名前
  • 漢風諡号:皇極天皇(こうぎょくてんのう, くゎうぎょくてんわう)
  • 漢風諡号:齊明天皇(さいめいてんのう, さいめいてんわう)斉明天皇
  • 寶皇女【日本書紀】(たから)宝皇女
  • 飛鳥天皇【上宮聖徳法王帝説】(あすか
  • 天豐財重日足姬天皇【日本書紀】あまたからいかしたらし重日、此云伊柯之比。)天豊財重日足姫天皇
生年月日
( ~ 舒明天皇2年1月12日)
没年月日
(孝徳天皇元年6月14日 ~ )
  • 茅渟王ちぬのおおきみ【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
  • 吉備姫王きびつひめのおおきみ【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
先祖
  1. 茅渟王
    1. 押坂彦人大兄皇子
      1. 敏達天皇
      2. 広姫
    2. 大俣王
  2. 吉備姫王
    1. 桜井皇子
      1. 欽明天皇
      2. 堅塩媛
    2. unknown
配偶者
  • 舒明天皇じょめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 葛城皇子かずらきのみこ天智天皇てんじてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【父:舒明天皇じょめいてんのう
  • 間人皇女はしひとのひめみこ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【父:舒明天皇じょめいてんのう
  • 大海皇子おおしあまのみこ天武天皇てんむてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【父:舒明天皇じょめいてんのう
子孫
  1. 天智天皇
    1. 大田皇女
      1. 大来皇女
      2. 大津皇子
    2. 持統天皇
      1. 草壁皇子
    3. 建皇子
    4. 御名部皇女
      1. 長屋王
    5. 元明天皇
      1. 文武天皇
      2. 元正天皇
      3. 吉備内親王
    6. 山辺皇女
    7. 明日香皇女
    8. 新田部皇女
      1. 舎人親王
    9. 志貴皇子
      1. 光仁天皇
      2. 湯原王
    10. 弘文天皇
      1. 葛野王
      2. 壱志姫王
      3. 与多王
    11. 川島皇子
    12. 大江皇女
      1. 長皇子
      2. 弓削皇子
    13. 泉皇女
  2. 間人皇女
  3. 天武天皇
    1. 草壁皇子
      1. 元正天皇
      2. 文武天皇
      3. 吉備内親王
    2. 大来皇女
    3. 大津皇子
    4. 長皇子
      1. 栗栖王
      2. 文室浄三
      3. 文室大市
    5. 弓削皇子
    6. 舎人親王
      1. 守部王
      2. 三原王
      3. 船王
      4. 池田王
      5. 飛鳥田女王
      6. 淳仁天皇
      7. 厚見王
    7. 但馬皇女
    8. 新田部親王
      1. 塩焼王
      2. 道祖王
      3. 陽候女王
    9. 穂積親王
    10. 紀皇女
    11. 田形皇女
      1. 笠縫女王
    12. 十市皇女
      1. 葛野王
    13. 高市皇子
      1. 長屋王
      2. 鈴鹿王
      3. 河内女王
      4. 山形女王
    14. 忍壁皇子
      1. 山前王
    15. 磯城皇子
    16. 泊瀬部皇女
    17. 多紀内親王
      1. 湯原王
称号・栄典とても広〜い意味です。
出来事
  • 天豊財重日足姫天皇は渟中倉太珠敷天皇の曽孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の娘である。母は吉備姫王という。

    天皇は古の考えに従って政を行った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
  • 舒明天皇2年1月12日

    舒明天皇の皇后となる。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 舒明天皇13年10月9日

    舒明天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丁酉条】
  • 皇極天皇元年1月15日

    皇后は即位して天皇となった。
    蘇我臣蝦夷大臣とすることは元のとおりであった。
    大臣の子の入鹿。またの名は鞍作が自ら国政を執ることはの威にも勝った。
    これにより盗賊は恐れて道に落ちてる物も拾わなくなった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月辛未条】
  • 皇極天皇元年1月29日

    百済に遣わした大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から早馬に乗って来て言うには「百済国は天皇崩御を聞いて、弔使を遣わしました。私は弔使に従って共に筑紫に来ましたが、葬礼にお仕えする為に先に一人で参りました。しかもあの国はいま大いに乱れています」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月乙酉条】
  • 皇極天皇元年2月2日

    阿曇山背連比良夫草壁吉士磐金倭漢書直県を百済の弔使の所へ遣わして消息を尋ねた。
    弔使は返答して「百済国主は私に『塞上はいつも悪さを働くので、還使に付けて返して頂くようにお願いしても朝廷はお許しにならないであろう』と言いました」と。
    百済の弔使の従者らが言うには「去年の十一月に大佐平智積が卒去しました。また百済の使人が崑崙(こんろん)の使いを海に投げ入れました。今年の正月には国主の母が薨じました。また弟王子の子の翹岐原文「又弟王子児翹岐」とあり、弟王子とその子の翹岐か。或いは義慈王の弟の子か。或いは弟王子・(義慈王の)子の翹岐か(弟よりも子を先に記述するのが自然か)。或いは義慈王の弟で、薨じた母の子、つまり義慈王の同母弟、、というのは回りくどくておかしいか。。、及びその同母妹の女子四人、内佐平岐味、高名な人四十余りは島に追放されました」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月戊子条】
  • 皇極天皇元年2月6日

    高麗の使人が難波津に泊る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月壬辰条】
  • 皇極天皇元年2月21日

    諸大夫を難波郡に遣わして高麗国が貢上した金・銀などの献物を点検した。
    使人が貢献を終えて言うには「去年六月に弟王子が薨じました。秋九月に大臣伊梨柯須弥大王を殺し、一緒に伊梨渠世斯ら百八十余人を殺しました。そして弟王子の子を王とし、自分と同姓の都須流金流を大臣としました」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月丁未条】
  • 皇極天皇元年2月22日

    高麗・百済の客に難波郡で饗応した。
    大臣に詔して「津守連大海を高麗に遣わし、国勝吉士水鶏を百済に遣わし、草壁吉士真跡を新羅に遣わし、坂本吉士長兄を任那に遣わすように」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月戊申条】
  • 皇極天皇元年2月24日

    翹岐を召して安曇山背連の家に住まわせた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月庚戌条】
  • 皇極天皇元年2月25日

    高麗・百済の客に饗応する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月辛亥条】
  • 皇極天皇元年2月27日

    高麗の使人と百済の使人が共に帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月癸丑条】
  • 皇極天皇元年3月6日

    新羅が賀騰極使(ひつぎよろこぶるつかい)皇極天皇即位祝賀の使い。弔喪使(みもをとむらうつかい)舒明天皇崩御を弔う使い。を遣わした。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月辛酉条】
  • 皇極天皇元年3月15日

    新羅の使人が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年三月庚午条】
  • 皇極天皇元年4月8日

    太使翹岐がその従者を率いて天皇に拝謁する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月癸巳条】
  • 皇極天皇元年4月10日

    蘇我大臣畝傍(うねび)の家に百済の翹岐らを招いて親しく話をした。
    そして良馬一匹・鉄二十鋌を賜った。
    ただし塞上は招かなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月乙未条】
  • 皇極天皇元年5月5日

    河内国の依網屯倉(よさみのみやけ)の前に翹岐らを召して射猟を見物させた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月己未条】
  • 皇極天皇元年5月16日

    百済国の調使の船と吉士「吉士とは以前に百済へ奉使されていたか」とある。国勝吉士水鶏か。の船が共に難波津に泊った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月庚午条】
  • 皇極天皇元年5月18日

    百済の使人が調を進上する。
    吉士が服命する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月壬申条】
  • 皇極天皇元年5月21日

    翹岐の従者の一人が死去する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月乙亥条】
  • 皇極天皇元年5月22日

    翹岐の子が死去する。
    翹岐と妻は子の死を畏れ忌み、決して喪には臨まなかった。
    百済・新羅の風俗では、死亡する者があれば父母・兄弟・夫婦・姉妹と雖も自ら見ようとはしない。
    これを以って見れば慈しみが無いこと甚だしく、禽獣と変わらない。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月丙子条】
  • 皇極天皇元年5月24日

    翹岐がその妻子を率いて百済の大井の家に移った。
    人を遣わして子を石川に葬った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月戊寅条】
  • 皇極天皇元年6月

    大旱だった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年六月是月条】
  • 皇極天皇元年7月22日

    百済の使人大佐平智積らに朝廷で饗応した。
    力士に命じて翹岐の前で相撲を取らせた。
    智積らは宴会が終ると退出して翹岐の門前で拝礼した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月乙亥条】
    • 百済の使人大佐平智積及び子の達率「闕名」とある。恩率軍善らに朝廷で饗応した。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月乙亥条 或本云】
  • 皇極天皇元年7月23日

    蘇我臣入鹿豎者(しとべ)少年の従者。が白い雀の子を獲った。
    この日の同じ時にある人が白雀を籠に入れて蘇我大臣に送った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月丙子条】
  • 皇極天皇元年7月25日

    群臣が相談して言うには「村々の祝部(はふりべ)の教えに従い、或いは牛馬を殺して諸々の社の神を祭り、或いは頻繁に市を移し、或いは河伯(かわのかみ)を祈祷することは全く効果が無い」と。
    蘇我大臣は「寺々は大乗経典(だいじょうきょうてん)を転読して、悔過(けか)すること仏説のように敬って雨乞いしよう」と答えた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月戊寅条】
  • 皇極天皇元年7月27日

    大寺の南の庭に仏菩薩の像と四天王の像を厳飾して、諸僧を招いて大雲経(だいうんきょう)などを読ませた。
    時に蘇我大臣は手に香鑪を取り、香を焚いて発願した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月庚辰条】
  • 皇極天皇元年7月28日

    小雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月辛巳条】
  • 皇極天皇元年7月29日

    雨乞いが出来ず、読経を止めた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月壬午条】
  • 皇極天皇元年8月1日

    天皇天皇は南淵(みなぶち)の河上に行幸した。
    跪いて四方を拝礼して天を仰いで祈った。すると雷が鳴って大雨が降った。
    雨は五日間続いて天下を潤した。
    天下の百姓は共に喜んで「この上ない徳を備えた天皇である」と言った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月甲申朔条】
    • 五日間雨が続いて九穀は登熟した。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月甲申朔条 或本云】
  • 皇極天皇元年8月6日

    百済の使いの参官らは帰途に就いた。
    そこで大舶と同船(もろきぶね)「同船母慮紀舟」とある。三艘を賜った。
    この日の夜半に西南の方角で雷が鳴り、風が吹き雨が降った。
    参官らが乗る船舶は岸に触れて破損した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月己丑条】
  • 皇極天皇元年8月13日

    百済の人質達率長福小徳を授けた。
    中客(なかつまらうと)以下に位一級を授けた。
    各々に賜物があった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月丙申条】
  • 皇極天皇元年8月15日

    船を百済の参官等に賜って発遣する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月戊戌条】
  • 皇極天皇元年8月16日

    高麗の使人が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月己亥条】
  • 皇極天皇元年8月26日

    百済・新羅の使人が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年八月己酉条】
  • 皇極天皇元年9月3日

    大臣に詔して「朕は大寺百済大寺。を造り起そうと思う。近江と越の丁を呼ぶように」と。
    また諸国に課して船舶を造らせた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月乙卯条】
  • 皇極天皇元年9月19日

    大臣に詔して「この月に起して十二月以来を限りに宮室を造営しようと思う。国々に殿屋材(とのき)宮殿造営の木材。を取らせよう。また東は遠江に限りに、西は安芸を限りに宮を造る丁を集めよ」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月辛未条】
  • 皇極天皇元年9月21日

    越のほとりの蝦夷数千人が帰服した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月癸酉条】
  • 皇極天皇元年10月12日

    蝦夷を朝廷に饗応する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月甲午条】
  • 皇極天皇元年10月15日

    蘇我大臣が蝦夷を家に迎えて自ら慰問した。
    この日、新羅の弔使の船と賀騰極使(ひつぎよろこぶるつかい)の船が壱岐島に泊った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月丁酉条】
  • 皇極天皇元年11月16日

    新嘗を行った。
    この日、皇子校異:皇太子大臣もそれぞれ自ら新嘗を行った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月丁卯条】
  • 皇極天皇元年12月13日

    初めて息長足日広額天皇の喪を発した。

    この日に小徳巨勢臣徳太大派皇子の代りに(しのびごと)した。
    次に小徳粟田臣細目軽皇子後の孝徳天皇。の代りに誄した。
    次に小徳大伴連馬飼大臣の代りに誄した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲午条】
  • 皇極天皇元年12月14日

    息長山田公が日嗣の誄を奉る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月乙未条】
  • 皇極天皇元年12月21日

    息長足日広額天皇滑谷岡(なめはさまのおか)に葬った。

    この日、天皇は小墾田宮(おはりだのみや)に遷った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月壬寅条】
    • 東宮の南庭の権宮(かりみや)に遷った。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月壬寅条 或本云】
  • 皇極天皇元年

    蘇我大臣蝦夷が己の祖廟を葛城高宮(かずらきのたかみや)に立てて八佾(やつら)の舞をした。
    歌を作って言うには、

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    と。

    また国中の民と沢山の部曲(かきのたみ)を集めて、予め双墓(ならびのはか)を今来に造った。
    一つを大陵(おおみささぎ)という。大臣の墓とした。
    一つを小陵(こみささぎ)という。入鹿臣の墓とした。
    死後に人に世話させることを望まず、さらに上宮(かみつみや)乳部(みぶ)「乳部。此云美父」とある。皇子の養育料を出す部とされている。の民を全て集めて、塋兆所(はかどころ)に役使した。

    上宮大娘姫王聖徳太子の長女と思われる。舂米女王か。が発憤して歎いて言うには「蘇我臣は国政を専らにして無礼な行いが多い。天に二つの日は無く、国に二人の王は無い。どうして意のままに封民を役使できるのか」と。
    このように恨みを買い、遂には共に亡ぼされることとなる。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年是歳条】
  • 皇極天皇2年2月

    国内の巫覡(かんなき)らが枝葉を折り取って木綿(ゆう)を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語(かむごと)を細かく陳べた。
    その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年二月是月条】
  • 皇極天皇2年3月13日

    難波の百済の客の館と民の家が火災に遭う。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年三月癸亥条】
  • 皇極天皇2年4月21日

    筑紫の大宰が早馬を使って「百済国主の子翹岐弟王子が、調の使いと共に来ています」と奏上する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月庚子条】
  • 皇極天皇2年4月28日直後の記事の3日後にあたる。前後含めてどこか誤記?敢えてここに置いておく。

    権宮(かりみや)から飛鳥の板蓋の新宮に移る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月丁未条】
  • 皇極天皇2年4月25日

    近江国が言うには「雹が降りました。その大きさは直径一寸でした」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月甲辰条】
  • 皇極天皇2年5月16日

    月蝕があった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年五月乙丑条】
  • 皇極天皇2年6月13日

    筑紫の大宰が早馬を使って「高麗(こま)が使いを遣わして来朝しました」と奏上した。
    群卿はこれを聞いて「高麗は己亥年舒明天皇11年。から来朝してないのに今年になって来朝した」と話し合った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年六月辛卯条】
  • 皇極天皇2年6月23日

    百済の朝貢船が難波津に泊る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年六月辛丑条】
  • 皇極天皇2年7月3日

    大夫たちを難波郡に遣わして百済国の調と献上品を調べた。
    大夫は調の使いに「進上する調が前例より少なく、大臣に送る物も去年返した物と変らない。群卿に送る物は無く、全て前例と違う。どういうことか」と問うた。
    大使達率自斯・副使恩率軍善は共に「速やかに準備します」と答えた。
    自斯は人質達率武子の子である。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年七月辛亥条】
  • 皇極天皇2年7月

    茨田池の水が大いに腐り、小虫が水を覆った。その虫は口が黒く身は白かった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年七月是月条】
  • 皇極天皇2年8月15日

    茨田池の水が変って藍の汁ようになり、死んだ虫が水を覆った。溝涜(うなて)用水路。の流れがまた滞った。厚さ三、四寸。大小の魚の臭さは夏の腐敗臭のようで食物にはならなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年八月壬戌条】
  • 皇極天皇2年9月6日

    息長足日広額天皇押坂陵(おしさかのみささぎ)に葬る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月壬午条】
    • 広額天皇を呼んで高市天皇という。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月壬午条 或本云】
  • 皇極天皇2年9月11日

    吉備島皇祖母命皇極天皇の母で吉備姫王。が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月丁亥条】
  • 皇極天皇2年9月17日

    土師娑婆連猪手に詔して皇祖母命の喪礼を執らせた。
    天皇は皇祖母命が病に臥せてから喪を発するまで、側を離れず看病を怠らなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月癸巳条】
  • 皇極天皇2年9月19日

    皇祖母命檀弓岡(まゆみのおか)に葬る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月乙未条】
  • 皇極天皇2年9月30日

    皇祖母命の墓を造る役をやめさせた。
    そして臣・連・伴造に帛布(きぬ)をそれぞれ賜った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月丙午条】
  • 皇極天皇2年9月

    茨田池の水がだんだんと白色に変った。また臭気も無くなった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月是月条】
  • 皇極天皇2年10月3日

    群臣・伴造を朝堂の庭に饗応して授位の事を議った。
    そして国司に詔して「以前の勅のとおり改めて変ることは無い。任命した所に行き、慎しんで治めよ」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月己酉条】
  • 皇極天皇2年10月6日

    蘇我大臣蝦夷が病を理由として参朝せず、密かに紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位に擬えた。
    またその弟を物部大臣と呼んだ。
    大臣ここでは蘇我蝦夷ではなく、入鹿の弟を指すと思われる。の祖母は物部弓削大連の妹である。それで蝦夷の母か。の財に因って威を世に振るった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月壬子条】
  • 皇極天皇2年10月12日

    蘇我臣入鹿は独りで謀り、上宮の王たち聖徳太子の皇子たち。を廃して古人大兄天皇立てようとしたこの条の末に「蘇我臣入鹿は上宮の王たちの威名が天下に振るっていることを深く憎み、自分を君主に擬えて独断で立てようとした」と割注がある。

    時に童謡があり、

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    といった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月戊午条】
  • 皇極天皇2年10月

    茨田池の水が戻って清らかになった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月是月条】
  • 皇極天皇2年11月1日

    蘇我臣入鹿小徳巨勢徳太臣大仁土師娑婆連土師娑婆連猪手と思われるが確証は無い。を遣わして山背大兄王たちを斑鳩(いかるが)で襲わせた。

    奴の三成と数十人の舎人が出陣して防ぎ戦った。
    土師娑婆連は矢に当って死に、兵士は恐れて退いた。
    軍中の人は「一人当千とは三成をいうか」と語り合った。

    山背大兄は馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。
    遂にその妃と子弟たちを率いると隙を得て逃げ出して胆駒山(いこまやま)に隠れた。
    三輪文屋君・舎人の田目連とその娘の菟田諸石伊勢阿部堅経が従った。

    巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼いた。
    灰の中に骨を見つけ、王の死だと誤って囲いを解いて退去した。

    これにより山背大兄王たちは四、五日間山に留まって食べる物も無かった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
    • 巨勢徳太臣・倭馬飼首を将軍とした。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条 或本云】
  • 皇極天皇2年(11月5日 ~ 12月)

    三輪文屋君が進み出て言うには「どうか深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移動し、そこから馬に乗って東国に行き、乳部(みぶ)同元年十二月是歳条にも見える。をもとに兵を興し、戻って戦いましょう。そうすれば必ず勝てます」と勧めた。
    山背大兄王たちが答えて「お前の言う通りにすれば勝ちは必然であろう。ただし私は十年間は人民を役に労することが無いようにと思っている。どうして一人の身の為に万民を煩わせることが出来ようか。また後世に私が原因で父母が亡くなったと言われたくはない。戦いに勝てば丈夫(ますらお)と言えるのだろうか。身を捨てて国を固めれば丈夫と言えるのではなかろうか」と。

    ある人が遠くから上宮の王たちを山中に見つけ、戻って蘇我臣入鹿に伝えた。
    入鹿はこれを聞いて大いに恐れた。
    すぐに兵を発し、王のいる所を高向臣国押に教えて「速やかに山に向って彼の王を探し捕えよ」と言った。
    国押は「私は天皇の宮をお守るするので敢えて外には出ません」と答えた。
    入鹿は自ら行こうとした。

    時に古人大兄皇子が息を切らせながらやって来て「何処へ向うのか」と問うた。
    入鹿は詳しく理由を説明した。
    古人皇子は「鼠は穴に隠れて生きるが、穴を失うと死ぬ」と言った。
    入鹿はこれにより行くのをやめ、軍将らを遣わして胆駒を探させたが見つけることは出来なかった。

    山背大兄王たちは山を下りて斑鳩寺に入った。
    軍将らは兵に寺を囲ませた。

    山背大兄王三輪文屋君を使って軍将らに言うには「私が兵を興して入鹿を討てば勝ちは必定である。しかし一人の身の為に人民を傷つけたくはない。だから我が身一つを入鹿にくれてやろう」と。
    遂に子弟・妃妾と諸共に自ら首をくくって死んだ。

    時に五色の幡と(きぬがさ)、様々な伎楽が空に照り輝いて寺に垂れかかった。
    衆人は仰ぎ見て嘆き、遂に入鹿を指し示した。
    その幡や蓋などは黒雲に変った。これにより入鹿は見ることが出来なかった。

    蘇我大臣蝦夷山背大兄王たちが入鹿に亡ぼされたことを聞き、怒り罵って「ああ、入鹿は甚だ愚かだ。暴悪を専らにするとは。お前の身命は危ういだろう」と言った。

    時の人は先の謡同十月戊午条の童謡。を解釈して言うには「『岩の上に「伊波能杯儞」』というのは上宮(かみつみや)に喩え、『小猿「古佐屡」』というのは林臣「林臣とは入鹿のことである」とある。に喩え、『米焼く「渠梅野倶」』というのは上宮を焼くことに喩え、『米だにも、()げて通らせ、山羊(かましし)老翁(おじ)「渠梅施儞母 陀礙底騰褒羅栖 柯麻之之能鳴膩」』というのは山背王の白髪まじりの頭髪の乱れが山羊に似たのに喩えたのだ。またその宮を捨てて深い山に隠れたしるしである」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
    • 皇極天皇2年10月14日

      飛鳥天皇の御世の癸卯年十月十四日に蘇我豊浦毛人大臣の児入鹿臣■■林太郎「■■」は欠失。伊加留加宮(いかるかのみや)にいた山代大兄及びその兄弟合せて十五王子の悉くを滅ぼした。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇2年

    百済の太子余豊が密蜂の巣四枚を以って三輪山に放し飼いにしたが、遂に繁殖しなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年是歳条】
  • 皇極天皇3年1月1日

    中臣鎌子連神祗伯(かんつかさのかみ)に任じたが、再三固辞して就任せず、病を称して退いて三島(みしま)に住んだ。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
  • 時に軽皇子は脚を患って参朝しなかった。
    中臣鎌子連は以前から軽皇子と親しかった。
    それで宮に詣でて宿侍しようとした。
    軽皇子中臣鎌子連の意気が高く優れて容姿に犯し難いことを深く知り、寵妃阿倍氏を使って別殿を掃き清めさせ、新しい寝床を高く敷いて細々と世話させた。敬重さは特異だった。

    中臣鎌子連は待遇に感激して舎人「舎人を使い走りにしていた」とある。に言うには「特別な恩沢を賜ることは思ってもいなかった。天下の王となるのを阻む者はいない」と。
    舎人はこの話を皇子に報告した。皇子は大変喜んだ。

    中臣鎌子連は人となりが忠正で、匡済の心があった。
    蘇我臣入鹿が君臣・長幼の序を失い、社稷を窺い権力を奪おうとしていることに憤り、次々と王家に接触して功名を立てるべき哲主を探した。
    心を中大兄に付けていたが、近付く機会が無く、その深謀を打ち明けられなかった。

    たまたま中大兄が法興寺の(つき)の木の下で蹴鞠をしていた仲間に加わった。
    革靴が蹴り上げた鞠と一緒に脱げ落ちたので、拾って手の平に置いて跪き恭しく奉った。
    中大兄も対して跪き恭しく受け取った。
    ここから親交を深めて、共に胸の内を語り合って隠す所が無かった。

    後に、他の人が頻繁な接触を疑うことを恐れ、共に書物を持って南淵先生の所で儒教を学んだ。
    往復の路上で肩を並べて密かに図った。一致しない事は無かった。

    中臣鎌子連が言うには「大事を謀るには、助けが有るに越したことはございません。どうか蘇我倉山田麻呂の長女を召して妃とし、婿舅の関係を築きなさいませ。然る後に説得して計画を実行するのです。成功の道にこれより近いものはございません」と。
    中大兄はこれを聞いて大喜びして計画に従った。
    中臣鎌子連は自ら出向いて仲立ちした。

    しかし長女は約束した夜に「族とは身狭臣をいう」とある。に盗まれた。これにより倉山田臣は憂え恐れて為す術が無かった。
    少女は憂える父を怪しんで「何を憂え悔いているのですか」と尋ねた。父はその理由を話した。
    少女が言うには「どうか心配しないで下さい。私を差し上げても遅くはないでしょう」と。
    父は大喜びしてその娘を奉った。真心を尽くして非の打ち所が無かった。
    中臣鎌子連佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田中大兄に勧めて云々と述べた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
  • 皇極天皇3年3月

    休留(いいどよ)「休留。茅鴟也」とある。正字は鵂鶹。フクロウの古名。豊浦大臣の大津の家の倉で子を産んだ。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年三月条】
  • 皇極天皇3年3月

    倭国が言うには「この頃、菟田郡(うだのこおり)の人で押坂直「闕名」とある。が一人の子供を連れて雪の上で遊んでいました。菟田山に登って紫の茸が雪から出て生えているのを見つけた。高さは六寸余りで、四町ばかりに満ちていた。そこで子供に採らせ、帰って隣家の人に見せました。皆『知らない』と言いました。また毒を持っていることを疑いました。押坂直と子供は煮て食べてみました。とても香ばしい味がしました。翌日また行って見てみると全て無くなっていました。押坂直と子供は茸の吸物を食べたために、病にかからず長生きしました」と。
    或る人が云うには「きっと土地の人は瑞草と知らずに妄りに茸と言ったのではないか」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年三月条】
  • 皇極天皇3年6月1日

    大伴馬飼連が百合の花を献上した。
    その茎の長さは八尺で、根元は別なのに先は連なっていた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月癸卯朔条】
  • 皇極天皇3年6月3日

    志紀上郡(しきのかみのこおり)が言うには「ある人が三輪山で昼寝をする猿を見ました。その身を損なわないように、こっそりその腕を取ると、猿は眠ったまま歌って

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    と言ったので、その人は猿の歌を驚き怪しんで捨て去りました」と。
    これは数年を経て、上宮の王たちが蘇我鞍作の為に胆駒山に囲まれる兆しであった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月乙巳条】
  • 皇極天皇3年6月6日

    剣池(つるぎのいけ)の蓮の中に、一つの茎に二つの萼が付いているものがあった。
    豊浦大臣は妄りに推察して「これは蘇我臣が栄えるしるしである」と言った。
    そして金の墨で書いて大法興寺(だいほうこうじ)の丈六の仏に献上した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月戊申条】
  • 皇極天皇3年6月

    国内の巫覡(かんなき)らが枝葉を折り取って木綿(ゆう)を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語(かむごと)を細かく陳べた。
    その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。
    同二年二月是月条に同文あり。

    老人らは「風が移ろう兆しである」と言った。

    時に謡歌(わざうた)が三首あった。
    その一に曰く

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    と。
    その二に曰く

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    と。
    その三に曰く

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月是月条】
  • 皇極天皇3年7月

    東国の不尽河(ふじのかわ)今の富士川。のほとりの人大生部多が、虫を祭ることを村里の人に勧めて「これは常世の神である。この神を祭る者は富と長寿を得る」と言った。
    巫覡(かんなき)らも詐って神語(かんごと)して「常世の神を祭れば貧しい人は富を得て、老人は若返る」と言った。
    このように更に勧めて、民家の財宝を捨てさせ、酒を並べ、野菜・六種の家畜馬・牛・羊・豚・犬・鶏。を道端に並べ、「新しい富が入って来たぞ」と言わせた。
    都鄙の人は常世の虫を取って祭り、歌い舞い、福を求めて財宝を捨てた。
    しかし益は無く、損ばかりが極めて多かった。

    葛野(かどの)秦造河勝は民を惑わしたことを憎んで大生部多を打った。
    巫覡らは恐れて祭りを止めた。

    時の人が歌を作って言うには

    ()()()()() ()()()()()()() ()()(𛀁)()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。

    この虫は常に橘の木に生じ、或いは曼椒(ほそき)「曼椒。此云衰曽紀」とある。山椒。に生じる。
    その長さは四寸余り。その大きさは親指ほどで、その色は緑で黒い点があった。その姿は蚕に似ていた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年七月条】
  • 皇極天皇3年11月

    蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は家を甘檮岡(うまかしのおか)に並べて建てた。
    大臣の家を上宮門(うえのみかど)と呼んだ。入鹿の家を谷宮門(はさまのみかど)谷。此云波佐麻。と呼んだ。
    男女の子らを王子と呼んだ。
    家の外には城柵を作り、門の傍には武器庫を作った。
    門ごとに用水桶を一つ、木鉤数十を置いて火災に備えた。
    常に武器を持った力人(ちからびと)に家を守らせた。

    大臣長直(ながのあたい)を使って大丹穂山(おおにほのやま)桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせた。

    また畝傍山(うねびのやま)の東に家を建てた。
    池を掘って城とし、武器庫を建てて矢を蓄えた。

    常に五十人の兵士を率いて出入りした。
    力人を名付けて東方儐従者(あずまのしとべ)という。
    諸氏の人らがその門に侍った。名付けて祖子孺者(おやのこわらわ)という。
    漢直(あやのあたい)らは専ら二門蘇我蝦夷の上宮門・蘇我入鹿の谷宮門。に侍った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年十一月条】
  • 皇極天皇4年1月

    或いは丘の峰つづきに、或いは河辺に、或いは宮寺の間に遥かに見える物があり、猿のうめきが聞こえた。
    或いは十ばかり、或いは二十ばかり、行って見れば物は見えず、尚もうめきは響いて聞こえた。
    その姿は見ることが出来なかった。
    時の人は「これは伊勢大神の使いである」と言った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年正月条】
    • 皇極天皇4年

      この年、(みやこ)難波(なにわ)に移した。板蓋宮(いたふきのみや)が廃墟になる兆しである。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年正月条 旧本云】
  • 皇極天皇4年4月1日

    高麗(こま)の学問僧らが言うには「同学の鞍作得志は虎を友とし、その術を学び取りました。或いは枯山を変えて青山とし、或いは黄土を変えて白い水にします。様々な奇術を尽して究まることはありません。また虎が針を授けて『ゆめゆめ人に知られてはならない。これを使って癒えない病は無い』と言いました。果して言葉通り癒えないことはありませんでした。得志は常にその針を柱の中に隠し置いていました。後に虎がその柱を折り、針を取って走り去りました。高麗国は得志が帰国したいと思っていることを知って毒殺しました」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年四月戊戌朔条】
  • 皇極天皇4年6月8日

    中大兄が密かに倉山田麻呂臣に「三韓が調を献上する日に、必ずお前にその表を読み上げさせる」と言って、遂に入鹿を斬ろうという(はかりごと)を述べた。
    麻呂臣は承諾した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月甲辰条】
  • 皇極天皇4年6月12日

    天皇は大極殿に御座した。古人大兄が侍った。

    中臣鎌子連蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、俳優(わざひと)に教えて騙し解かせた。
    入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。

    倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
    中大兄衛門府(ゆけいのつかさ)に戒めて、一斉に十二の通門を固めて徃来を止めた。
    衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。

    時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
    中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。

    海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
    子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
    倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
    鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
    中大兄子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
    そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
    入鹿は驚いて立とうとした。
    子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
    入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
    天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
    中大兄は地に伏して言うには「鞍作は天宗を全て滅ぼして。日位(ひつぎのくらい)を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作「蘇我臣入鹿のまたの名が鞍作である」とある。に代えることが出来ましょうか」と。
    天皇は立ち上がって殿の中に入った。

    佐伯連子麻呂稚犬養連網田入鹿臣を斬った。


    この日、雨が降って水が庭に溢れた。
    席障子(むしろしとみ)鞍作の屍を覆った。

    古人大兄は私宅に走り入って、人に「韓人が鞍作臣を殺した「韓(からひと)の政に因り誅したことを言う」とある。。私の心は痛い」と言った。
    そして寝所に入り、門を閉ざして出なかった。
    中大兄は法興寺に入って城として備えた。
    諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、全て皆が従い侍った。
    人を使って鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。
    漢直(あやのあたい)らは族党を総べ集め、(よろい)を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
    中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。

    高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
    言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
    賊徒もまた随って散り散りに去った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
    • 皇極天皇4年6月11日

      ■■天皇「■■」は欠失。「天」は違筆補記。右傍にも「■■天皇」、「■極天皇(皇極天皇)」か。の御世の乙巳年六月十一日、近江天皇が生まれて廿一年、林太郎■■「■■」は欠失。を殺した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇4年6月13日

    蘇我臣蝦夷らは誅殺される前に天皇記・国記・珍宝を全て焼いた。
    船史恵尺はすぐに取りに走って焼けた国記を中大兄に献上した。

    この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬ることを許した。また喪中に泣くことを許した。


    或る人が第一の謡歌(わざうた)を説いて言うには「その歌に『はろはろに ことそきこゆる しまのやぶはら同三年六月是月条にある謡歌の第一。』と言うが、これは宮殿を島大臣の家に接して建てた。中大兄中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を謀殺しようとした兆しである」と。
    第二の謡歌を説いて言うには「その歌に『をちかたの あさののきぎし とよもさず われはねしかど ひとそとよもす同三年六月是月条にある謡歌の第二。』と言うが、これは上宮の王たちの人となりが素直で、かつて罪も無く入鹿に殺された。自ら報復しなくても。天が人を使って誅殺される兆しである」と。
    第三の謡歌を説いて言うには「その歌に『をばやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらず いへもしらずも同三年六月是月条にある謡歌の第三。「われをひきいれて」は同三年六月是月条では「われをひきれて」』と言うが、これは入鹿臣が忽ちに宮中で佐伯連子麻呂稚犬養連網田に斬られる兆しである」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
    • 皇極天皇4年6月12日

      明くる日蘇我入鹿殺害の翌日。に、その父豊浦大臣の子孫らを全て滅した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇4年6月14日

    位を軽皇子に譲り、中大兄を立てて皇太子とする。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月庚戌条】