義慈王

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名前
  • 義慈王(ぎじおう)
  • 義慈【日本書紀】(ぎじ)
キーワード
  • 後裔は右京百済王(くだらのこにきし)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
生年月日
( ~ 660年12月8日)
没年月日
(660年12月8日 ~ )
配偶者
  • 恩古おんこ【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】
  • 扶余隆ふよりゅう【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】【母:不明】
出来事
  • ・・・
    • 631年4月7日

      舒明天皇に王子豊章を人質として奉る。

      【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇三年三月庚申朔条】
  • ・・・
    • 642年3月8日

      皇極天皇阿曇山背連比良夫草壁吉士磐金倭漢書直県を百済の弔使の所へ遣わして消息を尋ねた。
      弔使は返答して「百済国主は私に『塞上はいつも悪さを働くので、還使に付けて返して頂くようにお願いしても朝廷はお許しにならないであろう』と言いました」と。
      百済の弔使の従者らが言うには「去年の十一月に大佐平智積が卒去しました。また百済の使人が崑崙(こんろん)の使いを海に投げ入れました。今年の正月には国主の母が薨じました。また弟王子の子の翹岐原文「又弟王子児翹岐」とあり、弟王子とその子の翹岐か。或いは義慈王の弟の子か。或いは弟王子・(義慈王の)子の翹岐か(弟よりも子を先に記述するのが自然か)。或いは義慈王の弟で、薨じた母の子、つまり義慈王の同母弟、、というのは回りくどくておかしいか。。、及びその同母妹の女子四人、内佐平岐味、高名な人四十余りは島に追放されました」と。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月戊子条】
  • ・・・
    • 660年(8月12日 ~ 9月9日)

      庚申年七月に至り、百済が使いを遣わし奏上して「大唐と新羅が力を合せて我が国を攻めました。既に義慈王・王后・太子は捕虜となって連れ去られました。これにより国では兵を使って西北の畔に陣取り、城柵を繕って山川を断ち塞ごうとしております」と。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇四年是歳条 或本云 第一】
    • 660年8月24日

      百済王義慈、その妻の恩古、その子のら、その臣佐平千福国弁成孫登ら五十余人は、秋七月十三日に蘇将軍に捉えられて唐国に送られた。
      故無く武器を持ち歩いたのはこの兆しだったか同年五月是月条に見える。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】
  • ・・・
    • 660年(9月10日 ~ 10月9日)

      百済が滅ぶ。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 伊吉連博徳書云】
  • 660年12月8日

    将軍蘇定方らに捉えられた百済王以下、太子ら諸王子十三人、大佐平沙宅千福国弁成以下三十七人、合せて五十人ばかりを朝堂に奉る為、にわかに引き連れて天子の所に赴いた。天子の恩勅により目の前で釈放された。

    【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年七月乙卯条 伊吉連博徳書云】