豊章

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名前
  • 豐章【日本書紀】(ほうしょう, ほうしゃう)豊章
  • 餘豐【日本書紀】(よほう)余豊
  • 扶余豊璋(ふよほうしょう)
  • 百濟君【日本書紀】(くだら)百済君
  • 百濟君豐璋【日本書紀】(くだらのきみほうしょう, くだらほうしゃう)百済君豊璋
  • 余豐障【日本書紀】(よほうしょう, よほうしゃう)余豊障
  • 余豐璋校異【日本書紀】(よほうしょう, よほうしゃう)余豊璋
  • 豐璋【日本書紀】(ほうしょう, ほうしゃう)豊璋
  • 糺解【日本書紀】(くげ)
性別
男性
生年月日
( ~ 631年4月7日)
没年月日
(663年10月13日 ~ )
配偶者
  • (多蒋敷妹)【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年九月条】
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 織冠【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年九月条】
出来事
  • 631年4月7日

    百済王義慈が王子豊章を人質として奉る。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇三年三月庚申朔条】
  • (643年1月26日 ~ 644年2月12日)

    密蜂の巣四枚を以って三輪山に放し飼いにしたが、遂に繁殖しなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年是歳条】
  • 650年3月16日

    白雉が献上されたことを孝徳天皇に尋ねられ、答えて「後漢明帝永平十一年に、白雉がいたる所に見えたと申します」と云々。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年二月戊寅条】
  • 650年3月22日

    白雉改元の儀式に参列する。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年二月甲申条】
  • 661年(9月29日 ~ 10月28日)

    皇太子は長津宮で、織冠を百済王子豊璋に授けた。また多臣蒋敷の妹を妻合わせた。
    大山下狭井連檳榔小山下秦造田来津を遣わして、軍兵五千余りを率いて本郷を守らせる為に送った。
    豊璋が入国する時に福信が迎えに来て、稽首頭を地につける礼。して国政を全て委ねた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇即位前紀 斉明天皇七年九月条】
    • 660年(11月8日 ~ 12月7日)

      斉明天皇は王子豊璋及び妻子とその叔父忠勝らを送った。まさに出発の時のことは七年に見える。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】
    • 斉明天皇は豊璋を立てて王とし、塞上に輔佐させ、礼を以って遣わした。

      【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条 或本云】
  • 662年3月28日

    中大兄から布三百端を賜る。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年三月癸巳条】
  • 662年(5月23日 ~ 6月21日)

    大将軍大錦中阿曇比邏夫連らが船軍を百七十艘を率いて豊璋らを百済国に送った。

    勅宣して、豊璋らにその位を継がせた。
    また金策(こがねのふみた)金泥で書いた冊書。福信に与え、その背を撫で、褒めて爵禄を賜った。
    豊璋らと福信は稽首して勅を受けた。衆人は涙を流した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年五月条】
  • 663年1月15日

    百済王豊璋、その臣佐平福信ら、狭井連「闕名」とある。朴市田来津が議って「この州柔(つぬ)は、遠く田畝を隔てて土地は痩せている。農桑する地ではない。これは戦う場である。ここに長くいれば民は飢えてしまう。避城(へさし)に遷るのが良い。避城は西北に古連旦涇(これんたんけい)新坪川。の水が流れ、東南は深泥巨堰(しんでいこえん)に防がれ、周囲に田があり、溝を作って雨を降らす。華も実も三韓の上物である。衣食の源は天地の隠所にある。低地と雖も遷るべきである」と。
    ここで朴市田来津が一人進み出て諫めて言うには「避城と敵の所在の間は一夜で行けるのでとても近いです。もし不意の攻撃を受ければ後悔します。飢えは後のことで、亡びるのが先です。今敵が妄りに来ないわけは、州柔は山高く谷狭く、守り易く攻め難いからである。もし低地にいれば、どうして固く動かずに今日に至れましょうか」と。
    遂に諫めは聞かず、避城を都とした。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇元年十二月丙戌朔条】
  • 663年3月16日

    新羅人が百済の南の畔の四州を焼き、安徳などの要地を取った。
    避城は賊に近いので居座ることが出来なかった。それで州柔に遷居した。
    田来津が言ったようになった。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年二月丙戌条】
  • 663年6月11日

    犬上君「闕名」とある。が馳せて兵事を高麗に告げて帰還した。
    このとき糺解と石城で出会った。糺解は福信に罪があることを語った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年五月癸丑朔条】
  • 663年(7月11日 ~ 8月8日)

    百済王豊璋は福信に謀反の心ありと疑い、掌を穿って革で縛った。
    しかし自ら決すること難しく、為す術を知らなかった。
    そこで諸臣に「福信の罪はこのようであるが、斬るべきか否か」と問うた。すると達率徳執得が「この逆賊を許してはなりません」と言った。
    福信執得に唾して「腐れ狗の馬鹿者め原文「腐狗癡奴」」と言った。
    王は兵士に斬らせて首を酢漬けにした。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年六月条】
  • 663年9月20日

    新羅は百済王が己の良将を斬ったことを知り、ただちに入国して先ず州柔を取ろうと謀った。

    百済は賊の計画を知り、諸将に言うには「大日本国の救将廬原君臣が兵士一万余を率いて海を越えてやってくる。将軍たちはそのつもりでいるように。私は自ら白村(はくすき)に行って待とうと思う」と。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月甲午条】
  • 663年9月24日

    賊将が州柔に至り、その王城を囲んだ。
    大唐の軍将は戦船百七十艘を率いて白村江(はくすきのえ)に布陣した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月戊戌条】
  • 663年10月4日

    日本水軍の先発と大唐水軍が合戦した。
    日本が不利となり退いた。大唐は陣を堅守した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月戊申条】
  • 663年10月5日

    日本の諸将と百済王は状況を見極めずに相談して「我らが先を争えば、敵は自ずと退くであろう」と言った。
    さらに日本の隊伍の乱れた中軍の兵士を率いて進軍し、大唐の堅陣の軍を攻撃した。
    大唐は左右から船で挟んで戦った。
    またたく間に官軍は敗れ、水に溺れて死ぬ者が多かった。船を旋回することすら出来なかった。

    朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばりながら数十人を殺したが、遂に戦死した。

    この時、百済王豊璋は数人と船に乗って高麗に逃走した。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年八月己酉条】
  • 663年10月13日

    百済の州柔城が唐に降伏した。
    この時に国人が相談して「州柔は降伏した。これではどうすることも出来ない。百済の名は今日で絶える。丘墓に行くことも出来ない。弖礼城に行って日本の軍将たちに会い、要点を相談しよう」と。
    遂に枕服岐城(しんぶくぎさし)にいた妻子らに教えて、国を去る心を知らせた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年九月丁巳条】
関連
  • 弟:塞上さいじょう【日本書紀 巻第二十五 白雉元年二月甲申条】
  • 弟または叔父白雉元年二月甲申条では弟。斉明天皇六年十月条では叔父。:忠勝ちゅうしょう【日本書紀 巻第二十五 白雉元年二月甲申条, 日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年十月条】