天智天皇
- 名前
- 漢風諡号:天智天皇(てんじてんのう, てんぢてんわう, てんちてんのう, てんちてんわう)
- 和風諡号:天命開別天皇【日本書紀】(あめみことひらかすわけのすめらみこと)
- 葛城皇子【日本書紀】(かずらきのみこ, かづらきのみこ)葛城皇子
- 近江大津宮御宇天皇【日本書紀】(おうみのおおつのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, あふみのおほつのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
- 開別皇子【日本書紀】(ひらかすわけのみこ)
- 開皇子校異【日本書紀】
- 近江天皇【上宮聖徳法王帝説】(おうみのすめらみこと, あふみのすめらみこと)
- 中大兄【日本書紀】(なかのおおえ, なかのおほ𛀁)
- 近江宮治天下天皇【日本書紀】(おうみのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, あふみのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 推古天皇34年
- 没年月日
- 天智天皇10年12月3日
- 父
舒明天皇 【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
- 母
皇極天皇 (斉明天皇 )【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
- 先祖
- 配偶者
- 子
大田皇女 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:遠智娘 】- 第二女:
鸕野皇女 (持統天皇 )【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:遠智娘 】 建皇子 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:遠智娘 】御名部皇女 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:姪娘 】阿陪皇女 (元明天皇 )【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:姪娘 】飛鳥皇女 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:橘娘 】新田部皇女 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:橘娘 】山辺皇女 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:常陸娘 】大江皇女 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:色夫古娘 】川島皇子 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:色夫古娘 】泉皇女 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:色夫古娘 】水主皇女 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:黒媛娘 】施基皇子 (志貴皇子 )【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:越道君伊羅都売 】大友皇子 (弘文天皇 )【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】【母:伊賀采女宅子娘 】
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第38代
天皇 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年正月戊子条】
- 第38代
- 出来事
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推古天皇34年記事の年齢から逆算。【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丙午条】
-
舒明天皇13年10月9日
舒明天皇が
【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丁酉条】百済宮 で崩じる。 -
舒明天皇13年10月18日
舒明天皇を宮の北に殯する。これを
【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丙午条】百済大殯 という。
この時に東宮開別皇子は年十六で誄 を述べた。 -
皇極天皇元年1月15日
皇極天皇が即位する。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月辛未条】 -
中臣鎌子連は人となりが忠正で、匡済の心があった。
蘇我臣入鹿が君臣・長幼の序を失い、社稷を窺い権力を奪おうとしていることに憤り、次々と王家に接触して功名を立てるべき哲主を探した。
心を中大兄に付けていたが、近付く機会が無く、その深謀を打ち明けられなかった。たまたま中大兄が法興寺の
槻 の木の下で蹴鞠をしていた仲間に加わった。
革靴が蹴り上げた鞠と一緒に脱げ落ちたので、拾って手の平に置いて跪き恭しく奉った。
中大兄も対して跪き恭しく受け取った。
ここから親交を深めて、共に胸の内を語り合って隠す所が無かった。後に、他の人が頻繁な接触を疑うことを恐れ、共に書物を持って南淵先生の所で儒教を学んだ。
往復の路上で肩を並べて密かに図った。一致しない事は無かった。中臣鎌子連が言うには「大事を謀るには、助けが有るに越したことはございません。どうか蘇我倉山田麻呂の長女を召して妃とし、婿舅の関係を築きなさいませ。然る後に説得して計画を実行するのです。成功の道にこれより近いものはございません」と。
中大兄はこれを聞いて大喜びして計画に従った。
中臣鎌子連は自ら出向いて仲立ちした。しかし長女は約束した夜に族「族とは身狭臣をいう」とある。に盗まれた。これにより倉山田臣は憂え恐れて為す術が無かった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
少女は憂える父を怪しんで「何を憂え悔いているのですか」と尋ねた。父はその理由を話した。
少女が言うには「どうか心配しないで下さい。私を差し上げても遅くはないでしょう」と。
父は大喜びしてその女を奉った。真心を尽くして非の打ち所が無かった。
中臣鎌子連は佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田を中大兄に勧めて云々と述べた。 -
皇極天皇4年6月8日
-
皇極天皇4年6月12日
中臣鎌子連は蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、
俳優 に教えて騙し解かせた。
入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
中大兄は衛門府 に戒めて、一斉に十二の通門を固めて往来を止めた。
衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
中大兄は子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
入鹿は驚いて立とうとした。
子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
中大兄は地に伏して言うには「鞍作「蘇我臣入鹿のまたの名が鞍作である」とある。は天宗を全て滅ぼして日位 を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代えることが出来ましょうか」と。
天皇は立ち上がって殿の中に入った。
この日、雨が降って水が庭に溢れた。
席障子 で鞍作の屍を覆った。古人大兄は私宅に走り入って、人に「韓人が鞍作臣を殺した「韓(からひと)の政に因り誅したことを言う」とある。。私の心は痛い」と言った。
そして寝所に入り、門を閉ざして出なかった。
中大兄は法興寺に入って城として備えた。
諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、全て皆が従い侍った。
人を使って鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。
漢直 らは族党を総べ集め、甲 を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
賊徒もまた随って散り散りに去った。-
皇極天皇4年6月11日
■■天皇「■■」は欠失。「天」は違筆補記。右傍にも「■■天皇」、「■極天皇(皇極天皇)」か。の御世の乙巳年六月十一日、近江天皇が生まれて廿一年、林太郎■■「■■」は欠失。を殺した。
【上宮聖徳法王帝説】
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皇極天皇4年6月13日
蘇我臣蝦夷らは誅殺される前に天皇記・国記・珍宝を全て焼いた。
船史恵尺はすぐに取りに走って焼けた国記を中大兄に献上した。この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬ることを許した。また喪中に泣くことを許した。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
或る人が第一の謡歌 を説いて言うには「その歌に『はろはろに ことそきこゆる しまのやぶはら同三年六月是月条にある謡歌の第一。』と言うが、これは宮殿を島大臣の家に接して建てた。中大兄と中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を謀殺しようとした兆しである」と。
第二の謡歌を説いて言うには「その歌に『をちかたの あさののきぎし とよもさず われはねしかど ひとそとよもす同三年六月是月条にある謡歌の第二。』と言うが、これは上宮の王たちの人となりが素直で、かつて罪も無く入鹿に殺された。自ら報復しなくても。天が人を使って誅殺される兆しである」と。
第三の謡歌を説いて言うには「その歌に『をばやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらず いへもしらずも同三年六月是月条にある謡歌の第三。「われをひきいれて」は同三年六月是月条では「われをひきれて」』と言うが、これは入鹿臣が忽ちに宮中で佐伯連子麻呂・稚犬養連網田に斬られる兆しである」と。-
皇極天皇4年6月12日
明くる日蘇我入鹿殺害の翌日。に、その父豊浦大臣の子孫らを全て滅した。
【上宮聖徳法王帝説】
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皇極天皇4年6月14日
天豊財重日足姫天皇は位を中大兄に伝えようと思い、詔して云々。
中大兄は退いて中臣鎌子連に語った。
中臣鎌子連が言うには「古人大兄は殿下の兄君です。軽皇子は殿下の舅 君です。古人大兄がおいでになる今、殿下が天皇の位をお嗣ぎになれば、人の弟として遜恭の心に背いてしまいます。しばらくは舅上をお立てになり、民の望みにお答えになれば良いではございませんか」と。
そこで中大兄は深くその言葉を誉め、密かに奏上した。天豊財重日足姫天皇は璽綬を授けて禅位して「ああ、なんじ軽皇子よ」と言って云々。
軽皇子は再三固辞し、いよいよ古人大兄、またの名は古人大市皇子に譲って言うには「大兄命は天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理を以って天位におつきになるべきです」と。
古人大兄は座を退いて拱手して胸の前で両手を重ねて敬礼。言うには「天皇の思し召しに従います。どうして無理して私に譲ることがありましょうか。私は出家して吉野に入りたいと思います。仏道を勤め修めて天皇の幸せをお祈りします」と。
言い終わると佩刀を解いて地面に投げ打った。また帳内 に命じて刀を解かせた。
そして法興寺の仏殿と塔の間に詣でると、髯・髪を剃って袈裟を着た。これにより軽皇子は固辞することが出来なくなり、
壇 に上って即位した。大伴長徳連は金の
靭 を帯びて壇の右に立った。犬上建部君は金の靭を帯びて壇の左に立った。百官の臣 ・連 ・国造 ・伴造 ・百八十部 は連なり重なって拝礼した。この日、豊財天皇に号を奉って皇祖母尊とする。
中大兄を皇太子とする。
阿倍内摩呂臣を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣とする。大錦冠本来は大化三年に制定された冠位とする。を中臣鎌子連に授けて内臣とする。封を若干増やして云々。
【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月庚戌条】
中臣鎌子連は至忠の誠を懐き、宰臣として官司の上にあった。
その進退・廃置の計は従われ、事立つと云々。 -
皇極天皇4年6月19日
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大化元年9月12日
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大化元年11月30日
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大化元年11月
十一月。吉野大兄王が謀反を企てたが、事が発覚して誅殺された。
【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丁丑条 或本云】
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大化2年3月20日
皇太子が使いを遣わして奏上して「昔の天皇たちの御世には、混合して一つになり天下を治められました。しかし今に至っては分離してしまい国家事業を見失っていましたが、我が天皇が万民を養われてからは、天も人も応えて政治は刷新されています。謹んでお慶び申し上げます。
【日本書紀 巻第二十五 大化二年三月壬午条】現 つ神として八島国を治める天皇現為明神御八島国天皇。が私に『群臣・連・伴造・国造の所有する昔の天皇の御世に置かれた子代入部 、皇子たちの私有する御名入部 、皇祖大兄「彦人大兄をいう」とある。の御名入部、及びその屯倉を古代のように置いておくべきか』とお問いになられましたが、私は謹んで詔を承り、『天に二つの日は無く、国に二人に王は無しといいます。天下を兼ね併せて万民をお使いになられるべきはただ天皇のみでございます。別に入部及び食封の民を仕丁 に選び当てることは先の処分に従うのが良いでしょう。これ以外は私用に使われることを恐れるので、入部は五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上するのが良いでしょう』とお答え申し上げます」と。 -
大化3年12月29日
皇太子の宮に火災があり、時の人は大いに驚き怪しんだ。
【日本書紀 巻第二十五 大化三年十二月晦条】 -
大化5年3月17日
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大化5年3月24日
蘇我臣日向が倉山田大臣を皇太子に讒言して「私の異母兄麻呂は皇太子が海浜にいらっしゃる時を伺って
害 おうとしております。背くこと遠くありません」と。
皇太子は信じた。
天皇は大伴狛連・三国麻呂公・穂積噛臣を蘇我倉山田麻呂大臣のもとに遣わして反逆の虚実を問うた。
大臣は「御返事は天皇の御前で申し上げます」と答えた。天皇はまた三国麻呂公・穂積噛臣を遣わして反状を審らかにしようとしたが、麻呂大臣はまた前のように答えた。
天皇は兵を起して大臣の邸宅を囲んだ。大臣は二人の子、法師と赤猪「またの名は秦」とある。を連れて茅渟 の道から逃げて倭 国の境に向った。
大臣の長子興志はこれより先に倭に在って、その寺を造っていた。
突然父の逃避を聞いて今来 の大槻のもとで迎え、先に立って寺に入った。
そして大臣に「私自ら進んで来襲する軍を防ぎましょう」と願い出たが、大臣は許さなかった。この夜、興志は宮「宮とは小墾田宮を謂う」とある。を焼こうとして士卒を集めた。
【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月戊辰条】 -
大化5年3月25日
大臣が長子興志に「お前は我が身が惜しいか」と言うと、興志は「惜しくはありません」と答えた。
大臣は山田寺の衆僧及び長子興志と数十人に語って「人の臣たる者がどうして君に逆らうことを企てようか。どうして父への孝を失えようか。およそこの伽藍 は、元より自分の為に造ったのではない。天皇の御為に誓ってお造り申し上げたのである。今私は身刺に讒言され、不当に誅されようとしている。せめてもの願いは、黄泉に行っても忠心を懐いたままでありたいということだ。寺に来たわけは、終りの時を安らかに迎えるためである」と。言い終ると仏殿の戸を開き、仰いで誓いを立てて「我は死んでも君王を怨まず」と言った。
誓いが終ると自ら経死した。妻子ら殉死する者は八人だった。この日、大伴狛連と蘇我日向臣を将として軍を率い大臣を追わせた。
【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月己巳条】
将軍の大伴連らが黒山 に至ると、土師連身・采女臣使主麻呂が山田寺から馳せ参じて「蘇我大臣は既に三男一女らと共に自ら経死されました」と告げた。
これにより将軍らは丹比坂 を経て帰還した。 -
大化5年3月26日
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大化5年3月
使者を遣わして山田大臣の資財を収めた。
資財の中で、好書の上には皇太子の書と記されてあった。重宝の上には皇太子の物と記されてあった。使者は帰って状況を報告した。
皇太子は初めて大臣の心が正しく潔いことを知り、悔い恥じて哀しみ歎くことが止まなかった。日向臣を筑紫大宰帥に拝した。世人は「これは
隠流 だろう」と語り合った。皇太子の妃蘇我造媛は、父の大臣が塩に斬られたと聞き、傷心して悲しみ悶えた。塩の名を聞くことを憎んだ。
このため造媛の近侍は、塩の名を呼ぶことを忌み、改めて堅塩 と言った。造媛は遂に傷心して死に至ってしまった。
皇太子は造媛の急逝を聞き、悼み哀しんで激しく泣いた。
野中川原史満が進み出て歌を奉った。「
耶 麻 鵝 播 爾 烏 志 賦 拕 都 威 底 陀 虞 毗 預 倶 陀 虞 陛 屢 伊 慕 乎 多 例 柯 威 爾 鷄 武 」「
模 騰 渠 等 爾 婆 那 播 左 該 騰 摸 那 爾 騰 柯 母 于 都 倶 之 伊 母 我 磨 陀 左 枳 涅 渠 農 」皇太子は歎き褒めて「良い歌だなぁ。悲しいなぁ」と言った。
【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月是月条】
そして御琴を授けて唱和させ、絹四匹・布二十端・綿二褁を賜った。 -
白雉4年6月
旻法師が亡くなり弔使を遣わす。
【日本書紀 巻第二十五 白雉四年六月条】 -
白雉4年
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白雉5年10月1日
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白雉5年10月10日
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白雉5年12月8日
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斉明天皇元年1月3日
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斉明天皇4年11月9日
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斉明天皇6年5月
皇太子が初めて
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年五月是月条】漏剋 を造らせて民に時を知らせた。 -
斉明天皇6年9月5日
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斉明天皇6年12月24日
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斉明天皇7年1月6日
御船が西征のため海路に就く。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年正月壬寅条】 -
斉明天皇7年7月24日
斉明天皇が
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年七月丁巳条】朝倉宮 で崩じる。 -
斉明天皇7年7月24日
皇太子は白の麻服を着て称制即位せずに政務を執る。した。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年七月丁巳条】 -
斉明天皇7年7月
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斉明天皇7年8月1日
皇太子は天皇の喪をつとめるため、還って
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年八月甲子朔条】磐瀬宮 に着いた。
この日の夕、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。 -
斉明天皇7年8月
前将軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石らを遣わして百済を救援させ、武器・食料を送った。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年八月条】 -
斉明天皇7年9月
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斉明天皇7年10月7日
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斉明天皇7年10月23日
天皇の亡骸は還って
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十月乙酉条】難波 に着いた。 -
斉明天皇7年11月7日
天皇の亡骸を
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十一月戊戌条】飛鳥川原 で殯した。
この日から九日に至るまで発哀した。 -
斉明天皇7年11月
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斉明天皇7年
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斉明天皇7年12月
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斉明天皇7年
播磨国司岸田臣麿らが宝剣を献上して言うには「
狭夜郡 の人が粟畑の穴の内から見つけました」と。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年十二月是歳条】
また日本の高麗救軍の将らが百済の加巴利浜 に泊って火を焚いた。灰の跡が孔となり、かすかに音が響いた。鳴鏑のようだった。
ある人が言うには「高麗・百済が亡びる兆しか」と。 -
天智天皇元年1月27日
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天智天皇元年3月4日
百済王に布三百端を賜る。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年三月癸巳条】 -
天智天皇元年3月
唐人・新羅人が高麗を討った。高麗は救いを乞うてきた。それで軍将を遣わして
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年三月是月条】疏留城 を拠点とした。
これにより唐人はその南の境を侵略することは出来ず、新羅はその西の塁砦を落すことは出来なかった。 -
天智天皇元年4月
鼠が馬の尾に子を産んだ。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年四月条】
釈道顕が占って言うには「北国の人は南国に附属しようとする。高麗は破れ、日本に属するかもしれない」と。 -
天智天皇元年5月
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天智天皇元年6月28日
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天智天皇元年12月1日
百済王豊璋、その臣佐平福信ら、狭井連「闕名」とある。・朴市田来津が議って「この
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年十二月丙戌朔条】州柔 は、遠く田畝を隔てて土地は痩せている。農桑する地ではない。これは戦う場である。ここに長くいれば民は飢えてしまう。避城 に遷るのが良い。避城は西北に古連旦涇 新坪川。の水が流れ、東南は深泥巨堰 に防がれ、周囲に田があり、溝を作って雨を降らす。華も実も三韓の上物である。衣食の源は天地の隠所にある。低地と雖も遷るべきである」と。
ここで朴市田来津が一人進み出て諫めて言うには「避城と敵の所在の間は一夜で行けるのでとても近いです。もし不意の攻撃を受ければ後悔します。飢えは後のことで、亡びるのが先です。今敵が妄りに来ないわけは、州柔は山高く谷狭く、守り易く攻め難いからである。もし低地にいれば、どうして固く動かずに今日に至れましょうか」と。
遂に諫めは聞かず、避城を都とした。 -
天智天皇元年
百済を救う為に武具・船舶・軍糧を準備する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年是歳条】 -
天智天皇2年2月2日
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天智天皇2年2月2日
新羅人が百済の南の畔の四州を焼き、安徳などの要地を取った。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年二月丙戌条】
避城は賊に近いので居座ることが出来なかった。それで州柔に遷居した。
田来津が言ったようになった。 -
天智天皇2年2月
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天智天皇2年3月
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天智天皇2年5月1日
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天智天皇2年6月
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天智天皇2年8月13日
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天智天皇2年8月17日
賊将が州柔に至り、その王城を囲んだ。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月戊戌条】
大唐の軍将は戦船百七十艘を率いて白村江 に布陣した。 -
天智天皇2年8月27日
日本水軍の先発と大唐水軍が合戦した。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月戊申条】
日本が不利となり退いた。大唐は陣を堅守した。 -
天智天皇2年8月28日
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天智天皇2年9月7日
百済の州柔城が唐に降伏した。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年九月丁巳条】
この時に国人が相談して「州柔は降伏した。これではどうすることも出来ない。百済の名は今日で絶える。丘墓に行くことも出来ない。弖礼城に行って日本の軍将たちに会い、要点を相談しよう」と。
遂に枕服岐城 にいた妻子らに教えて、国を去る心を知らせた。 -
天智天皇2年9月11日
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年九月辛酉条】牟弖 を出発する以下、日本百済連合軍が日本に向けて出発する過程の記事が続く。。 -
天智天皇2年9月13日
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年九月癸亥条】弖礼 に至る。 -
天智天皇2年9月24日
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天智天皇3年2月9日
天皇は大皇弟に命じて、冠位の階名を増やし換え、氏上・
民部 ・家部 などの事を宣布させた。その冠は二十六階ある。
大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建。
これが二十六階である。以前の花を改めて錦という。
錦から乙まで六階を加えた。
以前の初位一階に加え換えて大建・小建の二階とした。
これらが異なったところで、残りは以前のままである。大氏の氏上には大刀を賜った。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年二月丁亥条】
小氏の氏上には小刀を賜った。
伴造らの氏上には干楯・弓矢を賜った。
またその民部・家部を定めた。 -
天智天皇3年3月
百済王善光王らを難波に住まわせる。
星が
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年三月条】京 の北に落ちる。 -
天智天皇3年(1月 ~ 3月)
地震があった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年是春条】 -
天智天皇3年5月17日
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天智天皇3年5月
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天智天皇3年6月
島皇祖母命が薨じる。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年六月条】 -
天智天皇3年10月1日
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天智天皇3年10月4日
郭務悰らに饗応する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年十月戊寅条】 -
天智天皇3年10月
高麗の大臣蓋金がその国で亡くなった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年十月是月条】
子供らに遺言して「お前たち兄弟は魚と水のように同調し、爵位を争うことがないようにせよ。もしそうでなければ必ず隣国に笑われる」と。 -
天智天皇3年12月12日
郭務悰らが帰途に就く。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年十二月乙酉条】 -
天智天皇3年12月
-
天智天皇3年
対馬島・壱岐島・筑紫国などに
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年是歳条】防 防人。と烽 のろし台。を置いた。
また筑紫に大堤を築いて水を貯えた。名付けて水城 という。 -
天智天皇4年2月25日
間人大后が薨じる。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年二月丁酉条】 -
天智天皇4年2月
-
天智天皇4年3月1日
間人大后の為に三百三十人を得度させる。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年三月癸卯朔条】 -
天智天皇4年3月
神前郡の百済人に田を給う。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年三月是月条】 -
天智天皇4年8月
-
天智天皇4年9月23日
唐国が
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年九月壬辰条】朝散大夫 沂州司馬 上柱国 劉徳高ら割注に「等とは、右戎衛(ゆうじゅうえい)郎将(ろうしょう)上柱国百済禰軍・朝散大夫上柱国郭務悰をいう。凡そ二百五十四人。七月二十八日に対馬に至り、九月二十日に筑紫に至り、二十二日に表函を進上した」とある。を遣わす。 -
天智天皇4年10月11日
菟道で大いに閲する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年十月己酉条】 -
天智天皇4年11月13日
劉徳高らに饗応する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年十一月辛巳条】 -
天智天皇4年12月14日
劉徳高らに物を賜る。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年十二月辛亥条】 -
天智天皇4年12月
劉徳高らが帰途に就く。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年十二月是月条】 -
天智天皇4年
小錦上中下不明。守君大石ら割注に「等とは、小山坂合部連石積・大乙岐弥吉士針間をいう。唐の使人を送ったのであろう」とある。「岐弥吉士針間」を「吉士岐弥吉士針間」とする写本もある。この場合は「吉士岐弥」と「吉士針間」の二名になるか。を大唐に遣わして云々。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇四年是歳条】 -
天智天皇5年1月11日
-
天智天皇5年3月
皇太子は自ら佐伯子麻呂連の家に行ってその病を見舞った。古くから従ってきた功を褒め、嘆いた。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇五年三月条】 -
天智天皇5年6月4日
高麗の
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇五年六月戊戌条】前部 能婁らが帰途に就く。 -
天智天皇5年7月
大水あり。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇五年七月条】 -
天智天皇5年(7月 ~ 9月)
租調を免じる。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇五年是秋条】 -
天智天皇5年10月26日
-
天智天皇5年(10月 ~ 12月)
京都の鼠が近江に向って移った。
百済の男女二千余人を東国に住まわせた。
緇素緇は僧侶、素は俗人。を選ばず癸亥年から三年は官食を賜ることとした。倭漢沙門知由が指南車を献上する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇五年是冬条】 -
天智天皇6年2月27日
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天智天皇6年3月19日
近江に遷都する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇六年三月己卯条】
この時に天下の人民は遷都を願わず、遠回しに諫める者が多かった。
童謡も多かった。
昼夜失火する所が多かった。 -
天智天皇6年6月
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇六年六月条】葛野郡 が白䴏 を献上する。 -
天智天皇6年7月11日
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天智天皇6年8月
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇六年八月条】倭 京 に行幸する。 -
天智天皇6年10月
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天智天皇6年11月9日
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天智天皇6年11月13日
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天智天皇6年11月
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇六年十一月是月条】倭国 の高安城 ・讃吉国 の山田郡 の屋島城 ・対馬国 の金田城 を築く。 -
天智天皇6年閏11月11日
錦十四
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇六年閏十一月丁酉条】匹 ・纈 十九匹・緋 二十四疋・紺布 二十四端 ・桃染布 五十八端・斧二十六・釤 六十四・刀子 六十二枚 を椽磨らに賜る。 -
天智天皇7年1月3日
即位して天皇となる。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年正月戊子条】-
天智天皇6年3月
六年歳次丁卯三月に即位した。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年正月戊子条 或本云】
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天智天皇7年1月7日
群臣と内裏で宴する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年正月壬辰条】 -
天智天皇7年1月23日
送使博徳らが服命する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年正月戊申条】 -
天智天皇7年2月23日
四人の嬪を召し入れた。蘇我山田石川麻呂大臣の女があり、遠智娘割注に「或本に云うには美濃津子娘という」とある。という。一男二女を生んだ。
第一を大田皇女という。
第二を鸕野皇女という。天下を治めるに至って飛鳥浄御原宮 に坐し、後に宮を藤原 に移した。
第三を建皇子という。言語不能であった。或本に云うには、
遠智娘は一男二女を生んだ。
第一を建皇子という。
第二を大田皇女という。
第三を鸕野皇女という。割注或本に云うには、
蘇我山田麻呂大臣の女の茅渟娘が生んだのは、
大田皇女と娑羅々皇女という。割注
次に遠智娘の妹があり、姪娘という。
御名部皇女と阿陪皇女を生んだ。
阿陪皇女は天下を治めるに至って藤原宮に坐し、後に都を乃楽 に移した。
或本に云うには、姪娘を名付けて桜井娘という。割注次に阿倍倉梯麻呂大臣の女があり、橘娘という。
飛鳥皇女と新田部皇女を生んだ。次に蘇我赤兄大臣の女があり、常陸娘という。
山辺皇女を生んだ。
また宮人に男女を生んだ四人がいた。忍海造小竜の女があり、色夫古娘という。一男二女を生んだ。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】
第一を大江皇女という。
第二を川島皇子という。
第三を泉皇女という。 -
天智天皇7年4月6日
百済が末都師父らを遣わして調を進上する。。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年四月庚申条】 -
天智天皇7年5月5日
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天智天皇7年6月
伊勢王斉明天皇七年六月条にも薨去の記事がある。とその弟王割注に「官位は詳らかではない」とある。が日をついで薨じた。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年六月条】 -
天智天皇7年7月
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天智天皇7年9月12日
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天智天皇7年9月12日
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天智天皇7年9月29日
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天智天皇7年10月
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天智天皇7年11月1日
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天智天皇7年11月5日
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天智天皇7年
沙門道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げた。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年是歳条】
しかし途中で風雨にあたり、航路に迷って戻ってきた。-
外賊が盗んで逃げたが境を出ることは出来なかった。
【古語拾遺】
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天智天皇8年1月9日
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天智天皇8年3月11日
耽羅が王子久麻伎らを遣わして貢献した。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年三月己丑条】 -
天智天皇8年3月18日
耽羅王に五穀種を賜る。
この日、王子久麻伎らが帰途に就く。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年三月丙申条】 -
天智天皇8年5月5日
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天智天皇8年8月3日
天皇は
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年八月己酉条】高安嶺 に登り、城を築くことを議った。
しかしまだ民が疲弊していることを哀れんで築くのをやめた。
時の人は感歎して「仁愛の徳が広まらないはずはない」と云々。 -
天智天皇8年(7月 ~ 9月)
藤原内大臣の家に落雷があった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年是秋条】 -
天智天皇8年9月11日
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天智天皇8年10月10日
天皇は藤原内大臣の家に行幸して親しく病を見舞ったが憔悴がひどかった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十月乙卯条】
詔して「天道が仁者を助けることに何の偽りがあろうか。善を積めば余慶がある。しるしが無いはずがない。もし望みがあれば何でも言うがよい」と。
答えて「私は愚か者です。何を申し上げることがありましょうか。ただ一つ葬儀は簡素にして頂きたいと思います。生きては軍国の務めを果せず、死しても難儀を重ねることなどできましょうか」と云々。
時の賢者はこれを聞いて歎いて「この一言は昔の哲之の善言にも比する。大樹将軍が賞を辞した話後漢の馮異の逸話。と同じには語れない」と。 -
天智天皇8年10月10日
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天智天皇8年10月16日
藤原内大臣が薨じる。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十月辛酉条】-
日本世記曰く、
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十月辛酉条 日本世記曰】
内大臣は五十歳台にして私邸で薨じた。山の南に移して殯した。
天はどうして心を寄せず、無理にでも老人を遺さなかったのか。哀しいことだ。
碑には「年五十六にして薨じた」とある。
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天智天皇8年10月19日
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天智天皇8年12月
大蔵に火災があった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十二月条】 -
天智天皇8年(9月 ~ 12月)
高安城 を造って畿内の田税を収めさせた。時に斑鳩寺に火災があった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年是冬条】 -
天智天皇8年
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天智天皇9年1月7日
士大夫らに詔して宮門内で大射を行う。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇九年正月辛巳条】 -
天智天皇9年1月14日
朝庭の礼儀と行路の譲り合いについて宣告した。また
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇九年正月戊子条】誣妄 ・妖偽 誣告・妖言を禁じた。 -
天智天皇9年2月
戸籍を造り、盗賊と浮浪をやめさせた。
時に天皇は蒲生郡
匱迮野 に行幸して宮地を観覧した。高安城を造って穀と塩を蓄えさせた。
長門に一城、筑紫に二城を築かせた。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇九年二月条】 -
天智天皇9年3月9日
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇九年三月壬午条】山御井 の傍に諸神の座を敷いて幣帛 を捧げた。中臣金連が祝詞を宣した。 -
天智天皇9年4月30日
暁に法隆寺に火災があった。一屋も残らなかった。大雨が降って雷が鳴った。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇九年四月壬申条】 -
天智天皇9年5月
童謡があり、
「
于 知 波 志 能 都 梅 能 阿 素 弭 爾 伊 提 麻 栖 古 多 麻 提 能 伊 鞞 能 野 鞞 古 能 度 珥 伊 提 麻 志 能 倶 伊 播 阿 羅 珥 茹 伊 提 麻 西 古 多 麻 提 能 鞞 能 野 鞞 古 能 度 珥 」といった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇九年五月条】 -
天智天皇9年6月
とある村で亀を捕獲した。背には申の字が書かれていた。上は黄色で下は黒く、長さは六寸ばかりであった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇九年六月条】 -
天智天皇9年9月1日
阿曇連頬垂を新羅に遣わす。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇九年九月辛未朔条】 -
天智天皇9年
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇九年是歳条】水碓 を造って鉄を鋳た。 -
天智天皇10年1月2日
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天智天皇10年1月5日
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天智天皇10年1月6日
東宮太皇弟が詔して割注に「或る本に云うには、大友皇子が詔したという」とある。冠位・法度の事を施行した割注に「法度・冠位の名は新しい律令に詳しく載っている」とある。。
天下に大赦した。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月甲辰条】 -
天智天皇10年1月9日
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天智天皇10年1月13日
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天智天皇10年1月
大錦下を佐平余自信・沙宅紹明割注に「法官大輔」とある。に授ける。
小錦下を鬼室集斯割注に「学職頭」とある。に授ける。
大山下を達率谷那晋首割注に「兵法に閑(なら)えり」とある。・木素貴子割注に「兵法に閑(なら)えり」とある。・憶礼福留割注に「兵法に閑(なら)えり」とある。・答㶱春初割注に「兵法に閑(なら)えり」とある。・㶱日比子賛波羅金羅金須割注に「薬を解(し)れり」とある。複数の人名に分けられるとする説があるが未詳。・鬼室集信割注に「薬を解(し)れり」とある。に授ける。
小山上を達率徳頂上割注に「薬を解(し)れり」とある。・吉大尚割注に「薬を解(し)れり」とある。・許率母割注に「五経に明(あきらか)なり」とある。・角福牟割注に「陰陽に閑(なら)えり」とある。に授ける。
小山下を他の達率ら五十余人に授ける。
童謡に云う。「
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月是月条】多 𦤶 播 那 播 於 能 我 曳 多 曳 多 那 例 例 騰 母 陀 麻 爾 農 矩 騰 岐 於 野 兒 弘 儞 農 倶 」 -
天智天皇10年2月23日
百済が台久用善らを遣わして調を進上する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年二月庚寅条】 -
天智天皇10年3月3日
黄書造本実が
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年三月庚子条】水臬 水準器。を献上する。 -
天智天皇10年3月17日
常陸国が中臣部若子を貢上した。丈は一尺六寸。その生年丙辰からこの年に至るまで十六年である。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年三月甲寅条】 -
天智天皇10年4月25日
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年四月辛卯条】漏剋 水時計。を新しい台に置いた。初めて時を打ち、鍾鼓が響いた。はじめて漏剋を用いられた。
この漏剋は天皇が皇太子の時に始めて自ら製造斉明天皇六年五月是月条。したものである。云々。 -
天智天皇10年4月
筑紫が言うには「八本足の鹿が生れてすぐに死にました」と。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年四月是月条】 -
天智天皇10年5月5日
天皇は西の小殿で皇太子・群臣らと宴した。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年五月辛丑条】
ここで田舞 が二度演じられた。 -
天智天皇10年6月4日
百済の三部の使人が要請する軍事について宣旨があった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年六月己巳条】 -
天智天皇10年6月15日
百済が羿真子らを遣わして調を進上する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年六月庚辰条】 -
天智天皇10年6月
-
天智天皇10年7月11日
唐人の李守真らと百済の使人らが帰途に就く。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年七月丙午条】 -
天智天皇10年8月3日
-
天智天皇10年8月18日
蝦夷に饗応する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年八月壬午条】 -
天智天皇10年9月
病に伏す。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年九月条】-
天智天皇10年9月
病にかかる。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年九月条 或本云】
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天智天皇10年10月7日
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天智天皇10年10月8日
内裏で百体の仏像を開眼する。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月辛未条】 -
天智天皇10年10月
天皇は使いを遣わして、
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月是月条】袈裟 ・金鉢 ・象牙 ・沈水香 ・栴檀香 、及び諸々の珍財を法興寺の仏に奉らせた。 -
天智天皇10年10月17日
天皇の病は重くなり、東宮大海皇子。を召して臥内に引き入れた。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月庚辰条】
詔して「朕の病は重いので後事はお前に任せる」と云々。
しかし再拝して病を称して固辞して受けずに「どうか大業は大后にお授け下さい。大友王に諸政をお任せ下さい。私は天皇の為に出家して修行したいと思います」と。
天皇はこれを許し、東宮は立って再拝した。-
天智天皇10年10月17日
天皇は病臥し重態であった。
そこで蘇賀臣安麻侶を遣わし、東宮を呼んで大殿に引き入れた。
安摩侶はもとより東宮に好かれていた。
密かに東宮を顧みて「注意してご発言なさいませ」と言った。東宮は陰謀があることを疑って慎んだ。天皇は東宮に勅して鴻業を授けようとしたが、辞退して言うには「私は不幸にして元から多病です。どうして社稷を保てましょう。願わくは陛下、天下を挙げて皇后に託し、大友皇子を立てて儲君となさりませ。私は今日にも出家し、陛下の為に功徳を修めようと思います」と。
天皇は許可した。即日出家して法服を着た。そして自家の武器の悉くを公に納めた。
【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月庚辰条】
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天智天皇10年10月19日
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天智天皇10年11月10日
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天智天皇10年11月23日
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天智天皇10年11月24日
近江宮に火災があった。大蔵省の第三倉から出火したのである。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十一月丁巳条】 -
天智天皇10年11月29日
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天智天皇10年12月3日
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十二月乙丑条】近江宮 で崩じる。 -
天智天皇10年12月11日
新宮で殯する。
時の童謡に曰く、
「
美 曳 之 弩 能 曳 之 弩 能 阿 喩 阿 喩 擧 曾 播 施 麻 倍 母 曳 岐 愛 倶 流 之 衞 奈 疑 能 母 騰 制 利 能 母 騰 阿 例 播 倶 流 之 衞 」「
於 彌 能 古 能 野 陛 能 比 母 騰 倶 比 騰 陛 多 爾 伊 麻 拕 藤 柯 禰 波 美 古 能 比 母 騰 矩 」「
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十二月癸酉条】阿 箇 悟 馬 能 以 喩 企 波 波 箇 屢 麻 矩 儒 播 羅 奈 爾 能 都 底 擧 騰 多 拕 尼 之 曳 雞 武 」 -
天智天皇10年12月17日
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天智天皇10年
讚岐国の山田郡の人の家に四足のひよこが生まれた。
また大炊寮に八つの鼎があり鳴った。或る時は一つの鼎が鳴った。或る時は二つ、或る時は三つ共に鳴った。或る時は八つ共に鳴った。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年是歳条】
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