- 名前
- 鬼室福信【日本書紀】(きしつふくしん, くゐしつふくしん)鬼室福信
- 生年月日
- ( ~ 660年10月14日)
- 没年月日
- 663年(7月11日 ~ 8月8日)
- 称号・栄典
- 出来事
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660年10月14日
百済が達率・沙弥覚従らを遣わして奏上して「今年の七月に新羅が力に恃んで勢いを作り、隣国と親しまずに唐人を引き合わせて百済を転覆しようとしました。君臣は皆俘虜となり、残る者はほとんどおりません」と。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年九月癸卯条】西部 恩率鬼室福信は激しく発憤して任射岐 の山に拠った。
達率余自進は中部の久麻怒利 の城に拠った。
それぞれ一所に陣取って離散した兵を誘い集めた。武器は前の戦いで尽きたので棓 を使って戦った。新羅の軍は破れ、百済はその武器を奪った。
百済兵は戻って鋭く戦った。唐は敢えて入らなかった。
福信らは遂に同国人を集めて王城を守りきった。
国人は尊んで佐平福信・佐平自進と呼び、「福信は神武の権 を起し、既に亡んだ国を興した」と言った。 -
660年(11月8日 ~ 12月7日)
百済の佐平鬼室福信が佐平貴智らを遣わして唐の俘虜百余人を献上した。今の美濃国の
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】不破 ・片県 の二郡の唐人らである。
また援軍を乞うて救いを求めてきた。併せて王子余豊障を乞うて言うには「唐人は害虫のような賊を率いて国境を犯し、我が社稷を覆し、我が君臣を俘虜としました。百済国は天皇への護念を頼りに人々を集めて国を成しました。いま謹んでお願い申し上げます。百済国から天朝に遣わした王子豊璋を国主として迎えたいと思います」云々と。
詔して「援軍を乞うて救いを求めることは古昔にも聞く。危きを助け絶えたるを継ぐことは当然である。百済国が窮して我に頼ったのは、本の国が亡び乱れ、依る所も無く、告げる所も無いからである。戈を枕にして胆を嘗めても、必ず救いがあると遠くから来て思いを表したのだ。その志を奪うことは出来ない。将軍にそれぞれ命じ、百の道から共に進むべきである。雲のように集まり、雷のように動け。共に沙喙 に集まれば、その仇を斬り、その迫る苦しみを和らげることが出来る。有司は充分に備えを与え、礼を以って送り遣わすように」云々と。-
(661年2月5日 ~ 662年1月24日)
辛酉年に百済の佐平福信が唐の俘虜百六人を献上した。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十月乙酉条 或本云】
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661年(5月4日 ~ 6月2日)
百済の福信が使いを遣わして上表した。その王子の糺解を迎えたいと乞うた。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年四月条】-
百済の福信が書を献じて、その君糺解のことを
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年四月条 釈道顕日本世記曰】東朝 に申し上げた。
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(661年9月29日 ~ )
帰国した豊璋を迎え、稽首して国政を全て委ねた。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年九月条】 -
662年2月20日
中大兄から矢十万隻・糸五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稲種三千斛を賜る。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年正月丁巳条】 -
662年(5月23日 ~ 6月21日)
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663年1月15日
百済王豊璋、その臣佐平福信ら、狭井連・朴市田来津が議って「この
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年十二月丙戌朔条】州柔 は、遠く田畝を隔てて土地は痩せている。農桑する地ではない。これは戦う場である。ここに長くいれば民は飢えてしまう。避城 に遷るのが良い。避城は西北に古連旦涇 の水が流れ、東南は深泥巨堰 に防がれ、周囲に田があり、溝を作って雨を降らす。華も実も三韓の上物である。衣食の源は天地の隠所にある。低地と雖も遷るべきである」と。
ここで朴市田来津が一人進み出て諫めて言うには「避城と敵の所在の間は一夜で行けるのでとても近いです。もし不意の攻撃を受ければ後悔します。飢えは後のことで、亡びるのが先です。今敵が妄りに来ないわけは、州柔は山高く谷狭く、守り易く攻め難いからである。もし低地にいれば、どうして固く動かずに今日に至れましょうか」と。
遂に諫めは聞かず、避城を都とした。 -
新羅人が百済の南の畔の四州を焼き、安徳などの要地を取った。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年二月丙戌条】
避城は賊に近いので居座ることが出来なかった。それで州柔に遷居した。
田来津が言ったようになった。 -
663年(3月15日 ~ 4月12日)
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(661年2月5日 ~ 662年1月24日)
辛酉年、百済の佐平福信が唐の俘虜百六人を献上した。
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇七年十一月戊戌条 或本云】
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663年(7月11日 ~ 8月8日)
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