蘇我果安 このページは作成途上です 名前 氏(ウジ):蘇我【日本書紀】(そが) 氏(ウジ):蘇賀【日本書紀】(そが) 姓(カバネ):臣【日本書紀】(おみ) 名:果安【日本書紀】(はたやす) 性別男性 生年月日( ~ 天智天皇10年1月5日) 没年月日天武天皇元年7月2日 父蘇我倉麻呂(そがのくらまろ) 先祖 蘇我倉麻呂 蘇我馬子 蘇我稲目 unknown unknown unknown 称号・栄典とても広〜い意味です。御史大夫(ぎょしたいふ)【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月癸卯条】 出来事 天智天皇10年1月5日 御史大夫を拝命する。 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月癸卯条】 天智天皇10年10月19日 吉野宮(よしののみや)に入る大海人皇子を菟道まで見送る。 【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月壬午条】 天智天皇10年11月23日 大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前にいた。 左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣が侍った。 大友皇子は手に香鑪(こうろ)をとり、先ず立って誓って言うには「六人は心を同じくして天皇の詔を承ります。もし違える者があれば必ず天罰を被るであろう」と云々。 左大臣蘇我赤兄臣らは手に香鑪をとり、順次立って泣きながら誓って言うには「我ら五人は殿下に従い天皇の詔を承ります。もし違える者があれば四天王が打ち、天神地祇もまた罰を下されるでしょう。三十三天もこの事をご承知下さい。子孫もまさに絶え、家門は必ず亡びるでしょう」と云々。 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十一月丙辰条】 天智天皇10年11月29日 五臣が大友皇子を奉じて天皇の前に誓った。 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十一月壬戌条】 天智天皇10年12月3日 天智天皇が崩じる。 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十二月乙丑条】 天武天皇元年7月2日 近江方は山部王・蘇賀臣果安・巨勢臣比等に命じ、数万の軍勢を率いて不破を襲わせようと、犬上川(いぬかみのかわ)の側に軍立ちさせた。 しかし山部王は蘇賀臣果安・巨勢臣比等に殺された。 この乱れにより軍は進めず、蘇賀臣果安は犬上に引き返すと頸を刺して死んだ。 【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛卯条】 天武天皇元年8月25日 子が流罪となる。 【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年八月甲申条】