大伴吹負

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名前
  • 氏(ウジ):大伴【日本書紀】(おおとも, おほも)
  • 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
  • 名:吹負【日本書紀】(ふけい, ふけひ)
  • 名:男吹負【日本書紀】(おふけい, をふけひ)
生年月日
( ~ 天武天皇元年6月29日)
没年月日
天武天皇12年8月5日
先祖
  1. 大伴噛
  2. unknown
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 贈:大錦中だいきんちゅう【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年八月庚申条】
出来事
  • 大伴連馬来田・弟の吹負は情勢を知り吉野に隠棲していた大海人皇子の決起。、病を称して倭の家に退いた。
    そして皇位を継ぐのは、吉野にいる大皇弟であろうと思った。
    馬来田が先に天皇に従った。
    ただし吹負は留まり、名をこの時に立てて災いを転じようと思った。
    そして一人、二人と同族及び豪傑を招いて僅かに数十人を得た。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丙戌条】
  • 天武天皇元年6月29日

    大伴連吹負は留守司坂上直熊毛と相談して、一人二人の漢直(あやのあたい)らに語って「私は偽って高市皇子と名乗り、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の道から出て軍営に現れる。その時にお前たちは内応せよ」と。
    そして兵を百済(くだら)の家に揃えて南門から出た。

    まず秦造熊犢鼻褌(ふんどし)姿にして馬に乗せて走らせ、寺の西の軍営の中に「高市皇子が不破から来られた。軍勢が多く従っているぞ」と叫ばせた。
    留守司高坂王と挙兵の使者穂積臣百足らは飛鳥寺の西の槻の下に軍営を構えていた。
    ただし百足だけは小墾田(おはりだ)の武器庫にいて兵を近江に運ぼうとしていた。
    この時に軍営の中の兵はの叫び声を聞いて悉く散り逃げた。

    大伴連吹負は数十騎を率いて現れ、熊毛・諸々の(あたい)らと共に連携し、兵士もまた従った。

    高市皇子の命令と称して穂積臣百足を小墾田の武器庫に呼んだ。
    百足は馬に乗ってゆっくり現れた。
    飛鳥寺の西の槻の下に着いた頃、ある人が「馬から降りろ」と言った。百足はぐずぐずしていた。
    するとその襟を取って引き落し、弓で一矢射た。そして刀を抜いて斬り殺した。
    穂積臣五百枝物部首日向を捕えたが、しばらくすると許して軍中に置いた。
    また高坂王稚狭王を呼んで軍に従わせた。

    大伴連安麻呂坂上直老佐味君宿那麻呂らを不破宮に遣わして状況を報告させた。
    天皇は大喜びして、吹負を将軍に任命した。
    この時に三輪君高市麻呂鴨君蝦夷ら及び諸々の豪傑は響きの声に応じるように将軍の麾下に集まった。
    そして近江を襲うことを計画した。軍の中から英俊を選んで別将副将または別働隊の将。と軍監とした。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月己丑条】
  • 天武天皇元年7月1日

    乃楽(なら)に向けて出発する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月己丑条】
  • 天武天皇元年7月1日

    将軍吹負が乃楽(なら)に向って稗田(ひえだ)に至った日天武天皇元年7月4日の敗戦から逆算して天武天皇元年7月1日。乃楽に向けて出発した当日ということになる。、ある人が「河内(かわち)から多くの軍勢がやって来ます」と言った。
    そこで坂本臣財長尾直真墨倉墻直麻呂民直小鮪谷直根麻呂を遣わし、三百人の兵士を率いて竜田(たつた)を防がせた。
    佐味君少麻呂を遣わし、数百人を率いて大坂(おおさか)に駐屯させた。
    鴨君蝦夷を遣わし、数百人を率いて石手道(いわてのみち)を守らせた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】
  • 天武天皇元年7月3日

    将軍吹負は乃楽山(ならやま)の上に駐屯した。
    時に荒田尾直赤麻呂は将軍に「古京(ふるきみやこ)飛鳥を指す。は元の拠り所なので固く守らなければなりません」と言った。
    将軍は進言に従い、赤麻呂忌部首子人を遣わして古京を守らせた。
    赤麻呂らは古京に到着すると道路の橋の板を外して楯を作り、京の周辺に立てて守った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬辰条】
  • 天武天皇元年7月4日

    近江の将大野君果安乃楽山(ならやま)で戦うが敗北。吹負は辛くも脱出する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月癸巳条】
  • 天武天皇元年7月4日

    将軍吹負は近江に敗れ、一人二人の騎兵を率いて逃げた。
    墨坂(すみさか)に至り、たまたま置始菟の軍と遭遇した。
    さらに退き、金綱井(かなづなのい)に駐屯して散り散りになった兵を集めた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】
  • 天武天皇元年7月7日神懸った日。

    金綱井(かなづなのい)に出陣した時天武天皇元年7月4日高市郡(たけちのこおり)の大領高市県主許梅は口を閉じて物を言わなかった。

    三日後天武天皇元年7月7日に神懸って言うには「吾は高市社(たけちのやしろ)に居る、名は事代主神である。また身狭社(むさのやしろ)に居る、名は生雷神である」と。
    そして神意を表して言うには「神日本磐余彦天皇の陵に馬や様々な武器を奉れ」と。
    また言うには「吾は皇御孫命(すめみまのみこと)大海人皇子を指す。の前後に立って、不破(ふわ)までお送り奉って帰った。今もまた官軍の中に立って守護している」と。
    また言うには「西道から軍勢が来る。慎しむように」と。
    言い終ると醒めた。

    それで急いで許梅を遣わし、御陵を祭り拝ませて馬や武器を奉った。
    また(みてぐら)を捧げて高市・身狭の二社の神を礼い祭った。

    その後、壱伎史韓国が大坂から来襲した。時の人は「二社の神の教えられた言葉はまさにこれであった」と言った。

    また村屋の神(はふり)に神懸って「いま吾が社の中道から軍勢が来る。社の中道を防げ」と。
    それで幾日も経たずに廬井造鯨の軍が中道から来襲した。時の人は「神の教えられた言葉はこれであった」と言った。

    戦いが終った後壬申の乱終結後。、将軍たちはこの三神の教えた言葉を奏上した。
    勅して三神の位階。を上げて進めて祀った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】
  • (天武天皇元年7月7日 ~ )

    近江軍が大坂道からやって来ると聞き、将軍は軍を引いて西に向った。

    当麻に至り、壱伎史韓国の軍と葦池(あしいけ)の側で戦った。
    時に勇士来目という者があり、刀を抜いて真っ直ぐに軍の中に突入した。騎士がこれに続いて進んだ。
    近江軍は悉く逃走した。追撃して多くを斬った。
    将軍は軍中に命じて「兵を興した本意は人民を殺す為ではない。元凶を討つ為である。妄りに殺してはならない」と。

    韓国は一人で軍を離れて逃げた。
    将軍は遥かにそれを見て来目に射させた。
    しかし命中せず、遂に逃げおおせた。

    将軍が本営に帰還すると、東国軍が続々と到着した。
    そこで軍を分け、上中下の道大和三道。奈良盆地を南北に貫く三つの道。に当てて駐屯させた。
    将軍吹負は自ら中道に当った。

    近江の将犬養連五十君は中道を通って村屋(むらや)に留まり、別将廬井造鯨に二百の精兵を率いさせて将軍の陣営を襲わせた。
    この時、麾下の兵は少なく、防ぐことが出来なかった。
    大井寺(おおいでら)(やっこ)で名は徳麻呂ら五人が従軍していた。
    徳麻呂らは先鋒として進んで射かけた。の軍は進軍することが出来なかった。

    この日同日。三輪君高市麻呂置始連菟は上道に当り、箸陵(はしのはか)で戦って近江軍を大いに破った。
    勝ちに乗じての軍の後続を立った。
    の軍は散り散りに逃げ、多くの兵士を殺した。
    は白馬に乗って逃げたが、馬は泥田に落ちて進むことが出来なくなった。
    将軍吹負が甲斐の勇者に「白馬に乗っているのは廬井鯨である。急いで追って射よ」と言った。甲斐の勇者は急追した。
    に追い着く頃、は急いで馬を鞭打つと、馬は泥から抜け出て逃げることが出来た。

    将軍はまた本営に帰還して軍を構えた。
    これ以後、近江軍が来ることは無かった。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】
  • 天武天皇元年7月9日

    東道将軍紀臣阿閉麻呂らは、倭京(やまとのみやこ)の将軍大伴連吹負が近江方に敗れたこと聞くと、軍を分け、置始連菟に千余騎を率いさせ倭京に急行させた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月戊戌条】
  • 天武天皇元年7月22日

    将軍吹負は(やまと)の地を平定し、大坂を越えて難波に向った。
    他の別将たちも各々三道を進み、山前(やまさき)に至って河の南に駐屯した。
    将軍吹負は難波の小郡(おごおり)に留まり、以西の諸国の国司たちに命じて官鑰(かぎ)駅鈴(すず)伝印(つたいのしるし)を奉らせた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛亥条】
  • 天武天皇元年7月24日

    諸将軍たちは莜浪(ささなみ)割注に「莜。此云佐佐」とある。に集結して、の大臣や罪人らを探して捕えた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月癸丑条】
  • 天武天皇元年7月26日

    将軍たちは不破宮に向い、大友皇子の頭を捧げて軍営の前に奉った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月乙卯条】
  • 天武天皇12年8月5日

    卒去。
    壬申年の功により大錦中の位を追贈される。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年八月庚申条】