斉明天皇4年11月3日
留守官の蘇我赤兄臣が有間皇子に語って「天皇の政事には三つの失政がございます。大きな倉庫を起てて民の財を積み集めることがその一。長い溝を掘って食糧を浪費したことがその二。舟に石を載せて運び、積み上げて丘にしたことがその三」と。 有間皇子は赤兄の好意を知り、喜んで答えて「この年になって初めて兵を用いる時がきた」と。
斉明天皇4年11月5日
有間皇子は赤兄の家に向い、高殿に登って画策していると、夾膝(おしまずき)が自然に壊れた。 これを不祥の前兆と知り、共に誓って中止した。皇子は帰って寝た。
この夜半に赤兄は物部朴井連鮪を遣わし、宮を造る丁(よほろ)を集めて有間皇子の市経(いちぶ)の家を囲んだ。
有間皇子と蘇我臣赤兄・塩屋連小戈・守君大石・坂合部連薬は短籍(ひねりぶみ)を取って謀反の事を占った。
斉明天皇4年11月9日
有間皇子と守君大石・坂合部連薬・塩屋連鯯魚は捉えられて紀温湯(きのゆ)に送られた。
斉明天皇4年11月11日
尾張国に流される。
天武天皇元年7月7日
息長(おきなが)の横河(よこかわ)で吉野方の村国男依の軍と戦って敗北、斬られる。