置始菟

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名前
  • 氏(ウジ):置始【日本書紀】(お
  • 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
  • 名:菟【日本書紀】(うさぎ)
生年月日
( ~ 天武天皇元年7月2日)
没年月日
(天武天皇元年7月9日 ~ )
出来事
  • 天武天皇元年7月2日

    大海人皇子の命令で紀阿閉麻呂多品治三輪子首と共に数万の軍勢を率いて伊勢の大山を越えて(やまと)に向う。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛卯条】
  • 天武天皇元年7月4日

    敗走中の将軍大伴吹負墨坂(すみさか)で遭遇する。
    将軍はさらに退き、金綱井(かなづなのい)に駐屯して散り散りになった兵を集めた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】
  • (天武天皇元年7月7日 ~ )

    近江軍が大坂道からやって来ると聞き、将軍は軍を引いて西に向った。

    当麻に至り、壱伎韓国の軍と葦池(あしいけ)の側で戦った。
    時に勇士来目という者があり、刀を抜いて真っ直ぐに軍の中に突入した。騎士がこれに続いて進んだ。
    近江軍は悉く逃走した。追撃して多くを斬った。
    将軍は軍中に命じて「兵を興した本意は人民を殺す為ではない。元凶を討つ為である。妄りに殺してはならない」と。

    韓国は一人で軍を離れて逃げた。
    将軍は遥かにそれを見て来目に射させた。
    しかし命中せず、遂に逃げおおせた。

    将軍が本営に帰還すると、東国軍が続々と到着した。
    そこで軍を分け、上中下の道大和三道。奈良盆地を南北に貫く三つの道。に当てて駐屯させた。
    将軍吹負は自ら中道に当った。

    三輪高市麻呂・置始菟は上道に当り、箸陵(はしのはか)で戦って近江軍を大いに破った。
    勝ちに乗じて廬井鯨の軍中道で大伴吹負と会戦し敗走。の後続を立った。
    の軍は散り散りに逃げ、多くの兵士を殺した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】
  • 天武天皇元年7月9日

    倭京(やまとのみやこ)の将軍大伴吹負敗走を知った東道将軍紀阿閉麻呂らの命令で、千余騎を率いて倭京に急行する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月戊戌条】