阿曇比羅夫 名前 氏(ウジ):阿曇【日本書紀】(あずみ, あづみ) 氏(ウジ):阿曇山背【日本書紀】(あずみのやましろ, あづみのやましろ) 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連 名:比羅夫【日本書紀】(ひらふ) 名:比良夫【日本書紀】(ひらふ) 名:比邏夫【日本書紀】(ひらふ) 生年月日( ~ 皇極天皇元年1月29日) 没年月日(天智天皇元年5月1日 ~ ) 称号・栄典とても広〜い意味です。大仁(だいにん)【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月乙酉条】大花下(だいけげ)【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年八月条】大錦中(だいきんちゅう)【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年五月条】 出来事 皇極天皇元年1月29日 百済に遣わした大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から早馬に乗って来て言うには「百済国は天皇崩御を聞いて、弔使を遣わしました。私は弔使に従って共に筑紫に来ましたが、葬礼にお仕えする為に先に一人で参りました。しかもあの国はいま大いに乱れています」と。 【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月乙酉条】 皇極天皇元年2月2日 皇極天皇の命令で草壁吉士磐金・倭漢書直県と共に百済の弔使を尋ねる。 【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月戊子条】 皇極天皇元年2月24日 自宅に翹岐を住まわせる。 【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月庚戌条】 斉明天皇7年8月 百済救援軍の将として百済に渡る。 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年八月条】 天智天皇元年5月 船軍百七十艘を率いて豊璋らを百済国に送る。 【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年五月条】