天智天皇

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名前
  • 漢風諡号:天智天皇(てんじてんのう, てんぢてんわう, てんちてんのう, てんちてんわう)
  • 葛城皇子【日本書紀】(かずらきのみこ, かづら)葛城皇子
  • 近江大津宮御宇天皇【日本書紀】(おうみのおおつのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, あふおほつやにあしたしししす
  • 開別皇子【日本書紀】らかすわ
  • 開別皇子校異【日本書紀】らかす
  • 近江天皇【上宮聖徳法王帝説】(おうみのすめらみこと, あふ
  • 中大兄【日本書紀】(なかのおおえ, なかおほ𛀁)
  • 和風諡号:天命開別天皇(あらかすわ
性別
男性
生年月日
推古天皇34年
没年月日
(天智天皇4年2月25日 ~ )
  • 舒明天皇じょめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 皇極天皇こうぎょくてんのう斉明天皇さいめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
先祖
  1. 舒明天皇
    1. 押坂彦人大兄皇子
      1. 敏達天皇
      2. 広姫
    2. 糠手姫皇女
      1. 敏達天皇
      2. 菟名子夫人
  2. 皇極天皇
    1. 茅渟王
      1. 押坂彦人大兄皇子
      2. 大俣王
    2. 吉備姫王
      1. 桜井皇子
      2. unknown
配偶者
出来事
  • 推古天皇34年記事の年齢から逆算。【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丙午条】

    舒明天皇の皇子として生まれる。母は宝皇女後の皇極天皇、重祚して斉明天皇。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 舒明天皇13年10月9日

    舒明天皇百済宮(くだらのみや)で崩じる。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丁酉条】
  • 舒明天皇13年10月18日

    舒明天皇を宮の北に殯する。これを百済大殯(くだらのおおもがり)という。
    この時に東宮開別皇子は年十六で(しのびごと)を述べた。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丙午条】
  • 皇極天皇元年1月15日

    皇極天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月辛未条】
  • 中臣鎌子連は人となりが忠正で、匡済の心があった。
    蘇我臣入鹿が君臣・長幼の序を失い、社稷を窺い権力を奪おうとしていることに憤り、次々と王家に接触して功名を立てるべき哲主を探した。
    心を中大兄に付けていたが、近付く機会が無く、その深謀を打ち明けられなかった。

    たまたま中大兄が法興寺の(つき)の木の下で蹴鞠をしていた仲間に加わった。
    革靴が蹴り上げた鞠と一緒に脱げ落ちたので、拾って手の平に置いて跪き恭しく奉った。
    中大兄も対して跪き恭しく受け取った。
    ここから親交を深めて、共に胸の内を語り合って隠す所が無かった。

    後に、他の人が頻繁な接触を疑うことを恐れ、共に書物を持って南淵先生の所で儒教を学んだ。
    往復の路上で肩を並べて密かに図った。一致しない事は無かった。

    中臣鎌子連が言うには「大事を謀るには、助けが有るに越したことはございません。どうか蘇我倉山田麻呂の長女を召して妃とし、婿舅の関係を築きなさいませ。然る後に説得して計画を実行するのです。成功の道にこれより近いものはございません」と。
    中大兄はこれを聞いて大喜びして計画に従った。
    中臣鎌子連は自ら出向いて仲立ちした。

    しかし長女は約束した夜に「族とは身狭臣をいう」とある。に盗まれた。これにより倉山田臣は憂え恐れて為す術が無かった。
    少女は憂える父を怪しんで「何を憂え悔いているのですか」と尋ねた。父はその理由を話した。
    少女が言うには「どうか心配しないで下さい。私を差し上げても遅くはないでしょう」と。
    父は大喜びしてその女を奉った。真心を尽くして非の打ち所が無かった。
    中臣鎌子連佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田を中大兄に勧めて云々と述べた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
  • 皇極天皇4年6月8日

    中大兄が密かに倉山田麻呂臣に「三韓が調を献上する日に、必ずお前にその表を読み上げさせる」と言って、遂に入鹿を斬ろうという(はかりごと)を述べた。
    麻呂臣は承諾した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月甲辰条】
  • 皇極天皇4年6月12日

    天皇は大極殿に御座した。古人大兄が侍った。

    中臣鎌子連蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、俳優(わざひと)に教えて騙し解かせた。
    入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。

    倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
    中大兄は衛門府(ゆけいのつかさ)に戒めて、一斉に十二の通門を固めて往来を止めた。
    衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。

    時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
    中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。

    海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
    子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
    倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
    鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
    中大兄は子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
    そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
    入鹿は驚いて立とうとした。
    子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
    入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
    天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
    中大兄は地に伏して言うには「鞍作「蘇我臣入鹿のまたの名が鞍作である」とある。は天宗を全て滅ぼして日位(ひつぎのくらい)を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代えることが出来ましょうか」と。
    天皇は立ち上がって殿の中に入った。

    佐伯連子麻呂稚犬養連網田入鹿臣を斬った。


    この日、雨が降って水が庭に溢れた。
    席障子(むしろしとみ)鞍作の屍を覆った。

    古人大兄は私宅に走り入って、人に「韓人が鞍作臣を殺した「韓(からひと)の政に因り誅したことを言う」とある。。私の心は痛い」と言った。
    そして寝所に入り、門を閉ざして出なかった。
    中大兄は法興寺に入って城として備えた。
    諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、全て皆が従い侍った。
    人を使って鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。
    漢直(あやのあたい)らは族党を総べ集め、(よろい)を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
    中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。

    高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
    言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
    賊徒もまた随って散り散りに去った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
    • 皇極天皇4年6月11日

      ■■天皇「■■」は欠失。「天」は違筆補記。右傍にも「■■天皇」、「■極天皇(皇極天皇)」か。の御世の乙巳年六月十一日、近江天皇が生まれて廿一年、林太郎■■「■■」は欠失。を殺した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇4年6月13日

    蘇我臣蝦夷らは誅殺される前に天皇記・国記・珍宝を全て焼いた。
    船史恵尺はすぐに取りに走って焼けた国記を中大兄に献上した。

    この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬ることを許した。また喪中に泣くことを許した。


    或る人が第一の謡歌(わざうた)を説いて言うには「その歌に『はろはろに ことそきこゆる しまのやぶはら同三年六月是月条にある謡歌の第一。』と言うが、これは宮殿を島大臣の家に接して建てた。中大兄と中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を謀殺しようとした兆しである」と。
    第二の謡歌を説いて言うには「その歌に『をちかたの あさののきぎし とよもさず われはねしかど ひとそとよもす同三年六月是月条にある謡歌の第二。』と言うが、これは上宮の王たちの人となりが素直で、かつて罪も無く入鹿に殺された。自ら報復しなくても。天が人を使って誅殺される兆しである」と。
    第三の謡歌を説いて言うには「その歌に『をばやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらず いへもしらずも同三年六月是月条にある謡歌の第三。「われをひきいれて」は同三年六月是月条では「われをひきれて」』と言うが、これは入鹿臣が忽ちに宮中で佐伯連子麻呂稚犬養連網田に斬られる兆しである」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
    • 皇極天皇4年6月12日

      明くる日蘇我入鹿殺害の翌日。に、その父豊浦大臣の子孫らを全て滅した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇4年6月14日

    天豊財重日足姫天皇は位を中大兄に伝えようと思い、詔して云々。
    中大兄は退いて中臣鎌子連に語った。
    中臣鎌子連が言うには「古人大兄は殿下の兄君です。軽皇子は殿下の(おじ)君です。古人大兄がおいでになる今、殿下が天皇の位をお嗣ぎになれば、人の弟として遜恭の心に背いてしまいます。しばらくは舅上をお立てになり、民の望みにお答えになれば良いではございませんか」と。
    そこで中大兄は深くその言葉を誉め、密かに奏上した。

    天豊財重日足姫天皇は璽綬を授けて禅位して「ああ、なんじ軽皇子よ」と言って云々。

    軽皇子は再三固辞し、いよいよ古人大兄、またの名は古人大市皇子に譲って言うには「大兄命天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理を以って天位におつきになるべきです」と。

    古人大兄は座を退いて拱手して胸の前で両手を重ねて敬礼。言うには「天皇の思し召しに従います。どうして無理して私に譲ることがありましょうか。私は出家して吉野に入りたいと思います。仏道を勤め修めて天皇の幸せをお祈りします」と。
    言い終わると佩刀を解いて地面に投げ打った。また帳内(とねり)に命じて刀を解かせた。
    そして法興寺の仏殿と塔の間に詣でると、髯・髪を剃って袈裟を着た。

    これにより軽皇子は固辞することが出来なくなり、(たかみくら)に上って即位した。

    大伴長徳連は金の(ゆき)を帯びて壇の右に立った。犬上建部君は金の靭を帯びて壇の左に立った。百官の(おみ)(むらじ)国造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものお)は連なり重なって拝礼した。

    この日、豊財天皇に号を奉って皇祖母尊とする。
    中大兄を皇太子とする。
    阿倍内摩呂臣左大臣蘇我倉山田石川麻呂臣右大臣とする。

    大錦冠本来は大化三年に制定された冠位とする。中臣鎌子連に授けて内臣とする。封を若干増やして云々。
    中臣鎌子連は至忠の誠を懐き、宰臣として官司の上にあった。
    その進退・廃置の計は従われ、事立つと云々。

    沙門(のりのし)旻法師高向史玄理国博士とする。

    【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月庚戌条】
  • 皇極天皇4年6月19日

    天皇皇祖母尊・皇太子は大槻の木の下に群臣を召集して誓わせた。
    天神地祇に告げて「天は覆い地は載せ、帝道は唯一であります。しかし末代は澆薄で君臣の秩序は失われています。皇天は我が手を借りて暴逆を誅されました。今共に心血を注ぎ、今後は君は二つの政は無く、臣は朝廷に二心は懐きません。もしこの誓いに背けば天地は災いして神罰は人を殺すでしょう。それは日月のようにはっきりしています」と。

    天豊財重日足姫天皇四年を改めて大化元年とする。

    【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月乙卯条】
  • 大化元年9月12日

    吉備笠臣垂が中大兄に自首して言うには「吉野古人皇子蘇我田口臣川掘らは謀反を企てております。私もその企てに加わっておりました」と。

    中大兄は菟田朴室古高麗宮知に若干の兵士を率いさせて古人大市皇子らを討った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丁丑条】
    • 吉備笠臣垂阿倍大臣蘇我大臣に言うには「私は吉野皇子の謀反の企てに加わっておりましたが自首致します」と。

      【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丁丑条 或本云】
    • 大化元年11月30日

      十一月甲午三十日。中大兄は阿倍渠曽倍臣(あべのこそべのおみ)佐伯部子麻呂の二人に兵四十人校異:三十人を率いさせて古人大兄を攻め古人大兄と子を斬った。その妃・妾は自殺した。

      【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丁丑条 或本云】
    • 大化元年11月

      十一月。吉野大兄王が謀反を企てたが、事が発覚して誅殺された。

      【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丁丑条 或本云】
  • 大化2年3月20日

    皇太子が使いを遣わして奏上して「昔の天皇たちの御世には、混合して一つになり天下を治められました。しかし今に至っては分離してしまい国家事業を見失っていましたが、我が天皇が万民を養われてからは、天も人も応えて政治は刷新されています。謹んでお慶び申し上げます。(あき)つ神として八島国を治める天皇現為明神御八島国天皇。が私に『群臣・連・伴造・国造の所有する昔の天皇の御世に置かれた子代入部(こしろのいりべ)、皇子たちの私有する御名入部(みなのいりべ)皇祖大兄「彦人大兄をいう」とある。の御名入部、及びその屯倉を古代のように置いておくべきか』とお問いになられましたが、私は謹んで詔を承り、『天に二つの日は無く、国に二人に王は無しといいます。天下を兼ね併せて万民をお使いになられるべきはただ天皇のみでございます。別に入部及び食封の民を仕丁(つかえのよほろ)に選び当てることは先の処分に従うのが良いでしょう。これ以外は私用に使われることを恐れるので、入部は五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上するのが良いでしょう』とお答え申し上げます」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年三月壬午条】
  • 大化3年12月29日

    皇太子の宮に火災があり、時の人は大いに驚き怪しんだ。

    【日本書紀 巻第二十五 大化三年十二月晦条】
  • 大化5年3月17日

    阿倍大臣が薨じる。天皇は朱雀門に行幸し、挙哀して悼んだ。
    皇祖母尊皇太子たち及び諸公卿も皆従って哀哭した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月辛酉条】
  • 大化5年3月24日

    蘇我臣日向倉山田大臣を皇太子に讒言して「私の異母兄麻呂皇太子が海浜にいらっしゃる時を伺って(そこな)おうとしております。背くこと遠くありません」と。
    皇太子は信じた。
    天皇大伴狛連三国麻呂公穂積噛臣蘇我倉山田麻呂大臣のもとに遣わして反逆の虚実を問うた。
    大臣は「御返事は天皇の御前で申し上げます」と答えた。

    天皇はまた三国麻呂公穂積噛臣を遣わして反状を審らかにしようとしたが、麻呂大臣はまた前のように答えた。
    天皇は兵を起して大臣の邸宅を囲んだ。大臣は二人の子、法師赤猪「またの名は秦」とある。を連れて茅渟(ちぬ)の道から逃げて(やまと)国の境に向った。
    大臣の長子興志はこれより先に倭に在って、その寺を造っていた。
    突然父の逃避を聞いて今来(いまき)の大槻のもとで迎え、先に立って寺に入った。
    そして大臣に「私自ら進んで来襲する軍を防ぎましょう」と願い出たが、大臣は許さなかった。

    この夜、興志「宮とは小墾田宮を謂う」とある。を焼こうとして士卒を集めた。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月戊辰条】
  • 大化5年3月25日

    大臣が長子興志に「お前は我が身が惜しいか」と言うと、興志は「惜しくはありません」と答えた。
    大臣は山田寺の衆僧及び長子興志と数十人に語って「人の臣たる者がどうして君に逆らうことを企てようか。どうして父への孝を失えようか。およそこの伽藍(てら)は、元より自分の為に造ったのではない。天皇の御為に誓ってお造り申し上げたのである。今私は身刺に讒言され、不当に誅されようとしている。せめてもの願いは、黄泉に行っても忠心を懐いたままでありたいということだ。寺に来たわけは、終りの時を安らかに迎えるためである」と。

    言い終ると仏殿の戸を開き、仰いで誓いを立てて「我は死んでも君王を怨まず」と言った。
    誓いが終ると自ら経死した。妻子ら殉死する者は八人だった。

    この日、大伴狛連蘇我日向臣を将として軍を率い大臣を追わせた。
    将軍の大伴連らが黒山(くろやま)に至ると、土師連身采女臣使主麻呂が山田寺から馳せ参じて「蘇我大臣は既に三男一女らと共に自ら経死されました」と告げた。
    これにより将軍らは丹比坂(たじひのさか)を経て帰還した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月己巳条】
  • 大化5年3月26日

    山田大臣の妻子及び従う者、自ら経死した者は多かった。
    穂積臣噛大臣の一党の田口臣筑紫らを捉えて集め、首枷をかけて後ろ手に縛った。

    夕方、木臣麻呂蘇我臣日向穂積臣噛は軍を率いて寺を囲んだ。
    物部二田造塩を呼んで大臣の首を斬らせた。
    二田塩は大刀を抜き、その肉を刺し挙げ、叫び声を上げて斬った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月庚午条】
  • 大化5年3月

    使者を遣わして山田大臣の資財を収めた。
    資財の中で、好書の上には皇太子の書と記されてあった。重宝の上には皇太子の物と記されてあった。使者は帰って状況を報告した。
    皇太子は初めて大臣の心が正しく潔いことを知り、悔い恥じて哀しみ歎くことが止まなかった。

    日向臣筑紫大宰帥に拝した。世人は「これは隠流(しのびながし)だろう」と語り合った。

    皇太子の妃蘇我造媛は、父の大臣に斬られたと聞き、傷心して悲しみ悶えた。の名を聞くことを憎んだ。
    このため造媛の近侍は、塩の名を呼ぶことを忌み、改めて堅塩(きたし)と言った。

    造媛は遂に傷心して死に至ってしまった。
    皇太子は造媛の急逝を聞き、悼み哀しんで激しく泣いた。
    野中川原史満が進み出て歌を奉った。

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    皇太子は歎き褒めて「良い歌だなぁ。悲しいなぁ」と言った。
    そして御琴を授けて唱和させ、絹四匹・布二十端・綿二褁を賜った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月是月条】
  • 白雉4年6月

    旻法師が亡くなり弔使を遣わす。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年六月条】
  • 白雉4年

    太子は奏上して「(やまと)(みやこ)に遷りたいと存じます」と言った。天皇は許さなかった。

    皇太子は皇祖母尊間人皇后を奉じ、皇弟らを率いて倭の飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)に入った。公卿大夫・百官の人々は皆従って遷った。
    これにより天皇は恨んで国位を捨てようと思い、宮を山碕に造らせた。
    そして間人皇后に歌を送った。

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    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年是歳条】
  • 白雉5年10月1日

    皇太子は天皇が病にかかったことを聞いて、皇祖母尊間人皇后を奉じ、皇弟・公卿らを率いて難波宮に赴いた。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十月癸卯朔条】
  • 白雉5年10月10日

    孝徳天皇が正殿で崩じる。

    殯宮を南庭に起てて、小山上百舌鳥土師連土徳に殯宮の事を司らせた。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十月壬子条】
  • 白雉5年12月8日

    孝徳天皇大坂磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に葬る。

    この日、皇太子は皇祖母尊を奉じて(やまと)河辺行宮(かわべのかりみや)に遷居した。
    老人が語って「鼠が倭の都に向ったのは、遷都の兆しであったのだ」と。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十二月己酉条】
  • 斉明天皇元年1月3日

    皇祖母尊飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)即位して天皇となる重祚。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇元年正月甲戌条】
  • 斉明天皇4年11月9日

    有間皇子らが謀反の罪で捕えられて斉明天皇のもとに送られる。

    皇太子は有間皇子に親しく尋ねて「どうして謀反を企んだのか」と。答えて「天と赤兄が知っています。私は何も知りません」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年十一月戊子条】
  • 斉明天皇6年5月

    皇太子が初めて漏剋(ろこく)を造らせて民に時を知らせた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年五月是月条】
  • 斉明天皇6年9月5日

    百済が達率「闕名」とある。沙弥覚従らを遣わして奏上して「或る本に云わく、逃げ来て難を告げる」とある。「今年の七月に新羅が力に恃んで勢いを作り、隣国と親しまずに唐人を引き合わせて百済を転覆しようとしました。君臣は皆俘虜となり、残る者はほとんどおりません」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年九月癸卯条】
  • 斉明天皇6年12月24日

    斉明天皇難波宮(なにわのみや)に行幸する。鬼室福信の願いに応じ、筑紫に行幸して救援軍を遣わそうと思い、まずここで武器を準備した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十二月庚寅条】
  • 斉明天皇7年1月6日

    御船が西征のため海路に就く。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年正月壬寅条】
  • 斉明天皇7年7月24日

    斉明天皇朝倉宮(あさくらのみや)で崩じる。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年七月丁巳条】
  • 斉明天皇7年7月24日

    皇太子は白の麻服を着て称制即位せずに政務を執る。した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年七月丁巳条】
  • 斉明天皇7年7月

    蘇将軍と突厥王子契苾加力らが水陸二路から高麗の城下に至った。
    皇太子は長津宮(ながつのみや)に遷居して海外の軍の指揮を執った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年七月是月条】
  • 斉明天皇7年8月1日

    皇太子は天皇の喪をつとめるため、還って磐瀬宮(いわせのみや)に着いた。
    この日の夕、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年八月甲子朔条】
  • 斉明天皇7年8月

    前将軍大花下阿曇比邏夫連小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花下阿倍引田比邏夫臣大山上物部連熊大山上守君大石らを遣わして百済を救援させ、武器・食料を送った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年八月条】
  • 斉明天皇7年9月

    皇太子は長津宮で、織冠を百済王子豊璋に授けた。また多臣蒋敷の妹を妻合わせた。
    大山下狭井連檳榔小山下秦造田来津を遣わして、軍兵五千余りを率いて本郷を守らせる為に送った。
    豊璋が入国する時に福信が迎えに来て、稽首頭を地につける礼。して国政を全て委ねた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年九月条】
  • 斉明天皇7年10月7日

    天皇の亡骸は帰途に就いた。
    皇太子はある所に泊って、天皇を慕い悲しんだ。そして口ずさんで言うには

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    と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十月己巳条】
  • 斉明天皇7年10月23日

    天皇の亡骸は還って難波(なにわ)に着いた。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十月乙酉条】
  • 斉明天皇7年11月7日

    天皇の亡骸を飛鳥川原(あすかのかわら)で殯した。
    この日から九日に至るまで発哀した。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十一月戊戌条】
  • 斉明天皇7年11月

    十一月、福信が捕えた唐人の続守言らが筑紫に着く。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十一月戊戌条 日本世記云】
    • 斉明天皇7年

      辛酉年、百済の佐平福信が唐の俘虜百六人を献上した「庚申年に既に福信が唐の俘虜を献じたと云っている。故に今注しておく。其れ決めよ」とある。。近江国の墾田(はりた)に住まわせた。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十一月戊戌条 或本云】
  • 斉明天皇7年12月

    高麗が言うには「この十二月に高麗国は寒さ極まり川は凍りました。それで唐軍は雲車(たかくるま)衝輣(つきくるま)を用い、鼓や(かね)を鳴らしました。高麗の士卒は胆勇雄壮で、唐の二つの砦を奪い、残る砦は二つとなりました。また夜に奪う計画を立てましたが、唐兵は膝を抱えて泣き、力も鈍って遂にかないませんでした」と。
    噬臍の恥所謂ほぞをかむ。、これ以外に何と言おうか。

    道顕が言うには「春秋の志を言えば、本来高麗を討つことにあったが、先ず百済を討った。最近は百済による侵略が多く苦しんでいたからである」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十二月条】
  • 斉明天皇7年

    播磨国司岸田臣麿らが宝剣を献上して言うには「狭夜郡(さよのこおり)の人が粟畑の穴の内から見つけました」と。


    また日本の高麗救軍の将らが百済の加巴利浜(かはりのはま)に泊って火を焚いた。灰の跡が孔となり、かすかに音が響いた。鳴鏑のようだった。
    ある人が言うには「高麗・百済が亡びる兆しか」と。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十二月是歳条】
  • 天智天皇元年1月27日

    百済の佐平鬼室福信に矢十万隻・糸五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稲種三千斛を賜る。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年正月丁巳条】
  • 天智天皇元年3月4日

    百済王に布三百端を賜る。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年三月癸巳条】
  • 天智天皇元年3月

    唐人・新羅人が高麗を討った。高麗は救いを乞うてきた。それで軍将を遣わして疏留城(そるさし)を拠点とした。
    これにより唐人はその南の境を侵略することは出来ず、新羅はその西の塁砦を落すことは出来なかった。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年三月是月条】
  • 天智天皇元年4月

    鼠が馬の尾に子を産んだ。
    道顕が占って言うには「北国の人は南国に附属しようとする。高麗は破れ、日本に属するかもしれない」と。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年四月条】
  • 天智天皇元年5月

    大将軍大錦中阿曇比邏夫連らが船軍を百七十艘を率いて豊璋らを百済国に送った。

    勅宣して、豊璋らにその位を継がせた。
    また金策(こがねのふみた)金泥で書いた冊書。福信に与え、その背を撫で、褒めて爵禄を賜った。
    豊璋らと福信は稽首して勅を受けた。衆人は涙を流した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年五月条】
  • 天智天皇元年6月28日

    百済が達率万智らを遣わして調物を献上した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年六月丙戌条】
  • 天智天皇元年12月1日

    百済王豊璋、その臣佐平福信ら、狭井連「闕名」とある。朴市田来津が議って「この州柔(つぬ)は、遠く田畝を隔てて土地は痩せている。農桑する地ではない。これは戦う場である。ここに長くいれば民は飢えてしまう。避城(へさし)に遷るのが良い。避城は西北に古連旦涇(これんたんけい)新坪川。の水が流れ、東南は深泥巨堰(しんでいこえん)に防がれ、周囲に田があり、溝を作って雨を降らす。華も実も三韓の上物である。衣食の源は天地の隠所にある。低地と雖も遷るべきである」と。
    ここで朴市田来津が一人進み出て諫めて言うには「避城と敵の所在の間は一夜で行けるのでとても近いです。もし不意の攻撃を受ければ後悔します。飢えは後のことで、亡びるのが先です。今敵が妄りに来ないわけは、州柔は山高く谷狭く、守り易く攻め難いからである。もし低地にいれば、どうして固く動かずに今日に至れましょうか」と。
    遂に諫めは聞かず、避城を都とした。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年十二月丙戌朔条】
  • 天智天皇元年

    百済を救う為に武具・船舶・軍糧を準備する。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年是歳条】
  • 天智天皇2年2月2日

    百済が達率金受らを遣わして調物を献上した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年二月丙戌条】
  • 天智天皇2年2月2日

    新羅人が百済の南の畔の四州を焼き、安徳などの要地を取った。
    避城は賊に近いので居座ることが出来なかった。それで州柔に遷居した。
    田来津が言ったようになった。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年二月丙戌条】
  • 天智天皇2年2月

    佐平福信が唐の俘虜続守言らを送ってきた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年二月是月条】
  • 天智天皇2年3月

    前将軍上毛野君稚子間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣訳語三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比邏夫大宅臣鎌柄を遣わし、二万七千人を率いて新羅を討たせた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年三月条】
  • 天智天皇2年5月1日

    犬上君「闕名」とある。が馳せて兵事を高麗に告げて帰還した。
    このとき糺解と石城で出会った。糺解福信に罪があることを語った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年五月癸丑朔条】
  • 天智天皇2年6月

    前将軍上毛野君稚子らが新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)どこで区切るか不明。の二城を取った。

    百済王豊璋福信に謀反の心ありと疑い、掌を穿って革で縛った。
    しかし自ら決すること難しく、為す術を知らなかった。
    そこで諸臣に「福信の罪はこのようであるが、斬るべきか否か」と問うた。すると達率徳執得が「この逆賊を許してはなりません」と言った。
    福信執得に唾して「腐れ狗の馬鹿者め原文「腐狗癡奴」」と言った。
    王は兵士に斬らせて首を酢漬けにした。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年六月条】
  • 天智天皇2年8月13日

    新羅は百済王が己の良将を斬ったことを知り、ただちに入国して先ず州柔を取ろうと謀った。

    百済は賊の計画を知り、諸将に言うには「大日本国の救将廬原君臣が兵士一万余を率いて海を越えてやってくる。将軍たちはそのつもりでいるように。私は自ら白村(はくすき)に行って待とうと思う」と。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月甲午条】
  • 天智天皇2年8月17日

    賊将が州柔に至り、その王城を囲んだ。
    大唐の軍将は戦船百七十艘を率いて白村江(はくすきのえ)に布陣した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月戊戌条】
  • 天智天皇2年8月27日

    日本水軍の先発と大唐水軍が合戦した。
    日本が不利となり退いた。大唐は陣を堅守した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月戊申条】
  • 天智天皇2年8月28日

    日本の諸将と百済王は状況を見極めずに相談して「我らが先を争えば、敵は自ずと退くであろう」と言った。
    さらに日本の隊伍の乱れた中軍の兵士を率いて進軍し、大唐の堅陣の軍を攻撃した。
    大唐は左右から船で挟んで戦った。
    またたく間に官軍は敗れ、水に溺れて死ぬ者が多かった。船を旋回することすら出来なかった。

    朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばりながら数十人を殺したが、遂に戦死した。

    この時、百済王豊璋は数人と船に乗って高麗に逃走した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月己酉条】
  • 天智天皇2年9月7日

    百済の州柔城が唐に降伏した。
    この時に国人が相談して「州柔は降伏した。これではどうすることも出来ない。百済の名は今日で絶える。丘墓に行くことも出来ない。弖礼城に行って日本の軍将たちに会い、要点を相談しよう」と。
    遂に枕服岐城(しんぶくぎさし)にいた妻子らに教えて、国を去る心を知らせた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年九月丁巳条】
  • 天智天皇2年9月11日

    牟弖(むて)出発する以下、日本百済連合軍が日本に向けて出発する過程の記事が続く。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年九月辛酉条】
  • 天智天皇2年9月13日

    弖礼(てれ)に至る。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年九月癸亥条】
  • 天智天皇2年9月24日

    日本水軍及び佐平余自信達率木素貴子谷那晋首憶礼福留、国民らが弖礼城に至る。

    明くる日、船を出してはじめて日本に向かう。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年九月甲戌条】
  • 天智天皇3年2月9日

    天皇は大皇弟に命じて、冠位の階名を増やし換え、氏上(このかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)などの事を宣布させた。

    その冠は二十六階ある。
    大織小織大縫小縫大紫小紫大錦上大錦中大錦下小錦上小錦中小錦下大山上大山中大山下小山上小山中小山下大乙上大乙中大乙下小乙上小乙中小乙下大建小建
    これが二十六階である。

    以前の花を改めて錦という。
    錦から乙まで六階を加えた。
    以前の初位一階に加え換えて大建小建の二階とした。
    これらが異なったところで、残りは以前のままである。

    大氏の氏上には大刀を賜った。
    小氏の氏上には小刀を賜った。
    伴造らの氏上には干楯・弓矢を賜った。
    またその民部・家部を定めた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年二月丁亥条】
  • 天智天皇3年3月

    百済王善光王らを難波に住まわせる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年三月条】
  • 天智天皇3年3月

    星が(みやこ)の北に落ちる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年三月条】
  • 天智天皇3年5月17日

    百済鎮将劉仁願朝散大夫(ちょうさんだいぶ)郭務悰らを遣わして表函(ふみひつ)と献物を奉る。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年五月甲子条】
  • 天智天皇3年5月

    大紫蘇我連大臣が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年五月是月条】
  • 天智天皇3年6月

    島皇祖母命が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年六月条】
  • 天智天皇3年10月1日

    郭務悰らを発遣する勅を宣う。

    この日、中臣内臣沙門(ほうし)智祥を遣わして郭務悰に物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年十月乙亥朔条】
  • 天智天皇3年10月4日

    郭務悰らに饗応する。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年十月戊寅条】
  • 天智天皇3年10月

    高麗の大臣蓋金がその国で亡くなった。
    子供らに遺言して「お前たち兄弟は魚と水のように同調し、爵位を争うことがないようにせよ。もしそうでなければ必ず隣国に笑われる」と。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年十月是月条】
  • 天智天皇3年12月12日

    郭務悰らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年十二月乙酉条】
  • 天智天皇3年12月

    淡海国が言うには、「坂田郡(さかたのこおり)の人小竹田史身の猪の水桶の中にいつの間にか稲が生じました。が取って収めると、日に日に富が増えました。栗太郡(くるもとのこおり)の人磐城村主殷の新婦の部屋の端に、一晩の間に稲が生じて穂がつきました。翌朝には熟れて穂が垂れました。翌日の夜にはまた一つの穂が新婦の庭に出て、二個の鍵が天から落ちてきました。(おんな)はそれを取ってに渡しました。は富を得るようになりました」と。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年十二月是月条】
  • 天智天皇3年

    対馬島・壱岐島・筑紫国などに(さきもり)防人。(すすみ)のろし台。を置いた。
    また筑紫に大堤を築いて水を貯えた。名付けて水城(みずき)という。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年是歳条】
  • 天智天皇4年2月25日

    間人大后が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年二月丁酉条】