高市皇子

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名前
  • 高市皇子【日本書紀】(た
  • 高市皇子命【日本書紀】(た
  • 高市王【新撰姓氏録抄】(た
キーワード
  • 後裔は左京高階真人(たかしなのまひと)・右京豊野真人(とよののまひと)・左京永原朝臣(ながはらのあそみ)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
  • 後皇子尊(のちのみこのみこと)【日本書紀 巻第三十 持統天皇十年七月庚戌条】
性別
男性
生年月日
( ~ 天武天皇元年6月25日)
没年月日
持統天皇10年7月10日
  • 天武天皇てんむてんのう【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 尼子娘あまこのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
先祖
  1. 天武天皇
    1. 舒明天皇
      1. 押坂彦人大兄皇子
      2. 糠手姫皇女
    2. 皇極天皇
      1. 茅渟王
      2. 吉備姫王
  2. 尼子娘
    1. 胸形徳善
配偶者
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 浄広弐じょうこうに【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年正月丁卯条】
  • 太政大臣だじょうだいじん【日本書紀 巻第三十 持統天皇四年七月庚辰条】
  • 浄広壱じょうこういち【日本書紀 巻第三十 持統天皇七年正月壬辰条】
出来事
  • 天武天皇元年6月25日

    吉野で決起した大海人皇子の召集に応じ、鹿深(かふか)甲賀。を越えて積殖(つむえ)の山口で合流する。

    この時に高市皇子に従っていたのは民直大火赤染造徳足大蔵直広隅坂上直国麻呂古市黒麻呂竹田大徳胆香瓦臣安倍

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月甲申条】
  • 天武天皇元年6月26日

    不破の軍事を監督するよう命じられる。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丙戌条】
  • 天武天皇元年6月(26日 ~ 27日)

    高市皇子は使いを桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)に遣わして言うには「御所から遠くては政を行うには甚だ不便です。近い所においで頂きたい」と。

    その日、天皇皇后を留めて不破に入った。

    野上(のがみ)に至り、高市皇子が和蹔(わざみ)より迎えて言うには「昨夜、近江朝から駅使が参りました。伏兵を用いて捕えてみると書直薬忍坂直大麻呂でした。何処へ行くかを問うと、答えて『吉野においでの大皇弟を討つ為、東国の軍を集めに遣わされた韋那公磐鍬の仲間です。しかし磐鍬は伏兵を見て逃げ帰りました』と言いました」と。

    天皇が高市皇子に言うには「その近江朝ではの大臣と智謀に富む群臣が協議するが、朕には共に計画を立てる者はいない。ただ若い子供がいるだけである。どうしたものか」と。
    皇子は腕をまくり、剣を按じて言うには「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊威に逆らえましょうか。天皇が独りでいらっしゃっても、臣高市が神祇の霊威を頼り、天皇の命を受け、諸将を率いて征討すれば防ぐことは出来ません」と。
    天皇は誉めて、手を取り背を撫でて「決して怠るなよ」と言った。
    そして鞍馬を賜り、全ての軍事を授けた。
    皇子は和蹔に帰った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丁亥条】
  • 天武天皇元年6月29日

    天皇は和蹔に行き、高市皇子に命じて軍衆に号令させた。
    天皇はまた野上に帰還した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月己丑条】
  • 天武天皇元年7月23日

    大友皇子が自縊する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】
  • 天武天皇元年8月25日

    大海人皇子の命令を受け、近江の群臣の犯状を宣告した。
    重罪の八人は極刑にした。
    右大臣中臣連金浅井(あさい)校異:田根(たね)で斬った。

    この日、左大臣蘇我臣赤兄大納言巨勢臣比等及びその子孫・中臣連金の子・蘇我臣果安の子は全て流罪とした。
    これ以外は全て赦した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年八月甲申条】
  • 天武天皇8年5月6日

    天皇皇后及び草壁皇子尊大津皇子・高市皇子・河島皇子忍壁皇子芝基皇子に詔して「朕は今日お前たちと共に朝廷で誓い、千年の後まで無事であって欲しいと思うがどうか」と。
    皇子たちは共に「ごもっともでございます」と答えた。

    そして草壁皇子尊が先ず進んで誓った。

    五皇子も次々に誓った。

    その後に天皇が言うには「朕の男子たちはそれぞれ異なる腹から生まれている。しかし皆同じ母から産まれているかのようで愛おしい」と。
    そして衣の襟を開いてその六皇子を抱いた。
    そして誓って言うには「もしこの誓いを違えれば、たちまち朕の身は亡ぶであろう」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年五月乙酉条】
  • 天武天皇8年5月10日

    六皇子が共に大殿の前で天皇に拝礼する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年五月己丑条】
  • 天武天皇9年7月20日

    大津皇子と共に、飛鳥寺の僧弘聴を弔う。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年七月癸巳条】
  • 天武天皇11年7月9日

    草壁皇子と共に、病の膳摩漏を見舞う。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年七月庚子条】
  • 天武天皇14年1月21日

    浄広弐を授位される。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年正月丁卯条】
  • 朱鳥元年1月2日

    天武天皇が大極殿で諸王卿に宴を賜った。
    この日、詔して「朕は王卿に無端事(あとなしこと)なぞなぞ。を問う。正しく答えれば必ず何かを賜ろう」と。

    高市皇子は正しく答えた。蓁摺(はりすり)の御衣三具・錦の袴二具・絁二十匹・糸五十斤・綿百斤・布百端を賜った。
    伊勢王もまた正しく答えた。(くりそめ)の御衣三具・紫の袴二具・絁七匹・糸二十斤・綿四十斤・布四十端を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月癸卯条】
  • 朱鳥元年8月13日

    食封四百戸を加えられる。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年八月辛巳条】
  • 朱鳥元年9月9日

    天武天皇が崩御する。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年九月丙午条】
  • 持統天皇4年7月5日

    太政大臣となる。

    【日本書紀 巻第三十 持統天皇四年七月庚辰条】
  • 持統天皇4年10月29日

    公卿・百寮を従えて藤原の宮地を視察する。

    【日本書紀 巻第三十 持統天皇四年十月壬申条】
  • 持統天皇5年1月13日

    食封二千戸を加増され、以前の分と合わせて三千戸となる。

    【日本書紀 巻第三十 持統天皇五年正月乙酉条】
  • 持統天皇6年1月4日

    食封二千戸を加増され、以前の分と合わせて五千戸となる。

    【日本書紀 巻第三十 持統天皇六年正月庚午条】
  • 持統天皇7年1月2日

    浄広壱を授位される。

    【日本書紀 巻第三十 持統天皇七年正月壬辰条】
  • 持統天皇10年7月10日

    薨御。

    【日本書紀 巻第三十 持統天皇十年七月庚戌条】