阿倍引田比羅夫

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名前
  • 氏(ウジ):阿倍引田【日本書紀】(あた)
  • 姓(カバネ):臣【日本書紀】(お
  • 名:比羅夫【日本書紀】らふ)
  • 氏(ウジ):阿陪【日本書紀】(あ
  • 河部引田臣比羅夫【日本書紀】(かわべのひきたのおみひらふ, かはらふ)
生年月日
( ~ 斉明天皇4年12月30日)
没年月日
(斉明天皇6年5月1日 ~ )
出来事
  • 斉明天皇4年4月

    阿陪臣が船軍百八十艘を率いて蝦夷を討った。
    齶田(あぎた)渟代(ぬしろ)の二郡の蝦夷が怖気づいて降伏した。
    軍を整えて船を齶田浦に連ねた。
    齶田の蝦夷恩荷が進み出て誓って言うには「官軍と戦う為に弓失を持っているのではありません。我々は肉食の生活なので持っているのです。もし官軍に対して弓失を用いれば、齶田浦の神が許しません。清く明らかな心で朝廷にお仕えします」と。
    そこで恩荷小乙上を授け、渟代・津軽の二郡の郡領(こおりのみやつこ)に定めた。
    遂に有間の浜に渡島の蝦夷らを召集して大いに饗応して帰らせた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年四月条】
  • 斉明天皇4年

    越国守阿倍引田臣比羅夫が粛慎を討って羆二頭と羆の皮七十枚を献上する。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条】
  • 斉明天皇5年3月

    阿倍臣が船軍百八十艘を率いて蝦夷国を討った。
    阿倍臣は飽田(あきた)渟代(ぬしろ)の二郡の蝦夷二百四十一人、その捕虜三十一人、津軽(つかる)郡の蝦夷百十二人、その捕虜四人、胆振鉏(いふりさえ)の蝦夷二十人を一ヶ所に選び集め、大いに饗応して禄を賜った。
    そして船一隻と五色に染めわけた絹を捧げてその地の神を祭った。
    肉入籠(ししりこ)に至った時、問菟(という)の蝦夷胆鹿島菟穂名の二人が進み出て「後方羊蹄(しりへし)政所(まつりごとどころ)とするのが良いでしょう」と言った。
    胆鹿島らの言葉に従い、郡領(こおりのみやつこ)を置いて帰還した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月是月条】
    • 阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦い帰還して捕虜三十九人を献上した。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇五年三月是月条 或本云】
  • 斉明天皇6年3月

    阿倍臣を遣わして船軍二百艘を率いて粛慎国を討たせた。阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて大河の側まで来た。
    渡島(わたりのしま)の蝦夷一千余が海のほとりに集まり、河に向って屯営していた。営の中の二人が進み出て急に叫んで「粛慎の船が多くやってきて我らを殺そうとしています。どうか河を渡って仕官させて下さい」と言った。
    阿倍臣は船を遣わして二つの蝦夷を呼び、賊の隠れ家とその船の数を尋ねた。
    二つの蝦夷は隠れ家を指し示して「船は二十余艘です」と言った。

    使いを遣わして呼んだが来なかった。阿倍臣は綵帛(しみのきぬ)・武器・鉄などを海畔に積んで興味を引いた。
    粛慎の船軍を連ね、羽を木に掛けると、それを挙げて旗とした。棹を揃え操って近くに来ると、浅い所に停めた。
    一艘の船の裏から二人の老人が出てきて、積まれた綵帛などを歩きながら確認した。すると単衫(ひとえきぬ)に着替え、それぞれ布一端を提げて船に乗って還った。
    しばらくすると老人がまたやってきた。着替えた衫を脱ぎ置き、提げた布を置くと船に乗って去った。
    阿倍臣は多くの船を遣わして呼んだ。しかし来ることなく弊賂弁島(へろべのしま)に帰ってしまった。
    しばらくしてから和を乞うてきたが聞き入れず、自ら築いた柵にこもって戦った。
    この時に能登臣馬身竜は敵に殺された。
    戦局が決まる前に賊は自分の妻子を殺して敗走した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年三月条】
  • 斉明天皇6年5月

    阿倍引田臣が夷五十余人を献上した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年五月是月条】