は渟中倉太珠敷天皇の曽孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の女である。母は吉備姫王という。

    天皇は古の考えに従って政を行った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
  • はじめ橘豊日天皇の孫高向王に嫁いで漢皇子を生んだ。

    後に息長足日広額天皇に嫁いで二男一女を生んだ。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇即位前紀】
  • 舒明天皇2年1月12日

    舒明天皇の皇后となる。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 舒明天皇13年10月9日

    舒明天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丁酉条】
  • 皇極天皇元年1月15日

    皇后は即位して天皇となった。
    蘇我臣蝦夷大臣とすることは元のとおりであった。
    大臣の子の入鹿。またの名は鞍作が自ら国政を執ることはの威にも勝った。
    これにより盗賊は恐れて道に落ちてる物も拾わなくなった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月辛未条】
  • 皇極天皇元年1月29日

    百済に遣わした大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から早馬に乗って来て言うには「百済国は天皇崩御を聞いて、弔使を遣わしました。私は弔使に従って共に筑紫に来ましたが、葬礼にお仕えする為に先に一人で参りました。しかもあの国はいま大いに乱れています」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月乙酉条】
  • 皇極天皇元年2月2日

    阿曇山背連比良夫草壁吉士磐金倭漢書直県を百済の弔使の所へ遣わして消息を尋ねた。
    弔使は返答して「百済国主は私に『塞上はいつも悪さを働くので、還使に付けて返して頂くようにお願いしても朝廷はお許しにならないであろう』と言いました」と。
    百済の弔使の従者らが言うには「去年の十一月に大佐平智積が卒去しました。また百済の使人が崑崙(こんろん)の使いを海に投げ入れました。今年の正月には国主の母が薨じました。また弟王子の子の翹岐原文「又弟王子児翹岐」とあり、弟王子とその子の翹岐か。或いは義慈王の弟の子か。或いは弟王子・(義慈王の)子の翹岐か(弟よりも子を先に記述するのが自然か)。或いは義慈王の弟で、薨じた母の子、つまり義慈王の同母弟、、というのは回りくどくておかしいか。。、及びその同母妹の女子四人、内佐平岐味、高名な人四十余りは島に追放されました」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月戊子条】
  • 皇極天皇元年2月6日

    高麗の使人が難波津に泊る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月壬辰条】
  • 皇極天皇元年2月21日

    諸大夫を難波郡に遣わして高麗国が貢上した金・銀などの献物を点検した。
    使人が貢献を終えて言うには「去年六月に弟王子が薨じました。秋九月に大臣伊梨柯須弥大王を殺し、一緒に伊梨渠世斯ら百八十余人を殺しました。そして弟王子の子を王とし、自分と同姓の都須流金流を大臣としました」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月丁未条】
  • 皇極天皇元年2月22日

    高麗・百済の客に難波郡で饗応した。
    大臣に詔して「津守連大海を高麗に遣わし、国勝吉士水鶏を百済に遣わし、草壁吉士真跡を新羅に遣わし、坂本吉士長兄を任那に遣わすように」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月戊申条】
  • 皇極天皇元年2月24日

    翹岐を召して安曇山背連の家に住まわせた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月庚戌条】
  • 皇極天皇元年2月25日

    高麗・百済の客に饗応する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月辛亥条】
  • 皇極天皇元年2月27日

    高麗の使人と百済の使人が共に帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月癸丑条】
  • 皇極天皇元年3月3日

    雲が無いのに雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月戊午条】
  • 皇極天皇元年3月6日

    新羅が賀騰極使(ひつぎよろこぶるつかい)皇極天皇即位祝賀の使い。弔喪使(みもをとむらうつかい)舒明天皇崩御を弔う使い。を遣わした。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月辛酉条】
  • 皇極天皇元年3月15日

    新羅の使人が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月庚午条】
  • 皇極天皇元年3月

    長雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月是月条】
  • 皇極天皇元年4月8日

    太使翹岐がその従者を率いて天皇に拝謁する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月癸巳条】
  • 皇極天皇元年4月10日

    蘇我大臣畝傍(うねび)の家に百済の翹岐らを招いて親しく話をした。
    そして良馬一匹・鉄二十鋌を賜った。
    ただし塞上は招かなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月乙未条】
  • 皇極天皇元年4月

    長雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月是月条】
  • 皇極天皇元年5月5日

    河内国の依網屯倉(よさみのみやけ)の前に翹岐らを召して射猟を見物させた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月己未条】
  • 皇極天皇元年5月16日

    百済国の調使の船と吉士「吉士とは以前に百済へ奉使されていたか」とある。国勝吉士水鶏か。の船が共に難波津に泊った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月庚午条】
  • 皇極天皇元年5月18日

    百済の使人が調を進上する。
    吉士が服命する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月壬申条】
  • 皇極天皇元年5月21日

    翹岐の従者の一人が死去する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月乙亥条】
  • 皇極天皇元年5月22日

    翹岐の子が死去する。
    翹岐と妻は子の死を畏れ忌み、決して喪には臨まなかった。
    百済・新羅の風俗では、死亡する者があれば父母・兄弟・夫婦・姉妹と雖も自ら見ようとはしない。
    これを以って見れば慈しみが無いこと甚だしく、禽獣と変わらない。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月丙子条】
  • 皇極天皇元年5月23日

    熟した稲が見られた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月丁丑条】
  • 皇極天皇元年5月24日

    翹岐がその妻子を率いて百済の大井の家に移った。
    人を遣わして子を石川に葬った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月戊寅条】
  • 皇極天皇元年6月16日

    小雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年六月庚子条】
  • 皇極天皇元年6月

    大旱だった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年六月是月条】
  • 皇極天皇元年7月9日

    客星(まらうとほし)常に見えない星。が月に入った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月壬戌条】
  • 皇極天皇元年7月22日

    百済の使人大佐平智積らに朝廷で饗応した。
    力士に命じて翹岐の前で相撲を取らせた。
    智積らは宴会が終ると退出して翹岐の門前で拝礼した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月乙亥条】
    • 百済の使人大佐平智積及び子の達率「闕名」とある。恩率軍善らに朝廷で饗応した。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月乙亥条 或本云】
  • 皇極天皇元年7月23日

    蘇我臣入鹿豎者(しとべ)少年の従者。が白い雀の子を獲った。
    この日の同じ時にある人が白雀を籠に入れて蘇我大臣に送った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月丙子条】
  • 皇極天皇元年7月25日

    群臣が相談して言うには「村々の祝部(はふりべ)の教えに従い、或いは牛馬を殺して諸々の社の神を祭り、或いは頻繁に市を移し、或いは河伯(かわのかみ)を祈祷することは全く効果が無い」と。
    蘇我大臣は「寺々は大乗経典(だいじょうきょうてん)を転読して、悔過(けか)すること仏説のように敬って雨乞いしよう」と答えた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月戊寅条】
  • 皇極天皇元年7月27日

    大寺の南の庭に仏菩薩の像と四天王の像を厳飾して、諸僧を召して大雲経(だいうんきょう)などを読ませた。
    時に蘇我大臣は手に香鑪を取り、香を焚いて発願した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月庚辰条】
  • 皇極天皇元年7月28日

    小雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月辛巳条】
  • 皇極天皇元年7月29日

    雨乞いが出来ず、読経を止めた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月壬午条】
  • 皇極天皇元年8月1日

    天皇天皇は南淵(みなぶち)の河上に行幸した。
    跪いて四方を拝礼して天を仰いで祈った。すると雷が鳴って大雨が降った。
    雨は五日間続いて天下を潤した。
    天下の百姓は共に喜んで「この上ない徳を備えた天皇である」と言った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月甲申朔条】
    • 五日間雨が続いて九穀は登熟した。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月甲申朔条 或本云】
  • 皇極天皇元年8月6日

    百済の使いの参官らは帰途に就いた。
    そこで大舶と同船(もろきぶね)「同船母慮紀舟」とある。三艘を賜った。
    この日の夜半に西南の方角で雷が鳴り、風が吹き雨が降った。
    参官らが乗る船舶は岸に触れて破損した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月己丑条】
  • 皇極天皇元年8月13日

    百済の人質達率長福小徳を授けた。
    中客(なかつまらうと)以下に位一級を授けた。
    各々に賜物があった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月丙申条】
  • 皇極天皇元年8月15日

    船を百済の参官等に賜って発遣する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月戊戌条】
  • 皇極天皇元年8月16日

    高麗の使人が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月己亥条】
  • 皇極天皇元年8月26日

    百済・新羅の使人が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月己酉条】
  • 皇極天皇元年9月3日

    大臣に詔して「朕は大寺百済大寺。を造り起そうと思う。近江と越の丁を呼ぶように」と。
    また諸国に課して船舶を造らせた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月乙卯条】
  • 皇極天皇元年9月19日

    大臣に詔して「この月に起して十二月以来を限りに宮室を造営しようと思う。国々に殿屋材(とのき)宮殿造営の木材。を取らせよう。また東は遠江に限りに、西は安芸を限りに宮を造る丁を集めよ」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月辛未条】
  • 皇極天皇元年9月21日

    越のほとりの蝦夷数千人が帰服した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月癸酉条】
  • 皇極天皇元年10月8日

    地震があり雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月庚寅条】
  • 皇極天皇元年10月9日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月辛卯条】
  • 皇極天皇元年10月12日

    蝦夷を朝廷に饗応する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月甲午条】
  • 皇極天皇元年10月15日

    蘇我大臣が蝦夷を家に迎えて自ら慰問した。
    この日、新羅の弔使の船と賀騰極使(ひつぎよろこぶるつかい)の船が壱岐島に泊った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月丁酉条】
  • 皇極天皇元年10月24日

    夜中に地震があった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月丙午条】
  • 皇極天皇元年10月

    夏の(まつりごと)を行った。

    雲が無いのに雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月是月条】
  • 皇極天皇元年11月2日

    大雨が降って雷が鳴った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月癸丑条】
  • 皇極天皇元年11月5日

    夜半に雷が一度西北の方角で鳴った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月丙辰条】
  • 皇極天皇元年11月8日

    雷が五度西北の方角で鳴った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月己未条】
  • 皇極天皇元年11月9日

    天の暖かさは春の気のようだった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月庚申条】
  • 皇極天皇元年11月10日

    雨が降る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月辛酉条】
  • 皇極天皇元年11月11日

    天の暖かさは春の気のようだった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月壬戌条】
  • 皇極天皇元年11月13日

    雷が一度北方で鳴って風が起った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月甲子条】
  • 皇極天皇元年11月16日

    新嘗を行った。
    この日、皇子校異:皇太子大臣もそれぞれ自ら新嘗を行った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月丁卯条】
  • 皇極天皇元年12月1日

    天の暖かさは春の気のようだった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月壬午朔条】
  • 皇極天皇元年12月3日

    雷が昼に五度鳴り、夜に二度鳴った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲申条】
  • 皇極天皇元年12月9日

    雷が二度東で鳴り、風が吹き雨が降った。

    皇極天皇元年十二月庚寅(9日)条だが、同月の辛丑(20日)条と壬寅(21日)条の間にある記事。
    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月庚寅条】
  • 皇極天皇元年12月13日

    初めて息長足日広額天皇の喪を発した。

    この日に小徳巨勢臣徳太大派皇子の代りに(しのびごと)した。
    次に小徳粟田臣細目軽皇子後の孝徳天皇。の代りに誄した。
    次に小徳大伴連馬飼大臣の代りに誄した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲午条】
  • 皇極天皇元年12月14日

    息長山田公が日嗣の誄を奉る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月乙未条】
  • 皇極天皇元年12月20日

    雷が三度東北の方角で鳴った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月辛丑条】
  • 皇極天皇元年12月21日

    息長足日広額天皇滑谷岡(なめはさまのおか)に葬った。

    この日、天皇は小墾田宮(おはりだのみや)に遷った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月壬寅条】
    • 東宮の南庭の権宮(かりみや)に遷った。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月壬寅条 或本云】
  • 皇極天皇元年12月23日

    雷が一度夜に鳴った。裂けるような音だった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲辰条】
  • 皇極天皇元年12月30日

    天の暖かさは春の気のようだった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月辛亥条】
  • 皇極天皇元年

    蘇我大臣蝦夷が己の祖廟を葛城高宮(かずらきのたかみや)に立てて八佾(やつら)の舞をした。
    歌を作って言うには、

    ()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。

    また国中の民と沢山の部曲(かきのたみ)を集めて、予め双墓(ならびのはか)を今来に造った。
    一つを大陵(おおみささぎ)という。大臣の墓とした。
    一つを小陵(こみささぎ)という。入鹿臣の墓とした。
    死後に人に世話させることを望まず、さらに上宮(かみつみや)乳部(みぶ)「乳部。此云美父」とある。皇子の養育料を出す部とされている。の民を全て集めて、塋兆所(はかどころ)に役使した。

    上宮大娘姫王聖徳太子の長女と思われる。舂米女王か。が発憤して歎いて言うには「蘇我臣は国政を専らにして無礼な行いが多い。天に二つの日は無く、国に二人の王は無い。どうして意のままに封民を役使できるのか」と。
    このように恨みを買い、遂には共に亡ぼされることとなる。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年是歳条】
  • 皇極天皇2年1月1日

    元旦、五色の大雲が天に満ちて覆って東北東。の方角が欠けた。また一色の青い霧が周りの地に起った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年正月壬子朔条】
  • 皇極天皇2年1月10日

    大風が吹いた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年正月辛酉条】
  • 皇極天皇2年2月20日

    桃の花が初めて咲いた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年二月庚子条】
  • 皇極天皇2年2月25日

    (あられ)が降って草木の花や葉を傷めた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年二月乙巳条】
  • 皇極天皇2年2月

    風が吹き雷が鳴り雨氷(みぞれ)が降った。

    冬の(まつりごと)を行った。

    国内の巫覡(かんなき)らが枝葉を折り取って木綿(ゆう)を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語(かむごと)を細かく陳べた。
    その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年二月是月条】
  • 皇極天皇2年3月13日

    難波の百済の客の館と民の家が火災に遭う。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年三月癸亥条】
  • 皇極天皇2年3月25日

    霜が降って草木の花や葉を傷めた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年三月乙亥条】
  • 皇極天皇2年3月

    風が吹き雷が鳴り雨氷(みぞれ)が降った。

    冬の(まつりごと)を行った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年三月是月条】
  • 皇極天皇2年4月7日

    大風が吹いて雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月丙戌条】
  • 皇極天皇2年4月8日

    風が起って寒い天気だった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月丁亥条】
  • 皇極天皇2年4月20日

    西風が吹いて雹が降って寒い天気だった。人は綿入りの着物を重ね着した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月己亥条】
  • 皇極天皇2年4月21日

    筑紫大宰が早馬を使って「百済国主の子翹岐弟王子が、調の使いと共に来ています」と奏上する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月庚子条】
  • 皇極天皇2年4月28日直後の記事の3日後にあたる。前後含めてどこか誤記?敢えてここに置いておく。

    権宮(かりみや)から飛鳥の板蓋の新宮に移る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月丁未条】
  • 皇極天皇2年4月25日

    近江国が言うには「雹が降りました。その大きさは直径一寸でした」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月甲辰条】
  • 皇極天皇2年5月16日

    月蝕があった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年五月乙丑条】
  • 皇極天皇2年6月13日

    筑紫大宰が早馬を使って「高麗(こま)が使いを遣わして来朝しました」と奏上した。
    群卿はこれを聞いて「高麗は己亥年舒明天皇11年。から来朝してないのに今年になって来朝した」と話し合った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年六月辛卯条】
  • 皇極天皇2年6月23日

    百済の朝貢船が難波津に泊る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年六月辛丑条】
  • 皇極天皇2年7月3日

    大夫たちを難波郡に遣わして百済国の調と献上品を調べた。
    大夫は調の使いに「進上する調が前例より少なく、大臣に送る物も去年返した物と変らない。群卿に送る物は無く、全て前例と違う。どういうことか」と問うた。
    大使達率自斯・副使恩率軍善は共に「速やかに準備します」と答えた。
    自斯は人質達率武子の子である。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年七月辛亥条】
  • 皇極天皇2年7月

    茨田池の水が大いに腐り、小虫が水を覆った。その虫は口が黒く身は白かった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年七月是月条】
  • 皇極天皇2年8月15日

    茨田池の水が変って藍の汁ようになり、死んだ虫が水を覆った。溝涜(うなて)用水路。の流れがまた滞った。厚さ三、四寸。大小の魚の臭さは夏の腐敗臭のようで食物にはならなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年八月壬戌条】
  • 皇極天皇2年9月6日

    息長足日広額天皇押坂陵(おしさかのみささぎ)に葬る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月壬午条】
    • 広額天皇を呼んで高市天皇という。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月壬午条 或本云】
  • 皇極天皇2年9月11日

    吉備島皇祖母命皇極天皇の母で吉備姫王。が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月丁亥条】
  • 皇極天皇2年9月17日

    土師娑婆連猪手に詔して皇祖母命の喪礼を執らせた。
    天皇は皇祖母命が病に臥せてから喪を発するまで、側を離れず看病を怠らなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月癸巳条】
  • 皇極天皇2年9月19日

    皇祖母命檀弓岡(まゆみのおか)に葬る。

    この日、大雨と(あられ)が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月乙未条】
  • 皇極天皇2年9月30日

    皇祖母命の墓を造る役をやめさせた。
    そして臣・連・伴造に帛布(きぬ)をそれぞれ賜った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月丙午条】
  • 皇極天皇2年9月

    茨田池の水がだんだんと白色に変った。また臭気も無くなった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月是月条】
  • 皇極天皇2年10月3日

    群臣・伴造を朝堂の庭に饗応して授位の事を議った。
    そして国司に詔して「以前の勅のとおり改めて変ることは無い。任命した所に行き、慎しんで治めよ」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月己酉条】
  • 皇極天皇2年10月6日

    蘇我大臣蝦夷が病を理由として参朝せず、密かに紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位に擬えた。
    またその弟入鹿の弟。または蝦夷の弟か。蝦夷の弟であれば倉麻呂が候補か。物部大臣と呼んだ。
    大臣物部大臣を指すと思われる。の祖母は物部弓削大連の妹である。それで母方。の財に因って威を世に振るった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月壬子条】
  • 皇極天皇2年10月12日

    蘇我臣入鹿は独りで謀り、上宮の王たち聖徳太子の皇子たち。を廃して古人大兄天皇立てようとしたこの条の末に「蘇我臣入鹿は上宮の王たちの威名が天下に振るっていることを深く憎み、自分を君主に擬えて独断で立てようとした」と割注がある。

    時に童謡があり、

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    といった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月戊午条】
  • 皇極天皇2年10月

    茨田池の水が戻って清らかになった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月是月条】
  • 皇極天皇2年11月1日

    蘇我臣入鹿小徳巨勢徳太臣大仁土師娑婆連土師娑婆連猪手と思われるが確証は無い。を遣わして山背大兄王たちを斑鳩(いかるが)で襲わせた。

    奴の三成と数十人の舎人が出陣して防ぎ戦った。
    土師娑婆連は矢に当って死に、兵士は恐れて退いた。
    軍中の人は「一人当千とは三成をいうか」と語り合った。

    山背大兄は馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。
    遂にその妃と子弟たちを率いると隙を得て逃げ出して胆駒山(いこまやま)に隠れた。
    三輪文屋君・舎人の田目連とその女の菟田諸石伊勢阿部堅経が従った。

    巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼いた。
    灰の中に骨を見つけ、王の死だと誤って囲いを解いて退去した。

    これにより山背大兄王たちは四、五日間山に留まって食べる物も無かった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
    • 巨勢徳太臣・倭馬飼首を将軍とした。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条 或本云】
  • 皇極天皇2年(11月5日 ~ 12月)

    三輪文屋君が進み出て言うには「どうか深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移動し、そこから馬に乗って東国に行き、乳部(みぶ)同元年十二月是歳条にも見える。をもとに兵を興し、戻って戦いましょう。そうすれば必ず勝てます」と勧めた。
    山背大兄王たちが答えて「お前の言う通りにすれば勝ちは必然であろう。ただし私は十年間は人民を役に労することが無いようにと思っている。どうして一人の身の為に万民を煩わせることが出来ようか。また後世に私が原因で父母が亡くなったと言われたくはない。戦いに勝てば丈夫(ますらお)と言えるのだろうか。身を捨てて国を固めれば丈夫と言えるのではなかろうか」と。

    ある人が遠くから上宮の王たちを山中に見つけ、戻って蘇我臣入鹿に伝えた。
    入鹿はこれを聞いて大いに恐れた。
    すぐに兵を発し、王のいる所を高向臣国押に教えて「速やかに山に向って彼の王を探し捕えよ」と言った。
    国押は「私は天皇の宮をお守るするので敢えて外には出ません」と答えた。
    入鹿は自ら行こうとした。

    時に古人大兄皇子が息を切らせながらやって来て「何処へ向うのか」と問うた。
    入鹿は詳しく理由を説明した。
    古人皇子は「鼠は穴に隠れて生きるが、穴を失うと死ぬ」と言った。
    入鹿はこれにより行くのをやめ、軍将らを遣わして胆駒を探させたが見つけることは出来なかった。

    山背大兄王たちは山を下りて斑鳩寺に入った。
    軍将らは兵に寺を囲ませた。

    山背大兄王三輪文屋君を使って軍将らに言うには「私が兵を興して入鹿を討てば勝ちは必定である。しかし一人の身の為に人民を傷つけたくはない。だから我が身一つを入鹿にくれてやろう」と。
    遂に子弟・妃妾と諸共に自ら首をくくって死んだ。

    時に五色の幡と(きぬがさ)、様々な伎楽が空に照り輝いて寺に垂れかかった。
    衆人は仰ぎ見て嘆き、遂に入鹿を指し示した。
    その幡や蓋などは黒雲に変った。これにより入鹿は見ることが出来なかった。

    蘇我大臣蝦夷山背大兄王たちが入鹿に亡ぼされたことを聞き、怒り罵って「ああ、入鹿は甚だ愚かだ。暴悪を専らにするとは。お前の身命は危ういだろう」と言った。

    時の人は先の謡同十月戊午条の童謡。を解釈して言うには「『岩の上に「伊波能杯儞」』というのは上宮(かみつみや)に喩え、『小猿「古佐屡」』というのは林臣「林臣とは入鹿のことである」とある。に喩え、『米焼く「渠梅野倶」』というのは上宮を焼くことに喩え、『米だにも、()げて通らせ、山羊(かましし)老翁(おじ)「渠梅施儞母 陀礙底騰褒羅栖 柯麻之之能鳴膩」』というのは山背王の白髪まじりの頭髪の乱れが山羊に似たのに喩えたのだ。またその宮を捨てて深い山に隠れたしるしである」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
    • 皇極天皇2年10月14日

      飛鳥天皇の御世の癸卯年十月十四日に蘇我豊浦毛人大臣の児入鹿臣■■林太郎「■■」は欠失。伊加留加宮(いかるかのみや)にいた山代大兄及びその兄弟合せて十五王子の悉くを滅ぼした。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇2年

    百済の太子余豊が密蜂の巣四枚を以って三輪山に放し飼いにしたが、遂に繁殖しなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年是歳条】
  • 皇極天皇3年1月1日

    中臣鎌子連神祇伯に任じたが、再三固辞して就任せず、病を称して退いて三島(みしま)に住んだ。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
  • 時に軽皇子は脚を患って参朝しなかった。
    中臣鎌子連は以前から軽皇子と親しかった。
    それで宮に詣でて宿侍しようとした。
    軽皇子中臣鎌子連の意気が高く優れて容姿に犯し難いことを深く知り、寵妃阿倍氏を使って別殿を掃き清めさせ、新しい寝床を高く敷いて細々と世話させた。敬重さは特異だった。

    中臣鎌子連は待遇に感激して舎人「舎人を使い走りにしていた」とある。に言うには「特別な恩沢を賜ることは思ってもいなかった。天下の王となるのを阻む者はいない」と。
    舎人はこの話を皇子に報告した。皇子は大変喜んだ。

    中臣鎌子連は人となりが忠正で、匡済の心があった。
    蘇我臣入鹿が君臣・長幼の序を失い、社稷を窺い権力を奪おうとしていることに憤り、次々と王家に接触して功名を立てるべき哲主を探した。
    心を中大兄に付けていたが、近付く機会が無く、その深謀を打ち明けられなかった。

    たまたま中大兄が法興寺の(つき)の木の下で蹴鞠をしていた仲間に加わった。
    革靴が蹴り上げた鞠と一緒に脱げ落ちたので、拾って手の平に置いて跪き恭しく奉った。
    中大兄も対して跪き恭しく受け取った。
    ここから親交を深めて、共に胸の内を語り合って隠す所が無かった。

    後に、他の人が頻繁な接触を疑うことを恐れ、共に書物を持って南淵先生の所で儒教を学んだ。
    往復の路上で肩を並べて密かに図った。一致しない事は無かった。

    中臣鎌子連が言うには「大事を謀るには、助けが有るに越したことはございません。どうか蘇我倉山田麻呂の長女を召して妃とし、婿舅の関係を築きなさいませ。然る後に説得して計画を実行するのです。成功の道にこれより近いものはございません」と。
    中大兄はこれを聞いて大喜びして計画に従った。
    中臣鎌子連は自ら出向いて仲立ちした。

    しかし長女は約束した夜に「族とは身狭臣をいう」とある。に盗まれた。これにより倉山田臣は憂え恐れて為す術が無かった。
    少女は憂える父を怪しんで「何を憂え悔いているのですか」と尋ねた。父はその理由を話した。
    少女が言うには「どうか心配しないで下さい。私を差し上げても遅くはないでしょう」と。
    父は大喜びしてその女を奉った。真心を尽くして非の打ち所が無かった。
    中臣鎌子連佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田中大兄に勧めて云々と述べた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
  • 皇極天皇3年3月

    休留(いいどよ)「休留。茅鴟也」とある。正字は鵂鶹。フクロウの古名。豊浦大臣の大津の家の倉で子を産んだ。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年三月条】
  • 皇極天皇3年3月

    倭国が言うには「この頃、菟田郡(うだのこおり)の人で押坂直「闕名」とある。が一人の子供を連れて雪の上で遊んでいました。菟田山に登って紫の茸が雪から出て生えているのを見つけた。高さは六寸余りで、四町ばかりに満ちていた。そこで子供に採らせ、帰って隣家の人に見せました。皆『知らない』と言いました。また毒を持っていることを疑いました。押坂直と子供は煮て食べてみました。とても香ばしい味がしました。翌日また行って見てみると全て無くなっていました。押坂直と子供は茸の吸物を食べたために、病にかからず長生きしました」と。
    或る人が云うには「きっと土地の人は芝草(しそう)万年茸。霊芝。瑞草とされている。と知らずに妄りに茸と言ったのではないか」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年三月条】
  • 皇極天皇3年6月1日

    大伴馬飼連が百合の花を献上した。
    その茎の長さは八尺で、根元は別なのに先は連なっていた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月癸卯朔条】
  • 皇極天皇3年6月3日

    志紀上郡(しきのかみのこおり)が言うには「ある人が三輪山で昼寝をする猿を見ました。その身を損なわないように、こっそりその腕を取ると、猿は眠ったまま歌って

    ()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()()()()()()

    と言ったので、その人は猿の歌を驚き怪しんで捨て去りました」と。
    これは数年を経て、上宮の王たちが蘇我鞍作の為に胆駒山に囲まれる兆しであった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月乙巳条】
  • 皇極天皇3年6月6日

    剣池(つるぎのいけ)の蓮の中に、一つの茎に二つの萼が付いているものがあった。
    豊浦大臣は妄りに推察して「これは蘇我臣が栄えるしるしである」と言った。
    そして金の墨で書いて大法興寺(だいほうこうじ)の丈六の仏に献上した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月戊申条】
  • 皇極天皇3年6月

    国内の巫覡(かんなき)らが枝葉を折り取って木綿(ゆう)を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語(かむごと)を細かく陳べた。
    その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。
    同二年二月是月条に同文あり。

    老人らは「風が移ろう兆しである」と言った。

    時に謡歌(わざうた)が三首あった。
    その一に曰く

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。
    その二に曰く

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。
    その三に曰く

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月是月条】
  • 皇極天皇3年7月

    東国の不尽河(ふじのかわ)今の富士川。のほとりの人大生部多が、虫を祭ることを村里の人に勧めて「これは常世の神である。この神を祭る者は富と長寿を得る」と言った。
    巫覡(かんなき)らも詐って神語(かんごと)して「常世の神を祭れば貧しい人は富を得て、老人は若返る」と言った。
    このように更に勧めて、民家の財宝を捨てさせ、酒を並べ、野菜・六種の家畜馬・牛・羊・豚・犬・鶏。を道端に並べ、「新しい富が入って来たぞ」と言わせた。
    都鄙の人は常世の虫を取って祭り、歌い舞い、福を求めて財宝を捨てた。
    しかし益は無く、損ばかりが極めて多かった。

    葛野(かどの)秦造河勝は民を惑わしたことを憎んで大生部多を打った。
    巫覡らは恐れて祭りを止めた。

    時の人が歌を作って言うには

    ()()()()() ()()()()()()() ()()(𛀁)()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。

    この虫は常に橘の木に生じ、或いは曼椒(ほそき)「曼椒。此云衰曽紀」とある。山椒。に生じる。
    その長さは四寸余り。その大きさは親指ほどで、その色は緑で黒い点があった。その姿は蚕に似ていた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年七月条】
  • 皇極天皇3年11月

    蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は家を甘檮岡(うまかしのおか)に並べて建てた。
    大臣の家を上宮門(うえのみかど)と呼んだ。入鹿の家を谷宮門(はさまのみかど)谷。此云波佐麻。と呼んだ。
    男女の子らを王子と呼んだ。
    家の外には城柵を作り、門の傍には武器庫を作った。
    門ごとに用水桶を一つ、木鉤数十を置いて火災に備えた。
    常に武器を持った力人(ちからびと)に家を守らせた。

    大臣長直(ながのあたい)を使って大丹穂山(おおにほのやま)桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせた。

    また畝傍山(うねびのやま)の東に家を建てた。
    池を掘って城とし、武器庫を建てて矢を蓄えた。

    常に五十人の兵士を率いて出入りした。
    力人を名付けて東方儐従者(あずまのしとべ)という。
    諸氏の人らがその門に侍った。名付けて祖子孺者(おやのこわらわ)という。
    漢直(あやのあたい)らは専ら二門蘇我蝦夷の上宮門・蘇我入鹿の谷宮門。に侍った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年十一月条】
  • 皇極天皇4年1月

    或いは丘の峰つづきに、或いは河辺に、或いは宮寺の間に遥かに見える物があり、猿のうめきが聞こえた。
    或いは十ばかり、或いは二十ばかり、行って見れば物は見えず、尚もうめきは響いて聞こえた。
    その姿は見ることが出来なかった。
    時の人は「これは伊勢大神の使いである」と言った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年正月条】
    • 皇極天皇4年

      この年、(みやこ)難波(なにわ)に移した。板蓋宮(いたふきのみや)が廃墟になる兆しである。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年正月条 旧本云】
  • 皇極天皇4年4月1日

    高麗(こま)の学問僧らが言うには「同学の鞍作得志は虎を友とし、その術を学び取りました。或いは枯山を変えて青山とし、或いは黄土を変えて白い水にします。様々な奇術を尽して究まることはありません。また虎が針を授けて『ゆめゆめ人に知られてはならない。これを使って癒えない病は無い』と言いました。果して言葉通り癒えないことはありませんでした。得志は常にその針を柱の中に隠し置いていました。後に虎がその柱を折り、針を取って走り去りました。高麗国は得志が帰国したいと思っていることを知って毒殺しました」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年四月戊戌朔条】
  • 皇極天皇4年6月8日

    中大兄が密かに倉山田麻呂臣に「三韓が調を献上する日に、必ずお前にその表を読み上げさせる」と言って、遂に入鹿を斬ろうという(はかりごと)を述べた。
    麻呂臣は承諾した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月甲辰条】
  • 皇極天皇4年6月12日

    天皇は大極殿に御座した。古人大兄が侍った。

    中臣鎌子連蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、俳優(わざひと)に教えて騙し解かせた。
    入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。

    倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
    中大兄衛門府(ゆけいのつかさ)に戒めて、一斉に十二の通門を固めて往来を止めた。
    衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。

    時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
    中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。

    海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
    子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
    倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
    鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
    中大兄子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
    そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
    入鹿は驚いて立とうとした。
    子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
    入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
    天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
    中大兄は地に伏して言うには「鞍作「蘇我臣入鹿のまたの名が鞍作である」とある。は天宗を全て滅ぼして日位(ひつぎのくらい)を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代えることが出来ましょうか」と。
    天皇は立ち上がって殿の中に入った。

    佐伯連子麻呂稚犬養連網田入鹿臣を斬った。


    この日、雨が降って水が庭に溢れた。
    席障子(むしろしとみ)鞍作の屍を覆った。

    古人大兄は私宅に走り入って、人に「韓人が鞍作臣を殺した「韓(からひと)の政に因り誅したことを言う」とある。。私の心は痛い」と言った。
    そして寝所に入り、門を閉ざして出なかった。
    中大兄は法興寺に入って城として備えた。
    諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、全て皆が従い侍った。
    人を使って鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。
    漢直(あやのあたい)らは族党を総べ集め、(よろい)を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
    中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。

    高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
    言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
    賊徒もまた随って散り散りに去った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
    • 皇極天皇4年6月11日

      ■■天皇「■■」は欠失。「天」は違筆補記。右傍にも「■■天皇」、「■極天皇(皇極天皇)」か。の御世の乙巳年六月十一日、近江天皇が生まれて廿一年、林太郎■■「■■」は欠失。を殺した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇4年6月13日

    蘇我臣蝦夷らは誅殺される前に天皇記・国記・珍宝を全て焼いた。
    船史恵尺はすぐに取りに走って焼けた国記を中大兄に献上した。

    この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬ることを許した。また喪中に泣くことを許した。


    或る人が第一の謡歌(わざうた)を説いて言うには「その歌に『はろはろに ことそきこゆる しまのやぶはら同三年六月是月条にある謡歌の第一。』と言うが、これは宮殿を島大臣の家に接して建てた。中大兄中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を謀殺しようとした兆しである」と。
    第二の謡歌を説いて言うには「その歌に『をちかたの あさののきぎし とよもさず われはねしかど ひとそとよもす同三年六月是月条にある謡歌の第二。』と言うが、これは上宮の王たちの人となりが素直で、かつて罪も無く入鹿に殺された。自ら報復しなくても。天が人を使って誅殺される兆しである」と。
    第三の謡歌を説いて言うには「その歌に『をばやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらず いへもしらずも同三年六月是月条にある謡歌の第三。「われをひきいれて」は同三年六月是月条では「われをひきれて」』と言うが、これは入鹿臣が忽ちに宮中で佐伯連子麻呂稚犬養連網田に斬られる兆しである」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
    • 皇極天皇4年6月12日

      明くる日蘇我入鹿殺害の翌日。に、その父豊浦大臣の子孫らを全て滅した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇4年6月14日

    位を軽皇子に譲り、中大兄を立てて皇太子とする。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月庚戌条】
    • 皇極天皇4年6月14日

      天豊財重日足姫天皇は位を中大兄に伝えようと思い、詔して云々。
      中大兄は退いて中臣鎌子連に語った。
      中臣鎌子連が言うには「古人大兄は殿下の兄君です。軽皇子は殿下の(おじ)君です。古人大兄がおいでになる今、殿下が天皇の位をお嗣ぎになれば、人の弟として遜恭の心に背いてしまいます。しばらくは舅上をお立てになり、民の望みにお答えになれば良いではございませんか」と。
      そこで中大兄は深くその言葉を誉め、密かに奏上した。

      天豊財重日足姫天皇は璽綬を授けて禅位して「ああ、なんじ軽皇子よ」と言って云々。

      軽皇子は再三固辞し、いよいよ古人大兄、またの名は古人大市皇子に譲って言うには「大兄命天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理を以って天位におつきになるべきです」と。

      古人大兄は座を退いて拱手して胸の前で両手を重ねて敬礼。言うには「天皇の思し召しに従います。どうして無理して私に譲ることがありましょうか。私は出家して吉野に入りたいと思います。仏道を勤め修めて天皇の幸せをお祈りします」と。
      言い終わると佩刀を解いて地面に投げ打った。また帳内(とねり)に命じて刀を解かせた。
      そして法興寺の仏殿と塔の間に詣でると、髯・髪を剃って袈裟を着た。

      これにより軽皇子は固辞することが出来なくなり、(たかみくら)に上って即位した。

      大伴長徳連は金の(ゆき)を帯びて壇の右に立った。犬上建部君は金の靭を帯びて壇の左に立った。百官の(おみ)(むらじ)国造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものお)は連なり重なって拝礼した。

      この日、豊財天皇に号を奉って皇祖母尊とする。
      中大兄を皇太子とする。
      阿倍内摩呂臣左大臣蘇我倉山田石川麻呂臣右大臣とする。

      大錦冠本来は大化三年に制定された冠位とする。中臣鎌子連に授けて内臣とする。封を若干増やして云々。
      中臣鎌子連は至忠の誠を懐き、宰臣として官司の上にあった。
      その進退・廃置の計は従われ、事立つと云々。

      沙門(のりのし)旻法師高向史玄理国博士とする。

      【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月庚戌条】
  • 皇極天皇4年6月19日

    天皇・皇祖母尊・皇太子は大槻の木の下に群臣を召集して誓わせた。
    天神地祇に告げて「天は覆い地は載せ、帝道は唯一であります。しかし末代は澆薄で君臣の秩序は失われています。皇天は我が手を借りて暴逆を誅されました。今共に心血を注ぎ、今後は君は二つの政は無く、臣は朝廷に二心は懐きません。もしこの誓いに背けば天地は災いして神罰は人を殺すでしょう。それは日月のようにはっきりしています」と。

    天豊財重日足姫天皇四年を改めて大化元年とする。

    【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月乙卯条】
  • 大化5年3月17日

    阿倍大臣が薨じる。天皇は朱雀門に行幸し、挙哀して悼んだ。
    皇祖母尊・皇太子たち及び諸公卿も皆従って哀哭した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月辛酉条】
  • 白雉4年6月

    旻法師が亡くなり弔使を遣わす。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年六月条】
  • 白雉4年

    太子が奏上して「(やまと)(みやこ)に遷りたいと存じます」と言った。天皇は許さなかった。

    皇太子は皇祖母尊・間人皇后を奉じ、皇弟らを率いて倭の飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)に入った。公卿大夫・百官の人々は皆従って遷った。
    これにより天皇は恨んで国位を捨てようと思い、宮を山碕に造らせた。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年是歳条】
  • 白雉5年10月1日

    皇太子天皇が病にかかったことを聞いて、皇祖母尊・間人皇后を奉じ、皇弟・公卿らを率いて難波宮に赴いた。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十月癸卯朔条】
  • 白雉5年10月10日

    孝徳天皇が正殿で崩じる。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十月壬子条】
  • 白雉5年12月8日

    孝徳天皇大坂磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に葬られる。

    この日、皇太子は皇祖母尊を奉じて(やまと)河辺行宮(かわべのかりみや)に遷居した。
    老人が語って「鼠が倭の都に向ったのは、遷都の兆しであったのだ」と。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十二月己酉条】
  • 斉明天皇元年1月3日

    飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)即位して天皇となる重祚。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年正月甲戌条】
  • 斉明天皇元年5月1日

    空中に竜に乗る者が現れた。姿は唐人に似ていた。青い油笠を着て、葛城山から馳せて胆駒山のほうに隠れた。正午頃に住吉の松嶺の上から西に向って馳せ去った。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年五月庚午朔条】
  • 斉明天皇元年7月11日

    難波の(みかど)「北とは越である」とある。の蝦夷九十九人、「東とは陸奥である」とある。の蝦夷九十五人に饗応した。同時に百済の調使百五十人にも饗応した。
    柵養(きかう)の蝦夷九人、津刈(つかる)の蝦夷六人に冠位それぞれ二階を授けた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年七月己卯条】
  • 斉明天皇元年7月11日

    河辺臣麻呂らが大唐から帰還する。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年七月己卯条】
  • 斉明天皇元年10月1日

    小墾田に大宮を造って瓦葺きにしようと思った。しかし深山広谷にある宮殿造営用の木材は朽ちたものが多く、遂に造ることを止めた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年十月丁酉朔己酉条】
  • 斉明天皇元年(10月 ~ 12月)

    飛鳥板蓋宮から出火した。それで飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや)に遷居した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年是冬条】
  • 斉明天皇元年

    高麗・百済・新羅が使いを遣わして調を進上した。百済は大使西部(せいほう)達率余宜受、副使東部(とうほう)恩率調信仁、およそ百余人であった。
    蝦夷・隼人は仲間を連れて服属し、朝廷に物を献上した。
    新羅は別に及飡弥武を人質に、十二人を才伎(てひと)とした。弥武は病にかかって死んだ。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年是歳条】
  • 斉明天皇2年8月8日

    高麗が達沙らを遣わして調を進上した。大使達沙、副使伊利之、総員八十一人であった。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年八月庚子条】
  • 斉明天皇2年9月

    高麗に遣わされたのは、大使膳臣葉積、副使坂合部連磐鍬、大判官大上君白麻呂、中判官河内書首「闕名」とある。、小判官大蔵衣縫造麻呂であった。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年九月条】
  • 斉明天皇2年

    飛鳥(あすか)岡本(おかもと)にさらに宮地を定めた。

    時に高麗・百済・新羅が使いを遣わして調を進上した為、この宮地に紺色の幕を張って饗応した。

    遂に宮が完成して天皇は遷った。名付けて後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)という。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年是歳条】
  • 斉明天皇2年

    田身嶺(たむのみね)「田身とは山の名である。これを『たむ』という」とある。の頂上の周りに冠のような垣を築いた。
    また嶺の頂上の二つの槻の樹のそばに高殿を起てた。名付けて両槻宮(ふたつきのみや)という。また天宮(あまつみや)という。

    天皇は工事を好んだ。
    水工(みずたくみ)に溝を掘らせ、香山(かぐやま)の西から石上山(いそのかみのやま)に至った。
    船二百隻に石上山の石を載せて水流に任せて運び、宮の東の山に石を重ねて垣とした。
    時の人が謗って言うには「狂心の溝による功夫三万あまりが無駄になった。垣を造ることによる功夫七万あまりが無駄になった。宮材は腐り、山頂は埋もれた」と。
    また謗って言うには「石の山丘を作る。作ったところから壊れていくであろう」と。
    「あるいは造成中に謗ったか」とある。

    また吉野宮(よしののみや)を造った。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年是歳条】
  • 斉明天皇2年

    西海使佐伯連栲縄「位階級を闕く」とある。小山下難波吉士国勝らが百済から帰還して鸚鵡一隻を献上する。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年是歳条】
  • 斉明天皇2年

    岡本宮から出火する。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇二年是歳条】
  • 斉明天皇3年7月3日

    覩貨邏(とから)国の男二人・女四人が筑紫に漂着して「私たちははじめ海見島(あまみのしま)に漂着しました」と言った。駅馬を使って召した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年七月己丑条】
  • 斉明天皇3年7月15日

    須弥山(すみのやま)の像を飛鳥寺の西に作った。
    また盂蘭瓮会を催した。
    夕暮れに覩貨邏人「或る本では堕羅(たら)人という」とある。に饗応した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年七月辛丑条】
  • 斉明天皇3年9月

    有間皇子はずる賢くて狂人を装った云々。牟婁温湯(むろのゆ)に行って療養してきたと偽り、国の体勢を讃えて言うには「ただ彼の地を見るだけで病は自ずと消える」と云々。
    天皇はこれを聞いて喜び、行って見てみたいと思った。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年九月条】
  • 斉明天皇3年

    使いを新羅に遣わして言うには「沙門(ほうし)智達間人連御厩依網連稚子らを汝の国の使いに付けて大唐に送りたいと思う」と。
    しかし新羅は聞き入れず、沙門智達らは帰還した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年是歳条】
  • 斉明天皇3年

    西海使小花下阿曇連頬垂小山下津臣傴僂が百済から帰還して駱駝一頭・驢二頭を献上した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年是歳条】
  • 斉明天皇3年

    石見国が言うには「白い狐を見ました」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇三年是歳条】
  • 斉明天皇4年1月13日

    左大臣巨勢徳大臣が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年正月丙申条】
  • 斉明天皇4年4月

    阿陪臣「闕名」とある。が船軍百八十艘を率いて蝦夷を討った。
    齶田(あぎた)渟代(ぬしろ)の二郡の蝦夷が怖気づいて降伏した。
    軍を整えて船を齶田浦に連ねた。
    齶田の蝦夷恩荷が進み出て誓って言うには「官軍と戦う為に弓失を持っているのではありません。我々は肉食の生活なので持っているのです。もし官軍に対して弓失を用いれば、齶田浦の神が許しません。清く明らかな心で朝廷にお仕えします」と。
    そこで恩荷小乙上を授け、渟代・津軽の二郡の郡領(こおりのみやつこ)に定めた。
    遂に有間の浜に渡島の蝦夷らを召集して大いに饗応して帰らせた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年四月条】
  • 斉明天皇4年5月

    皇孫建王が年八歳で薨じた。今城谷(いまきのたに)の上に殯を起てて収めた。
    天皇は元より皇孫の美しい心を愛した。それで哀しみを隠さず慟哭した。
    群臣に詔して「朕が死んだ後に朕の陵に合葬せよ」と。
    そして歌詠みして

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。
    天皇は時々歌っては泣いた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年五月条】
  • 斉明天皇4年7月4日

    蝦夷二百余人が朝廷に参上して物を献上した。常にも増して饗応して物を賜った。
    柵養(きかう)の蝦夷二人に位一階を授けた。
    渟代郡(ぬしろのこおり)大領(こおりのみやつこ)沙尼具那小乙下「或る所では位二階を授けて、戸口の人数を調べさせたという」とある。少領(すけのみやつこ)宇婆左建武この時期には廃止されいてる冠位。立身か。、勇健な者二人に位一階、別に沙尼具那らに鮹旗(たこはた)二十頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領を賜った。
    津軽郡の大領馬武大乙上、少領青蒜小乙下、勇健の者二人に位一階を授け、別に馬武らに鮹旗二十頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領を賜った。
    都岐沙羅(つきさら)柵造(きのみやつこ)「闕名」とある。に位二階、判官に位一階を授けた。
    渟足(ぬたり)の柵造大伴君稲積小乙下を授けた。
    また渟代郡の大領沙奈具那に詔して、蝦夷の戸口と捕虜の戸口を調べさせた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年七月甲申条】
  • 斉明天皇4年7月

    沙門智通智達は詔を受けて、新羅の船に乗って大唐国に行き、無性衆生義(むしょうしゅじょうのことわり)を玄奘法師のもとで受けた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年七月是月条】
  • 斉明天皇4年10月15日

    紀温湯(きのゆ)に行幸する。

    天皇は皇孫建王を思い出して悲しみ、口ずさんで

    ()()()(𛀁)() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    ()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() 𩚿()()()()()()()

    ()()()()() ()()()()()()() 𩚿()()()()()()()

    と。
    秦大蔵造万里に詔して「この歌を伝えて、世に忘れないようにせよ」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年十月甲子条】
  • 斉明天皇4年11月3日

    留守官の蘇我赤兄臣有間皇子に語って「天皇の政事には三つの失政がございます。大きな倉庫を起てて民の財を積み集めることがその一。長い溝を掘って食糧を浪費したことがその二。舟に石を載せて運び、積み上げて丘にしたことがその三」と。
    有間皇子赤兄の好意を知り、喜んで答えて「この年になって初めて兵を用いる時がきた」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年十一月壬午条】
  • 斉明天皇4年11月5日

    有間皇子赤兄の家に向い、高殿に登って画策していると、夾膝(おしまずき)が自然に壊れた。
    これを不祥の前兆と知り、共に誓って中止した。皇子は帰って寝た。

    この夜半に赤兄物部朴井連鮪を遣わし、宮を造る(よほろ)を集めて有間皇子市経(いちぶ)の家を囲んだ。
    そして駅使を遣わして天皇に奏上した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年十一月甲申条】
    • 有間皇子蘇我臣赤兄塩屋連小戈守君大石坂合部連薬短籍(ひねりぶみ)短い紙片で作った籤。を取って謀反の事を占った。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年十一月庚寅条 或本云 第一】
    • 有間皇子が言うには「まず大宮を焼いて、五百人で一日両夜牟婁津(むろのつ)で迎え撃ち、速やかに船軍で淡路国への道を断って牢屋に入ったようにすれば、その事は成り易いであろう」と。
      人が諫めて言うには「いけません。計画はそれとしても徳がありません。いま皇子の年は十九です。まだ成人されていません。成人して徳を得るまで待ちましょう」と。

      他の日に有間皇子と一人の判事と謀反について相談した時、皇子の机案(おしまずき)の脚が自然と折れた。
      しかし相談は止めず、遂に誅殺された。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年十一月庚寅条 或本云 第二】
  • 斉明天皇4年11月9日

    有間皇子守君大石坂合部連薬塩屋連鯯魚は捉えられて紀温湯(きのゆ)に送られた。
    舎人新田部末麻呂が従った。

    皇太子有間皇子に親しく尋ねて「どうして謀反を企んだのか」と。答えて「天と赤兄が知っています。私は何も知りません」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年十一月戊子条】
  • 斉明天皇4年11月11日

    丹比小沢連国襲を遣わして有間皇子藤白坂(ふじしろのさか)で絞め殺させた。

    この日、塩屋連鯯魚と舎人新田部連末麻呂を藤白坂で斬った。
    塩屋連鯯魚は殺される時に「願わくは右手で国の宝器を作らせよ」と言った。
    守君大石を上毛野国に、坂合部薬を尾張国に流した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年十一月庚寅条】
  • 斉明天皇4年

    越国守阿倍引田臣比羅夫が粛慎を討って羆二頭と羆の皮七十枚を献上する。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条】
  • 斉明天皇4年

    沙門智踰指南車方向を示す車。を造る。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条】
  • 斉明天皇4年

    出雲国が言うには「北海の浜に死んだ魚が積まれています。厚さは三尺ほどになります。その大きさは(ふぐ)のようです。雀のような口で、針のような鱗です。鱗の長さは数寸。俗人は『雀が海に入って魚になった。名を雀魚(すずめうお)としよう』と言っております」と。

    また西海使小花下阿曇連頬垂が百済から帰還して言うには「百済が新羅を討って帰還する時に、馬自ら寺の金堂の周りを歩き出しました。昼夜休むことはなく、草を食べる時に止まるだけです」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条】
    • 斉明天皇6年7月

      庚申年七月に至り、百済が使いを遣わし奏上して「大唐と新羅が力を合せて我が国を攻めました。既に義慈王・王后・太子は捕虜となって連れ去られました。これにより国では兵を使って西北の畔に陣取り、城柵を繕って山川を断ち塞ごうとしております」と。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条 或本云 第一】
    • 庚申年に至って敵に滅ぼされる兆しである。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条 或本云 第二】
  • 斉明天皇5年1月3日

    紀温湯から還幸する。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年正月辛巳条】
  • 斉明天皇5年3月1日

    吉野に行幸して宴会する。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月戊寅朔条】
  • 斉明天皇5年3月3日

    近江の平浦(ひらのうら)平。此云毘羅。に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月庚辰条】
  • 斉明天皇5年3月10日

    吐火羅(とから)人が妻の舎衛の婦人と共にやってくる。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月丁亥条】
  • 斉明天皇5年3月17日

    甘檮丘(うまかしのおか)檮。此云柯之。の東の川上(かわら)川上。此云箇播羅。須弥山(すみのやま)を造り、陸奥と越の蝦夷に饗応する。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月甲午条】
  • 斉明天皇5年3月

    阿倍臣「闕名」とある。が船軍百八十艘を率いて蝦夷国を討った。
    阿倍臣は飽田(あきた)渟代(ぬしろ)の二郡の蝦夷二百四十一人、その捕虜三十一人、津軽(つかる)郡の蝦夷百十二人、その捕虜四人、胆振鉏(いふりさえ)胆振鉏。此云伊浮梨娑陛。の蝦夷二十人を一ヶ所に選び集め、大いに饗応して禄を賜った。
    そして船一隻と五色に染めわけた絹を捧げてその地の神を祭った。
    肉入籠(ししりこ)肉入籠。此云之之梨姑。に至った時、問菟(という)問菟。此云塗毘宇。の蝦夷胆鹿島菟穂名の二人が進み出て「後方羊蹄(しりへし)後方羊蹄。此云斯梨蔽之。政所(まつりごとどころ)「政所とは蝦夷の郡をいうか」とある。とするのが良いでしょう」と言った。
    胆鹿島らの言葉に従い、郡領(こおりのみやつこ)を置いて帰還した。
    道奥と越の国司に位それぞれ二階を、郡領と主政(まつりごとひと)それぞれに一階を授けた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月是月条】
    • 阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦い帰還して捕虜三十九人を献上した。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月是月条 或本云】
  • 斉明天皇5年7月3日

    小錦下坂合部連石布大仙下津守連吉祥を唐国に遣わした。そして道奥の蝦夷男女二人を唐の天子に見せた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条】
    • 伊吉連博徳の書に曰く、同天皇の御世に、小錦下坂合部石布連大山下津守吉祥連らの二船が呉・唐の路に遣わされた。
      己未年七月三日に難波の三津の浦から船出した。
      八月十一日に筑紫の六津の浦を出た。
      九月十三日に百済の南の辺の島に着いた。島の名は不明である。
      十四日の寅時午前3時から5時までの2時間。。二船は相従って大海に出た。
      十五日の日没。石布連の船は横から逆風に遭って南の海の島に漂着した。島の名は爾加委(にかい)という。そして島人に殺された。
      東漢長直阿利麻坂合部連稲積ら五人は島人の船に盗み乗って括州に逃げ着いた。州県の官人は洛陽の(みやこ)に送った。
      十六日の夜半。吉祥連の船は越州の会稽県の須岸山に着いた。東北の風が非常に強かった。
      二十二日に余姚県に着く。乗ってきた大船と諸々の調度物をそこに留め置いた。
      潤十月一日に越州の州衙に着いた。
      十月十五日に駅馬に乗って長安に入る。
      二十九日に東京(ひむかしのみやこ)洛陽に着いた。天子は東京にいた。

      三十日に天子と面会して「日本国天皇は平安であるか」と尋ねられた。使人は「天地の徳を合せ、平安でございます」と謹しんで答えた。
      天子が「事を執る卿らも変わりないか」と尋ねると、使人は「天皇の恵み深く、変わりございません」と謹んで答えた。
      天子が「国内は平和であるか」と尋ねると、使人は「政治は天地に適い、万民は無事でございます」と謹んで答えた。
      天子が「これら蝦夷の国はどの方角にあるか」と尋ねると、使人は「国の東北にございます」と謹んで答えた。
      天子が「蝦夷は何種あるか」と尋ねると、使人は「三種ございます。遠い者を都加留(つかる)と名付け。次の者を麁蝦夷(あらえみし)、近い者を熟蝦夷(にきえみし)と名付けております。今ここにいますのは熟蝦夷でございます。毎年本国の(みかど)に入貢します」と謹んで答えた。
      天子が「その国に五穀はあるか」と尋ねると、使人は「ございません。肉を食して生活しております」と謹んで答えた。
      天子が「国に屋舎はあるか」と尋ねると、使人は「ございません。深山の中で木の下に住んでおります」と謹んで答えた。
      天子が重ねて言うには「朕は蝦夷の姿の珍しさを見て大変喜ばしくも怪しんでいる。使人は遠くからやってきて苦労であった。退出して館で休むがよい。後にまた相見えよう」と。

      十一月一日に朝廷で冬至の会があった。会の日にまた拝謁した。参朝する諸蕃の中で(やまと)の客人が最も勝れていた。後に出火騒ぎにより、また検められなかった。
      十二月三日に韓智興の供人西漢大麻呂が我ら客人を讒言した。我らは唐朝から罪せられて流罪が決まった。
      先に智興が三千里の外に流された。
      客人の中に伊吉連博徳があり、奏上して罪を免れることとなった。
      事が後って勅旨があり、「我が国は来年必ず海の東の政をするであろう。汝ら倭の客は東に帰ることは許されない」と。
      遂に西京から出してもらえず、それぞれ別に幽閉された。戸を閉ざされ、自由が許されなかった。何年も苦しむこととなった。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 伊吉連博徳書曰】
    • 難波吉士男人の書に曰く、大唐に向った大使は島に触れて転覆した。副使は天子に拝謁して蝦夷を見せた。蝦夷は白鹿の皮一・弓三・箭八十を天子に献上した。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月戊寅条 難波吉士男人書曰】
  • 斉明天皇5年7月15日

    群臣に詔して、京内の寺々に盂蘭盆経(うらぼんきょう)を講説させて、七世の父母に報いさせた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年七月庚寅条】
  • 斉明天皇5年

    出雲国造「闕名」とある。に命じて神の宮を修造させる。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年是歳条】
  • 斉明天皇5年

    狐が於宇郡(おうのこおり)役丁(えよほろ)が採った葛の末を噛み切って逃げた。

    また犬が死人の腕を噛み切って言屋社(いうやのやしろ)言屋。此云伊浮耶。に置いた「天子が崩じる兆しである」とある。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年是歳条】
  • 斉明天皇5年

    高麗の使人が羆の皮一枚を持ってきて「綿六十斤でどうだ」と言った。市司(いちのつかさ)は笑って去っていった。

    高麗画師子麻呂が同姓の客を自分の家に招いた日、官の羆の皮七十枚を借りて、客席に敷いた。客らは羞じ怪しんで退出した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年是歳条】
  • 斉明天皇6年1月1日

    高麗の使人乙相賀取文ら百余人が筑紫に着く。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年正月壬寅朔条】
  • 斉明天皇6年3月

    阿倍臣「闕名」とある。を遣わして船軍二百艘を率いて粛慎国を討たせた。阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて大河の側まで来た。
    渡島(わたりのしま)の蝦夷一千余が海のほとりに集まり、河に向って屯営していた。営の中の二人が進み出て急に叫んで「粛慎の船が多くやってきて我らを殺そうとしています。どうか河を渡って仕官させて下さい」と言った。
    阿倍臣は船を遣わして二つの蝦夷を呼び、賊の隠れ家とその船の数を尋ねた。
    二つの蝦夷は隠れ家を指し示して「船は二十余艘です」と言った。

    使いを遣わして呼んだが来なかった。阿倍臣は綵帛(しみのきぬ)・武器・鉄などを海畔に積んで興味を引いた。
    粛慎の船軍を連ね、羽を木に掛けると、それを挙げて旗とした。棹を揃え操って近くに来ると、浅い所に停めた。
    一艘の船の裏から二人の老人が出てきて、積まれた綵帛などを歩きながら確認した。すると単衫(ひとえきぬ)に着替え、それぞれ布一端を提げて船に乗って還った。
    しばらくすると老人がまたやってきた。着替えた衫を脱ぎ置き、提げた布を置くと船に乗って去った。
    阿倍臣は多くの船を遣わして呼んだ。しかし来ることなく弊賂弁島(へろべのしま)「弊賂弁は渡島の一部である」とある。に帰ってしまった。
    しばらくしてから和を乞うてきたが聞き入れず、自ら築いた柵にこもって戦った。
    この時に能登臣馬身竜は敵に殺された。
    戦局が決まる前に賊は自分の妻子を殺して敗走した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年三月条】
  • 斉明天皇6年5月8日

    高麗の使人乙相賀取父らが難波館(なにわのむろつみ)に着く。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年五月戊申条】
  • 斉明天皇6年5月

    有司に勅して、百の高座(こうざ)・百の納袈裟(のうけさ)を作らせて仁王般若(におうはんにゃ)の会を設けた。

    また皇太子が初めて漏剋(ろこく)を造らせて民に時を知らせた。

    また阿倍引田臣「闕名」とある。が夷五十余人を献上した。

    また石上池(いそのかみのいけ)のほとりに須弥山(すみのやま)を作った。高さは寺院の塔のようであった。

    粛慎三十七人に饗応した。

    また国中の人民が故無く武器を持って道を往来した。国の老人が言うには「百済国が土地を失う兆しか」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年五月是月条】
  • 斉明天皇6年7月16日

    高麗の使人乙相賀取文らが帰途に就いた。

    また都貨羅(とから)乾豆波斯達阿が本土に帰りたいと思い、送使を求めて請うには「願わくは後に大国(やまと)にお仕えしようと思います。そこで妻を留めてしるしとします」と。
    そして数十人と西海の帰途に就いた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条】
  • 斉明天皇6年7月

    高麗の沙門道顕の日本世記に曰く、七月云々、春秋智は大将軍蘇定方の手を借りて百済を挟み撃ちにして亡ぼした。
    或いは曰く、百済は自ら亡んだ。君の大夫人が妖女かつ無道であり、ほしいままに国権を奪って、賢良の士を誅殺したことにより禍を招いた。慎まなければならない。慎まなければならない。
    その注に云うには、新羅の春秋智は、内臣蓋金に願いを入れられなかった。また唐に使いして、自国の衣冠を捨てて天子に媚びた。禍を隣国に投げる意図を構えた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 日本世記曰】
    • 斉明天皇6年7月

      七月十日に大唐の蘇定方が船軍を率いて尾資(びし)の津に陣取った。
      新羅王春秋智は兵馬を率いて怒受利(のずり)の山に陣取った。
      百済を挟撃して戦うこと三日、我が王城は陥落した。
      同月十三日に王城は破れた。
      怒受利の山は百済の東の境である。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年九月癸卯条 或本云】
    • 斉明天皇6年7月13日

      百済王義慈、その妻の恩古、その子のら、その臣佐平千福国弁成孫登ら五十余人は、秋七月十三日に蘇将軍に捉えられて唐国に送られた。
      故無く武器を持ち歩いたのはこの兆しだったか同年五月是月条に見える。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】
  • 斉明天皇6年

    伊吉連博徳の書に云く、庚申年八月に百済が平らげられた後、
    九月十二日に客人を本国に放した。
    十九日に西京長安。を発つ。
    十月十六日に東京洛陽。に着く。初めて阿利麻ら五人に相見えた。
    十一月一日に将軍蘇定方らに捉えられた百済王以下、太子ら諸王子十三人、大佐平沙宅千福国弁成以下三十七人、合せて五十人ばかりを朝堂に奉る為、にわかに引き連れて天子の所に赴いた。天子の恩勅により目の前で釈放された。
    十九日に労いを賜る。
    二十四日に東京を発つ。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 伊吉連博徳書云】
  • 斉明天皇6年9月5日

    百済が達率割注に「闕名」とある。沙弥覚従らを遣わして奏上して「或る本に云わく、逃げ来て難を告げる」とある。「今年の七月に新羅が力に恃んで勢いを作り、隣国と親しまずに唐人を引き合わせて百済を転覆しようとしました。君臣は皆俘虜となり、残る者はほとんどおりません」と。

    西部(せいほう)恩率鬼室福信は激しく発憤して任射岐(にざき)「或る本に云わく、北の任叙利(にじょり)の山という」とある。の山に拠った。
    達率余自進中部の久麻怒利(くのまり)の城「或る本に云わく、都都岐留(つつきる)の山という」とある。に拠った。
    それぞれ一所に陣取って離散した兵を誘い集めた。武器は前の戦いで尽きたので(つかなぎ)棒。を使って戦った。新羅の軍は破れ、百済はその武器を奪った。
    百済兵は戻って鋭く戦った。唐は敢えて入らなかった。
    福信らは遂に同国人を集めて王城を守りきった。
    国人は尊んで佐平福信佐平自進と呼び、「福信は神武の(はかりごと)を起し、既に亡んだ国を興した」と言った。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年九月癸卯条】
  • 斉明天皇6年10月

    百済の佐平鬼室福信佐平貴智「或る本に云わく、佐平貴智・達率正珍という」とある。を遣わして唐の俘虜百余人を献上した。今の美濃国の不破(ふわ)片県(かたあがた)の二郡の唐人らである。
    また援軍を乞うて救いを求めてきた。併せて王子余豊障を乞うて言うには「唐人は害虫のような賊を率いて国境を犯し、我が社稷を覆し、我が君臣を俘虜としました。百済国は天皇への護念を頼りに人々を集めて国を成しました。いま謹んでお願い申し上げます。百済国から天朝に遣わした王子豊璋を国主として迎えたいと思います」云々と。
    詔して「援軍を乞うて救いを求めることは古昔にも聞く。危きを助け絶えたるを継ぐことは当然である。百済国が窮して我に頼ったのは、本の国が亡び乱れ、依る所も無く、告げる所も無いからである。戈を枕にして胆を嘗めても、必ず救いがあると遠くから来て思いを表したのだ。その志を奪うことは出来ない。将軍にそれぞれ命じ、百の道から共に進むべきである。雲のように集まり、雷のように動け。共に沙喙(さたく)に集まれば、その仇を斬り、その迫る苦しみを和らげることが出来る。有司は充分に備えを与え、礼を以って送り遣わすように」云々と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】
    • 王子豊璋及び妻子とその叔父忠勝らを送った。まさに出発の時のことは七年に見える。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】
    • 天皇は豊璋を立てて王とし、塞上に輔佐させ、礼を以って遣わした。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条 或本云】
  • 斉明天皇6年12月24日

    難波宮(なにわのみや)に行幸する。

    天皇は福信の願いに応じ、筑紫に行幸して救援軍を遣わそうと思い、まずここで武器を準備した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十二月庚寅条】
  • 斉明天皇6年

    百済の為に新羅を討とうと思い、駿河国に勅して船を造らせた。
    造り終って績麻郊(おみの)に引き入れる時、その船は夜中に故無く艫舳が逆になっていた。人々は敗れることを知った。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年是歳条】
  • 斉明天皇6年

    科野国が言うには「蠅が群がって西に向い、巨坂(おおさか)を飛び越えていきました。大きさは十人で囲んだ程です。高さは蒼天に至っていました」と。
    或いは救援軍が敗れる(しるし)であろうことを知った。

    童謡があり、内容は難解。

    ()()()()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()()()
    ()()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()()()
    ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()()()

    と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年是歳条】
  • 斉明天皇7年1月6日

    御船が西征のため海路に就く。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年正月壬寅条】
  • 斉明天皇7年1月8日

    御船が大伯(おおく)の海に着いた。
    時に大田姫皇女が女を産んだ。この女の名を大伯皇女とした。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年正月甲辰条】
  • 斉明天皇7年1月14日

    御船が伊予の熟田津(にきたつ)「熟田津。此云儞枳陀豆」とある。石湯行宮(いわゆのかりみや)に着く。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年正月庚戌条】
  • 斉明天皇7年3月25日

    御船を還して本来の航路に戻す。熟田津は寄り道。娜大津(なのおおつ)に着いた。
    磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入った。天皇はこれを改めて長津(ながつ)と名付けた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年三月庚申条】
  • 斉明天皇7年4月

    百済の福信が使いを遣わして上表した。その王子の糺解を迎えたいと乞うた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年四月条】
    • 百済の福信が書を献じて、その君糺解のことを東朝(みかど)に申し上げた。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年四月条 釈道顕日本世記曰】
  • 斉明天皇7年5月9日

    朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷居する。
    この時、朝倉の社の木を斬り倒してこの宮を造った為、神が怒って御殿を壊した。また宮中に鬼火が見えた。これにより大舎人や諸々の近侍に病死する者が多かった。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月癸卯条】
    • 斉明天皇7年4月

      朝倉宮(あさくらのみや)に遷居する。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年四月条 或本云】
  • 斉明天皇7年5月23日

    耽羅(たんら)が初めて王子阿波伎らを遣わして貢献した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条】
    • 斉明天皇7年

      辛酉年正月二十五日に還して越州に着く。
      四月一日に越州の上路に従い東に帰る。
      七日に檉岸山(ちょうがんさん)の南に着く。
      八日の暁に西南の風に順い大海に船を出した。海上で路に迷い苦しんだ。
      九日、八夜してどうにか耽羅の島に着いた。島人の王子阿波岐ら九人を招いた。使人の船に乗せて帝朝に献じることにした。

      五月二十三日、朝倉の朝に奉った。耽羅の入朝はこの時に始まる。

      智興の供人東漢草直足島に讒言されて使人らは寵命を受けられなかった。
      使人らの怨みは上天の神に通り、足島は落雷で死んだ。
      時の人は「大倭(やまと)の天の報いは早い」と称えた。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年五月丁巳条 伊吉連博得書云】
  • 斉明天皇7年6月

    伊勢王が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年六月条】
  • 斉明天皇7年7月24日

    朝倉宮(あさくらのみや)で崩じる。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年七月丁巳条】
  • 斉明天皇7年8月1日

    皇太子天皇の喪をつとめるため、還って磐瀬宮(いわせのみや)に着いた。
    この日の夕、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年八月甲子朔条】
  • 斉明天皇7年10月7日

    天皇の亡骸は帰途に就いた。
    皇太子はある所に泊って、天皇を慕い悲しんだ。そして口ずさんで言うには

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十月己巳条】
  • 斉明天皇7年10月23日

    天皇の亡骸は還って難波(なにわ)に着いた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十月乙酉条】
  • 斉明天皇7年11月7日

    天皇の亡骸を飛鳥川原(あすかのかわら)で殯した。
    この日から九日に至るまで発哀した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十一月戊戌条】
  • 斉明天皇7年11月

    十一月、福信が捕えた唐人の続守言らが筑紫に着く。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十一月戊戌条 日本世記云】
    • 斉明天皇7年

      辛酉年、百済の佐平福信が唐の俘虜百六人を献上した「庚申年に既に福信が唐の俘虜を献じたと云っている。故に今注しておく。其れ決めよ」とある。。近江国の墾田(はりた)に住まわせた。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十一月戊戌条 或本云】
  • 天智天皇6年2月27日

    小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)間人皇女と共に合葬される。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇六年二月戊午条】