このページは作成途上です
- 名前
- 氏(ウジ):朴市秦【日本書紀】(えちのはた)
- 氏(ウジ):朴市【日本書紀】(えち)
- 氏(ウジ):秦【日本書紀】(はた)
- 姓(カバネ):造【日本書紀】(みやつこ)
- 名:田來津【日本書紀】(たくつ)田来津
- 生年月日
- ( ~ 大化元年9月3日)
- 没年月日
- 天智天皇2年8月28日
- 称号・栄典
小山下 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年九月条】
- 出来事
-
大化元年9月3日
-
大化元年9月12日
-
斉明天皇7年9月
-
斉明天皇7年8月
-
-
天智天皇元年12月1日
百済王豊璋、その臣佐平福信ら、狭井連・朴市田来津が議って「この
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年十二月丙戌朔条】州柔 は、遠く田畝を隔てて土地は痩せている。農桑する地ではない。これは戦う場である。ここに長くいれば民は飢えてしまう。避城 に遷るのが良い。避城は西北に古連旦涇 の水が流れ、東南は深泥巨堰 に防がれ、周囲に田があり、溝を作って雨を降らす。華も実も三韓の上物である。衣食の源は天地の隠所にある。低地と雖も遷るべきである」と。
ここで朴市田来津が一人進み出て諫めて言うには「避城と敵の所在の間は一夜で行けるのでとても近いです。もし不意の攻撃を受ければ後悔します。飢えは後のことで、亡びるのが先です。今敵が妄りに来ないわけは、州柔は山高く谷狭く、守り易く攻め難いからである。もし低地にいれば、どうして固く動かずに今日に至れましょうか」と。
遂に諫めは聞かず、避城を都とした。 -
天智天皇2年2月2日
新羅人が百済の南の畔の四州を焼き、安徳などの要地を取った。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年二月丙戌条】
避城は賊に近いので居座ることが出来なかった。それで州柔に遷居した。
田来津が言ったようになった。 -
天智天皇2年8月17日
賊将が州柔に至り、その王城を囲んだ。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月戊戌条】
大唐の軍将は戦船百七十艘を率いて白村江 に布陣した。 -
天智天皇2年8月27日
日本水軍の先発と大唐水軍が合戦した。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月戊申条】
日本が不利となり退いた。大唐は陣を堅守した。 -
天智天皇2年8月28日
日本の諸将と百済王は状況を見極めずに相談して「我らが先を争えば、敵は自ずと退くであろう」と言った。
さらに日本の隊伍の乱れた中軍の兵士を率いて進軍し、大唐の堅陣の軍を攻撃した。
大唐は左右から船で挟んで戦った。
またたく間に官軍は敗れ、水に溺れて死ぬ者が多かった。船を旋回することすら出来なかった。朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばりながら数十人を殺したが、遂に戦死した。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月己酉条】
-