弘文天皇

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名前
  • 漢風諡号:弘文天皇(こうぶんてんのう, てんむてんわう)
  • 大友皇子【日本書紀】(おおとものみこ, おほ
  • 伊賀皇子【日本書紀】(いが
  • 大友王【新撰姓氏録抄】(おおとものみこ, おほもの
キーワード
  • 後裔は左京淡海真人(おうみのまひと)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
生年月日
( ~ 天智天皇10年1月5日)
没年月日
天武天皇元年7月23日
  • 天智天皇てんじてんのう【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】
  • 伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめ【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年二月戊寅条】
先祖
  1. 天智天皇
    1. 舒明天皇
      1. 押坂彦人大兄皇子
      2. 糠手姫皇女
    2. 皇極天皇
      1. 茅渟王
      2. 吉備姫王
  2. 伊賀采女宅子娘
配偶者
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 第1代太政大臣だじょうだいじん【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月癸卯条】
  • 第39代天皇てんのう
出来事
  • 天智天皇10年1月5日

    太政大臣を拝命する。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月癸卯条】
  • ・・・
    • 天智天皇10年1月6日【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月甲辰条】

      詔して冠位・法度の事を施行する本文では大友皇子ではなく、東宮太皇弟(大海皇子)が詔している。本文の割注に「法度・冠位の名は新しい律令に詳しく載っている」とある。

      【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月甲辰条 或本云】
  • 天智天皇10年9月

    天智天皇が病に伏す。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年九月条】
  • 天智天皇10年10月17日

    天智天皇の病が重くなる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月庚辰条】
  • 天智天皇10年11月23日

    大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前にいた。
    左大臣蘇我赤兄臣右大臣中臣金連蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣が侍った。

    大友皇子は手に香鑪(こうろ)をとり、先ず立って誓って言うには「六人は心を同じくして天皇の詔を承ります。もし違える者があれば必ず天罰を被るであろう」と云々。

    左大臣蘇我赤兄臣らは手に香鑪をとり、順次立って泣きながら誓って言うには「我ら五人は殿下に従い天皇の詔を承ります。もし違える者があれば四天王が打ち、天神地祇もまた罰を下されるでしょう。三十三天もこの事をご承知下さい。子孫もまさに絶え、家門は必ず亡びるでしょう」と云々。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十一月丙辰条】
  • 天智天皇10年11月29日

    五臣が大友皇子を奉じて天皇の前に誓った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十一月壬戌条】
  • 天智天皇10年12月3日

    天智天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十二月乙丑条】
  • 天武天皇元年6月26日

    近江朝は大皇弟が東国に入ったことを聞いた。
    群臣は皆驚き、(みやこ)の内は騒がしかった。
    或る者は逃げて東国に入ろうとした。或る者は退いて山に隠れようとした。

    大友皇子は群臣に「どのようにすべきか」と言った。ある臣が進み出て「悠長に構えては手遅れとなります。急ぎ騎馬隊を集めて後を追うべきです」と言ったが、皇子は従わなかった。

    韋那公磐鍬書直薬忍坂直大摩侶を東国に遣わした。
    穂積臣百足及び弟の百枝物部首日向倭京(やまとのみやこ)飛鳥。に遣わした。
    佐伯連男を筑紫に遣わした。
    樟使主磐手を吉備国に遣わして兵を興させた。

    磐手に言うには「筑紫大宰栗隈王吉備国守(きびのくにのかみ)当摩公広島の二人は元より大皇弟に従うことがあった。反逆の疑いがあろう。もし不服そうな顔をすればすぐに殺せ」と。

    磐手が吉備国に至り(おしてのふみ)を授ける日、広島を欺いて刀を解かせた。磐手はそこで刀を抜いて殺した。
    が筑紫に至り、栗隈王が苻を受ける時に答えて言うには「筑紫国は元より外賊から国境を守っています。城を高く、溝を深くして海に向って守備するのは内賊の為にではありません。命を受けて軍を興せば国防が空となります。もしも思いがけない変事があれば社稷が傾きます。然る後に百度臣を殺しても何の益もありません。どうして敢えて徳に背くことがありましょうか。容易く兵を動かせないのはこのような理由です」と。
    この時に栗隈王の二子である三野王武家王は剣を佩いて側に立ち、退くことは無かった。
    は剣を堅く握って進もうとしたが、かえって殺されることを恐れた。それで事を成せずに空しく帰還した。

    東方駅使磐鍬らが不破(ふわ)に至ろうとする時、磐鍬は山中に兵が潜んでいることを想定して一人遅れてゆっくり進んだ。
    時に伏兵が山から出てきてらの背後を遮った。
    磐鍬らが捕えられたことを知り、反転して逃走してどうにか脱出できた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丙戌条】
  • ( ~ 天武天皇元年7月2日)

    近江方は精兵を放って玉倉部邑(たまくらべのむら)を急襲したが、出雲臣狛に撃退される。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛卯条】
  • 天武天皇元年7月2日

    近江方は山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等に命じ、数万の軍勢を率いて不破を襲わせようと、犬上川(いぬかみのかわ)の側に軍立ちさせた。
    しかし山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等に殺された。
    この乱れにより軍は進めず、蘇賀臣果安は犬上に引き返すと頸を刺して死んだ。

    この時に近江の将軍羽田公矢国とその子大人らは一族を率いて降ってきた。
    それで斧と(まさかり)を授けて将軍に任じ、北の越に入らせた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛卯条】
  • 天武天皇元年7月4日

    将軍大野果安が吉野方の将軍大伴吹負乃楽山(ならやま)で戦い勝利する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月癸巳条】
  • 天武天皇元年7月5日

    別将田辺小隅倉歴(くらふ)田中足麻呂率いる吉野方の軍を急襲して潰走させる。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月甲子条】
  • 天武天皇元年7月6日

    田辺小隅はさらに進んで、莿荻野(たらの)の陣営を急襲したが、将軍多品治に阻まれ、逆に追撃される。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月乙未条】
  • 天武天皇元年7月7日

    境部薬息長(おきなが)横河(よこかわ)で吉野方の村国男依の軍と戦い敗死する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月丙申条】
  • 天武天皇元年7月9日

    秦友足鳥籠山(とこのやま)で吉野方の村国男依の軍と戦い敗死する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月戊戌条】
  • 天武天皇元年7月13日

    近江軍が安河(やすかわ)のほとりで村国男依らに大敗し、社戸大口土師千島が捕えられる。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬寅条】
  • 天武天皇元年7月22日

    吉野方の村国男依らが瀬田(せた)に至る。

    時に大友皇子は群臣らと共に橋の西に大きな陣営を構えた。その後方が見えない程であった。

    旗旘(はた)は野を隠し、埃塵(ちり)は天に連なった。
    鉦鼓(かねつづみ)の音は数十里先まで聞こえ、弩の列からは雨のように矢が乱発された。
    その将智尊は精兵を率いて先鋒として防いだ。
    そして橋の中を三丈ばかり切断して長板を置き、もしも板を踏んで渡ろうとする者あれば板を引いて落そうとした。
    こにより進撃出来ずにいた。

    有勇な士がいて大分君稚臣といった。
    長矛を棄てて(よろい)を重ね着すると、刀を抜いて急いで板を踏んで渡った。
    そして板に繋がった綱を斬り、矢を受けながら陣に突入した。

    軍勢は乱れて逃走した。
    将軍智尊は刀を抜き、退く者を斬ったが止めることは出来なかった。
    智尊は橋の側で斬られた。

    大友皇子・の大臣らは辛うじて身を免れて逃げた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛亥条】
  • 天武天皇元年7月23日

    大友皇子は逃げ入る所が無くなり、引き返して山前(やまさき)に隠れて自ら首を縊った。
    この時にの大臣と群臣は皆散り逃げたが、物部連麻呂と一人二人の舎人だけが従った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】