名前
  • 翹岐【日本書紀】(ぎょうき, げうき)
生年月日
( ~ 642年3月8日)
没年月日
(643年5月14日 ~ )
出来事
  • 642年3月8日

    皇極天皇阿曇山背連比良夫草壁吉士磐金倭漢書直県を百済の弔使の所へ遣わして消息を尋ねた。
    弔使は返答して「百済国主は私に『塞上はいつも悪さを働くので、還使に付けて返して頂くようにお願いしても朝廷はお許しにならないであろう』と言いました」と。
    百済の弔使の従者らが言うには「去年の十一月に大佐平智積が卒去しました。また百済の使人が崑崙(こんろん)の使いを海に投げ入れました。今年の正月には国主の母が薨じました。また弟王子の子の翹岐原文「又弟王子児翹岐」とあり、弟王子とその子の翹岐か。或いは義慈王の弟の子か。或いは弟王子・(義慈王の)子の翹岐か(弟よりも子を先に記述するのが自然か)。或いは義慈王の弟で、薨じた母の子、つまり義慈王の同母弟、、というのは回りくどくておかしいか。。、及びその同母妹の女子四人、内佐平岐味、高名な人四十余りは島に追放されました」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月戊子条】
  • 642年3月30日

    安曇山背連の家に住む。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月庚戌条】
  • 642年5月12日

    従者を率いて皇極天皇に拝謁する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月癸巳条】
  • 642年5月14日

    蘇我大臣畝傍(うねび)の家に百済の翹岐らを招いて親しく話をした。
    そして良馬一匹・鉄二十鋌を賜った。
    ただし塞上は招かなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月乙未条】
  • 642年6月7日

    河内国の依網屯倉(よさみのみやけ)の前で射猟を見物する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月己未条】
  • 642年6月23日

    従者の一人が死去する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月乙亥条】
  • 642年6月24日

    翹岐の子が死去する。
    翹岐と妻は子の死を畏れ忌み、決して喪には臨まなかった。
    百済・新羅の風俗では、死亡する者があれば父母・兄弟・夫婦・姉妹と雖も自ら見ようとはしない。
    これを以って見れば慈しみが無いこと甚だしく、禽獣と変わらない。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月丙子条】
  • 642年6月26日

    妻子を率いて百済の大井の家に移った。
    人を遣わして子を石川に葬った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年五月戊寅条】
  • 642年8月22日

    皇極天皇は百済の使人大佐平智積らに朝廷で饗応した。
    力士に命じて翹岐の前で相撲を取らせた。
    智積らは宴会が終ると退出して翹岐の門前で拝礼した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月乙亥条】
  • 643年5月14日

    筑紫の大宰が早馬を使って「百済国主の子翹岐弟王子が、調の使いと共に来ています」と奏上する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年四月庚子条】