孝徳天皇

名前
  • 漢風諡号:孝德天皇(こうとくてんのう, かうとくてんわう)孝徳天皇
  • 和風諡号:天萬豐日天皇【日本書紀】(あめよろずとよひのすめらみこと, あ)天万豊日天皇
  • 難波長柄豐碕宮御宇天皇【上宮聖徳法王帝説】(なにわのながらのとよさきのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, なにはのながらやにあしたしししす)難波長柄豊碕宮御宇天皇
  • 輕皇子【日本書紀】(かる)軽皇子
性別
男性
生年月日
( ~ 皇極天皇元年12月13日)
没年月日
白雉5年10月10日
  • 茅渟王ちぬのおおきみ【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀, 日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
  • 吉備姫王きびつひめのおおきみ【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀, 日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
先祖
  1. 茅渟王
    1. 押坂彦人大兄皇子
      1. 敏達天皇
      2. 広姫
    2. 大俣王
  2. 吉備姫王
    1. 桜井皇子
      1. 欽明天皇
      2. 堅塩媛
    2. unknown
配偶者
  • 皇后:間人皇女はしひとのひめみこ【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月戊辰条】
  • 妃:小足媛おたらしひめ【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月戊辰条】
  • 妃:乳娘ちのいらつめ【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月戊辰条】
  • 有間皇子ありまのみこ【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月戊辰条】【母:小足媛おたらしひめ
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 第36代天皇てんのう【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月庚戌条】
出来事
  • 茅渟王の子として生まれる。母は吉備姫王
    天豊財重日足姫天皇皇極天皇。重祚して斉明天皇。の同母弟である。

    仏法を尊び神道を軽んじた「生国魂社(いくくにたまのやしろ)の木を斬ったりした」とある。。人となりは柔仁で儒を好んだ。貴賤を選ばず、しきりに恩勅を降した。

    【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀, 日本書紀 巻第二十四 皇極天皇即位前紀】
  • 皇極天皇元年12月13日

    皇極天皇舒明天皇の喪を発した際に、軽皇子の代りに粟田臣細目(しのびごと)する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲午条】
  • 時に軽皇子は脚を患って参朝しなかった。
    中臣鎌子連は以前から軽皇子と親しかった。
    それで宮に詣でて宿侍しようとした。
    軽皇子は中臣鎌子連の意気が高く優れて容姿に犯し難いことを深く知り、寵妃阿倍氏を使って別殿を掃き清めさせ、新しい寝床を高く敷いて細々と世話させた。敬重さは特異だった。

    中臣鎌子連は待遇に感激して舎人「舎人を使い走りにしていた」とある。に言うには「特別な恩沢を賜ることは思ってもいなかった。天下の王となるのを阻む者はいない」と。
    舎人はこの話を皇子に報告した。皇子は大変喜んだ。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
  • 皇極天皇4年6月12日

    蘇我入鹿が殺害される。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
  • 皇極天皇4年6月13日

    蘇我蝦夷が自害する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
  • 皇極天皇4年6月14日

    天豊財重日足姫天皇は位を中大兄に伝えようと思い、詔して云々。
    中大兄は退いて中臣鎌子連に語った。
    中臣鎌子連が言うには「古人大兄は殿下の兄君です。軽皇子は殿下の(おじ)君です。古人大兄がおいでになる今、殿下が天皇の位をお嗣ぎになれば、人の弟として遜恭の心に背いてしまいます。しばらくは舅上をお立てになり、民の望みにお答えになれば良いではございませんか」と。
    そこで中大兄は深くその言葉を誉め、密かに奏上した。

    天豊財重日足姫天皇は璽綬を授けて禅位して「ああ、なんじ軽皇子よ」と言って云々。

    軽皇子は再三固辞し、いよいよ古人大兄、またの名は古人大市皇子に譲って言うには「大兄命天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理を以って天位におつきになるべきです」と。

    古人大兄は座を退いて拱手して胸の前で両手を重ねて敬礼。言うには「天皇の思し召しに従います。どうして無理して私に譲ることがありましょうか。私は出家して吉野に入りたいと思います。仏道を勤め修めて天皇の幸せをお祈りします」と。
    言い終わると佩刀を解いて地面に投げ打った。また帳内(とねり)に命じて刀を解かせた。
    そして法興寺の仏殿と塔の間に詣でると、髯・髪を剃って袈裟を着た。

    これにより軽皇子は固辞することが出来なくなり、(たかみくら)に上って即位した。

    大伴長徳連「字は馬飼」とある。は金の(ゆき)を帯びて壇の右に立った。犬上建部君は金の靭を帯びて壇の左に立った。百官の(おみ)(むらじ)国造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものお)は連なり重なって拝礼した。

    この日、豊財天皇に号を奉って皇祖母尊とする。
    中大兄を皇太子とする。
    阿倍内摩呂臣左大臣蘇我倉山田石川麻呂臣右大臣とする。

    大錦冠本来は大化三年に制定された冠位とする。中臣鎌子連に授けて内臣とする。封を若干増やして云々。
    中臣鎌子連は至忠の誠を懐き、宰臣として官司の上にあった。
    その進退・廃置の計は従われ、事立つと云々。

    沙門(のりのし)旻法師高向史玄理国博士とする。

    【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月庚戌条】
  • 皇極天皇4年6月15日

    阿倍倉梯麻呂大臣蘇我山田石川麻呂大臣金策(こがねのふみた)金泥で書いた冊書。を賜る。

    【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月辛亥条】
    • 練金(こなかね)を賜る。

      【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月辛亥条 或本云】
  • 皇極天皇4年6月19日

    天皇・皇祖母尊皇太子は大槻の木の下に群臣を召集して誓わせた。
    天神地祇に告げて「天は覆い地は載せ、帝道は唯一であります。しかし末代は澆薄で君臣の秩序は失われています。皇天は我が手を借りて暴逆を誅されました。今共に心血を注ぎ、今後は君は二つの政は無く、臣は朝廷に二心は懐きません。もしこの誓いに背けば天地は災いして神罰は人を殺すでしょう。それは日月のようにはっきりしています」と。

    天豊財重日足姫天皇四年を改めて大化元年とする。

    【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月乙卯条】
  • 大化元年7月2日

    息長足日広額天皇の女間人皇女を立てて皇后とする。

    二妃を立てた。
    はじめの妃は阿倍倉梯麻呂大臣の女で小足媛という。有間皇子を生んだ。
    次の妃は蘇我山田石川麻呂大臣の女で乳娘という。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月戊辰条】
  • 大化元年7月10日

    高麗・百済・新羅が使いを遣わして調(みつき)を献上した。百済の調の使いは任那の調の使いを兼領して任那の調を献上した。
    ただ百済の大使佐平縁福は病にかかり、津の館に留まって(みやこ)に入らなかった。
    巨勢徳太臣は高麗の使いに詔を伝えて「明神御宇日本天皇(あきつかみとあめのしたしろしめすやまとのすめらみこと)明神と天下を治める日本の天皇。の詔旨である。天皇が遣わす使いと高麗の神の子が遣わす使いは過去の往来こそ短くても将来は長いであろう。温和な心をもって相互に往来したい」と。
    また百済の使いに詔して「明神御宇日本天皇の詔旨である。我が遠い皇祖の御世に百済国を内官家(うちつみやけ)となさったことは、例えば三絞(みせ)の綱のようである。中頃、任那国を百済に属させた。後に三輪栗隈君東人を遣わして任那の国境を視察させた。百済王は勅に従って全てその境を示したが、調は欠けるところがあった。それでその調を返却した。任那の奉った物は天皇が御覧になるところである。今後は詳しく国と出すところの調を記すように。汝佐平らは変らず来朝せよ。速やかに全て明かに報告せよ。いま重ねて三輪君東人馬飼造(うまかいのみやつこ)「闕名」とある。を遣わす」と。
    また勅して「鬼部達率意斯の妻子らを送り遣わすように」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月丙子条】
  • 大化元年7月12日

    阿倍倉梯万侶大臣蘇我石川万侶大臣に詔して「まさに上古聖王の跡に従って天下を治めよう。またまさに(まこと)をもって天下を治めよう」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月戊寅条】
  • 大化元年7月13日

    阿倍倉梯麻呂大臣蘇我石川万侶大臣に詔して「大夫と多くの伴造らに、民が喜びをもって使われる方法を問うように」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月己卯条】
  • 大化元年7月14日

    蘇我石川麻呂大臣が奏上して「まず神祗を祭り鎮め、然る後に政事を議りましょう」と。

    この日、倭漢直比羅夫を尾張国、忌部首子麻呂を美濃国に遣わして、神に供える(まいない)を課した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月庚辰条】
  • 大化元年8月5日

    東国の国司を召した。そして国司に詔して「天神の教えに従い、まさに今はじめて万国を治めようと思う。国家の所有する公民や、大小の土地を領する人々について、お前たちは任地に赴いて戸籍を作り、田畑の大きさを調べよ。その園池や水陸の利益は百姓と共にせよ。また国司はその国に在っても罪を判ずることは出来ない。他人から賄賂を取って民を苦しめてはならない。上京する時は多くの民を従えてはならない。国造郡領(こおりのみやつこ)のみを従わせるように。ただし公事による往来の時には部内の馬に乗ることが出来て、部内の飯を食することが出来る。(すけ)以上の者が法に良く従えば必ず褒賞を与えよ。法に背けば爵位を降格させよ。判官以下の者が他人から賄賂を取れば二倍にして徴収する。軽重によって罪を科す。その長官は従者九人、次官は従者七人、主典の従者は五人、もし限度を超える者がいれば主従共に罪を科す。もし名を求める人があって、元の国造伴造(とものみやつこ)県稲置(こおりのいなき)ではないのに、詐って『我が先祖の時から。領この官家(みやけ)を預かり、この郡県(こおり)を治めていました』と訴えるのを、お前たち国司は詐りに随って容易く朝廷に報告してはならない。詳しく実状を調べた後に報告せよ。また空き地に兵庫を造って国郡の(たち)(よろい)・弓・矢を集めて収め、辺境で蝦夷と国境を接する所は武器を数え集めて元の持主に預けよ。倭国(やまとのくに)六県高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布。に遣わされる使者は戸籍を作り、あわせて田畑の大きさを調べよ「墾田の頃・畝及び民の戸口の年紀を厳しく調べることをいう」とある。。お前たち国司は明かに承って退出せよ」と。
    そして帛布を各々に賜った。

    この日、(かね)(ひつ)を朝廷に設けて、詔して「もし伴造に憂え訴える人があれば、その伴造はまずよく調べてから奏上せよ。尊長(ひとごとのかみ)一族の年長者。にあれば、尊長はまずよく調べてから奏上せよ。もしその伴造・尊長が訴えを明かにせずに(ふみ)を匱に収めればそれを罪とする。その牒を収める者は明け方に牒を内裏に奏上せよ。朕は年月を記して群卿に示そう。或いは怠って判断せず、或いは阿って曲げることあれば、訴える者は鍾を撞くがよい。このために朝廷に鍾をかけて匱を置く。天下の民は朕の意を知るように。また男女の法は、良男と良女の間に生まれた子はその父につけよ。もし良男が婢を娶って生まれた子はその母につけよ。もし良女が奴に嫁いで生まれた子はその父につけよ。もし両家が奴婢の所に生まれた子はその母につけよ。もし寺家の仕丁の子であれば良人の法に従い、もし奴婢に入れば奴婢の法に従うようにせよ。今よく人々に法制の始まりを示そう」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年八月庚子条】
  • 大化元年8月8日

    使いを大寺に遣わして、僧尼を召し集め詔して「磯城島宮御宇天皇十三年の中頃に、百済の明王が仏法を我が大倭(みかど)に伝え奉った。この時に群臣はみな伝えを求めず、蘇我稲目宿禰独りがその法を信じた。天皇稲目宿禰に詔してその法を崇めさせた。訳語田宮御宇天皇の御世に蘇我馬子宿禰は父の考えを尊んで仏の教えを崇めた。しかし他の臣は信じなかったので、この典は亡びかけた。天皇馬子宿禰に詔してその法を崇めさせた。小墾田宮御宇天皇の御世に馬子宿禰は天皇に奉る為に丈六の繍像(ぬいもののみかた)・丈六の銅像(あかがねのみかた)を造った。仏教を顕揚して僧尼を恭敬した。朕もまた正教を崇めて大きな道を照らし開こうと思う。そこで沙門(のりのし)狛大法師福亮恵雲常安霊雲恵至・寺主僧旻道登恵隣恵妙十師とする。別に恵妙法師を百済寺の寺主とする。この十師たちは多くの僧たちを教え導いて、釈教を行うこと必ず法の如くせよ。天皇から伴造に至るまでが造った寺が、もし営むことが難しければ朕が全て助けよう。いま寺司と寺主を任命する。諸々の寺を巡行して僧尼・奴婢・田畝の実状を調べ、全て明かにして奏上せよ」と。
    そして来目臣「闕名」とある。三輪色夫君額田部連甥法頭(ほうず)とした。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年八月癸卯条】
  • 大化元年9月1日

    使者を諸国に遣わして武器を治める。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丙寅朔条】
    • 大化元年(6月 ~ 9月)

      六月から九月に至るまでに、使者を四方の国に遣わして様々な武器を集めさせた。

      【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丙寅朔条 或本云】
  • 大化元年9月3日

    古人皇子「或る本に古人太子という。或る本に古人大兄という。この皇子は吉野山に入ったので或いは吉野太子ともいう」とある。蘇我田口臣川掘物部朴井連椎子吉備笠臣垂倭漢文直麻呂朴市秦造田来津が謀反を企てる。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月戊辰条】
  • 大化元年9月12日

    吉備笠臣垂中大兄に自首して言うには「吉野古人皇子蘇我田口臣川掘らは謀反を企てております。私もその企てに加わっておりました」と。

    中大兄菟田朴室古高麗宮知に若干の兵士を率いさせて古人大市皇子らを討った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丁丑条】
    • 吉備笠臣垂阿倍大臣蘇我大臣に言うには「私は吉野皇子の謀反の企てに加わっておりましたが自首致します」と。

      【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丁丑条 或本云】
    • 大化元年11月30日

      十一月甲午三十日。中大兄阿倍渠曽倍臣(あべのこそべのおみ)佐伯部子麻呂の二人に兵四十人校異:三十人を率いさせて古人大兄を攻め古人大兄と子を斬った。その妃・妾は自殺した。

      【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丁丑条 或本云】
    • 大化元年11月

      十一月。吉野大兄王が謀反を企てたが、事が発覚して誅殺された。

      【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月丁丑条 或本云】
  • 大化元年9月19日

    使者を諸国に遣わして民の数を記録させた。
    詔して「古来より天皇の御世ごとに名代を置き標して名を後に残そうとされた。臣・連・伴造・国造は各々己の民を置いて思うがままに使った。また国・県の山・海・林・野・池・田を割いて己の財産として、争い戦うことをやめなかった。或いは数万(しろ)の田を持つ者があり、或いは針ほどの少いない土地も無い者がある。調(みつき)を奉る時に、その臣・連・伴造らは自ら収めた後に分けて奉る。宮殿を造り、陵を築くのに、各々己の民を率いて事に従わせている。易に『上は損しても下を益す。制度に従い、財を傷つけず、民を害するな』という。まさに今人民は乏しい。しかし勢いある者は田畝を分割して私有地とし、人民に貸し与えて毎年代価を求めている。今後は地を貸すことは出来ない。みだりに主となって弱い者を併呑してはならない」と。
    人民は大いに喜んだ。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年九月甲申条】
  • 大化元年12月9日

    都を難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に遷した。
    老人らは「春から夏にかけて鼠が難波に向ったのは遷都の兆しだったか」と話した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年十二月癸卯条】
  • 大化元年12月24日

    越国が言うには「海畔に枯木の切株が東に向って去っていきました。砂の上には跡があり、耕田のような状態でした。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年十二月戊午条】
  • 大化2年1月1日

    賀正礼(みかどおがみ)が終り、改新の詔を宣言した。

    その一に曰く「その昔、天皇たちがお立てになられた子代の民・処々の屯倉、及び臣・連・伴造・国造・村首が所有する部民・処々の田庄(たどころ)を止めさせよ。そして食封を大夫以上に賜う。以降は布帛(きぬ)を官人・人民に賜う」と。
    また曰く「大夫は民を治めるものである。よく治め尽くせば民は頼りとする。それで大夫の禄の重さは民の為となるのである」と。

    その二に曰く「初めて京師(みさと)を創設して畿内の国司・郡司・関塞・斥候・防人・騨馬・伝馬を置き、鈴契(すずしるし)を造って山河を定める。京には(まち)ごとに長を一人置き、四坊に(うながし)を一人置き、戸口を調べ、ずる賢い者を監督せよ。その坊の令には坊の内で清く正しく強く任務に堪えられる者を充てよ。里坊の長には里坊の人民で清く正しく強い者を充てよ。もし里坊に人が無ければ近くの里坊から選んで用いることを許す。畿内は、東は名墾(なばり)横河(よこかわ)よりこちら、南は紀伊()兄山(せのやま)「兄。此云制」とある。よりこちら、西は赤石(あかし)櫛淵(くしふち)よりこちら、北は近江(おうみ)狭狭波(ささなみ)合坂山(おうさかのやま)よりこちらを畿内国とする。(こおり)は四十里を以って大郡とする。三十里以下、四里以上を中郡とする。三里を小郡とする。その郡司には国造から性質が清廉で任務に堪えられる者を取って大領(こおりのみやつこ)少領(すけのみやつこ)とする。強く聡敏で計算に巧みな者を主政(まつりごとひと)主帳(ふびと)とする。駅馬(はゆま)伝馬(つたわりうま)を給うのは、全て鈴・伝苻(つたえのしるし)に刻まれた数に依る。諸国・関には鈴契(すずしるし)を給う。並べて長官を執り、無ければ次官を執れ」と。

    その三に曰く「初めて戸籍(へのふみた)計帳(かずのふみた)班田収授(あかちだおさめづくり)の法を造る。五十戸を里とする。里ごとに長を一人置き、戸口を調べ、農桑を課し、違法を取り締まって賦役を促し掌るように。もし山や谷が険しく遠地で人が稀な所は、便りに従い見当して置くように。田の長さは三十歩、広さは十二歩を段とする。十段を町とする。段ごとの租稲は二束二把、町ごとの租稲は二十二束とする」と。

    その四に曰く「元の賦役は止めて、田の調を行うこととする。絹・(ふとぎぬ)・糸・綿は土地の事情に従う。田は一町に絹一丈。四町で一匹、長さは四丈、広さは二尺半である。絁は二丈である。二町は一匹、長さ・広さは絹と同じである。布は四丈、長さ・広さは絹・絁と同じである。一町で一端、別に戸ごとに調を収めよ。一戸に貲布(さよみのぬの)を一丈二尺。調の副物(そわりつもの)の塩と贄もまた土地の事情に従う。官馬(つかさうま)は、中級馬なら百戸ごとに一匹を、もし良馬なら二百戸ごとに一匹を出し、馬が出せない時は一戸に布一丈二尺を出せ。武器は各自が刀・甲・弓・矢・幡・鼓を出せ。仕丁(つかえのよほろ)は元の三十戸ごとに一人というのを改め、五十戸から諸司一人を充てる。五十戸が仕丁一人に食糧を出し、一戸で庸布(ちからしろのぬの)一丈二尺、庸米(ちからしろのこめ)五斗を出せ。采女は郡の少領以上の姉妹や子女から形容端正の者を奉れ「従丁は一人。従女は二人」とある。。百戸が采女一人の食糧を出し、庸布・庸米は仕丁に准ずる」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年正月甲子朔条】
  • 大化2年1月

    行幸して子代離宮(こしろのかりみや)「或る本に難波の狭屋部邑(さやべのむら)の子代屯倉(こしろのみやけ)を壊して行宮(かりみや)を建てたという」とある。から使者を遣わし、郡国に詔して武器庫を造らせた。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年正月是月条】
  • 大化2年1月

    蝦夷が帰順する。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年正月是月条】
  • 大化2年2月15日

    天皇は宮の東門から蘇我右大臣を使って詔して「明神(あきつかみ)として天下を治める日本の天皇明神御宇日本倭根子天皇は集まった卿等・臣・連・国造・伴造、及び諸々の人民に詔する。朕が聞くところによると、明哲の人が民を治めるには、鍾を宮殿の門にかけて人民の憂えを聞き、分かれ道に小屋を建てて通行人の不平を聞く。草刈りや木こりの話でも親しく問うて師とするという。それで朕は先に詔を下し、『古来天下を治めるのに、朝廷に善を進める旗や誹謗の木があった。治道を通じて諫める者を招くためである。広く下々に意見を問うためである。管子曰く、黄帝は明堂の議を立てて賢人を観察し、尭は奥の部屋で民の意見を聞き、舜は善を告げる旌を設け、禹は鼓を朝廷に立てて望みがあれば打たせた。湯は辻に設けた庭から民の非を観察した。武王は霊台の園があって賢者の言を聞いた。このように聖帝明王は保っては失することなく、得ては亡くすことはなかったという。それで鍾をかけ、匱を設け、収表人を決める。憂え諫める人は表を匱に納めさせる。収表人に詔して毎朝奏上させる。朕は奏上を聞き、群卿に示して処置を決める。滞ることが無いようにせよ。もし群卿が或いは怠り、或いは徒党を組み、朕の諫めを聞き入れなければ、憂え訴える人は鐘を撞くがよい』と、詔はこの通りである。民は明るく真っ直ぐな心で国を思う気風を持ち、切に諫める陳情を設けた匱に納めた。そこで今万民に明かにする。その表に言うには、国政に仕えるために(みやこ)に来た民を引き止めて雑役に使っている云々と。朕はこれを傷ましく思う。民はなぜここに来たのかと思うだろう。しかし遷都して未だ間もなく、落ち着く所がないのは旅人に似ている。これにより使ってはならないのに強いて使ってしまう。これを思うたびに落ち着いて寝られない。朕はこの表を見て褒めることを止め難い。それで諫言に従って処々の雑役を止めさせる。前に『諫める者は名を記せ』と詔したが守られていない。利を求めずに国を助けようとしたのだろう。記名の有無は問わず、朕が忘れていることを諫めてほしい」と。

    また詔して「集まった国民からの訴えは多かった。今まさに理を解くので宣旨を受けよ。愁訴のため入京して朝廷に集まった者は、しばらくは退去せずに朝廷で待機せよ」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年二月戊申条】
  • 大化2年2月15日

    高麗・百済・任那・新羅が使いを遣わして調賦を献上する。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年二月戊申条】
  • 大化2年2月22日

    子代離宮(こしろのかりみや)から還幸する。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年二月乙卯条】
  • 大化2年3月2日

    東国の国司らに詔して「集まった群卿大夫及び臣・連・国造・伴造、併せて諸々の人民は皆良く聞け。天地の間に君として万民を治めることは独りでは出来ない。臣の助けが必要である。これにより代々の我が皇祖たちは、卿らの先祖と共に治めてこられた。朕もまた神の御加護を頂いて卿らと共に治めたい。そこで先に良家の大夫を使って東方八道を治めた。国司は任に赴き、六人は法に従い、二人は令に背いた。それぞれの毀誉は聞いている。朕はその法に従うことを誉め、令に背くことを憎む。治める者とは、君も臣も先ずは己を正した後に人を正すのである。自らを正さずにどうして人を正せようか。自らを正せない者は君臣問わず災いを受けるであろう。慎むように。お前たちが率先して正せば、後の人も正すようになる。先の勅に従って処断せよ」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年三月甲子条】
  • 大化2年3月19日

    東国の朝集使らに詔して「集まった群卿大夫及び国造・伴造、併せて諸々の人民は皆良く聞け。去年の八月に朕自ら教えて『官の権勢によって公私の物を取ってはならない。部内の飯を食し、部内の馬に乗れ。もし教えに背けば、次官以上はその爵位を落し、主典以下は鞭打ちの刑とする。不当に己の物とした者は倍にして徴収せよ』と詔した。今集まった使い及び諸々の国造らに、国司は任地で教えを守ってるか否かを問うた。そして朝集使らは詳しくその状況を述べた。穂積臣咋が犯したことは、人民に物を求めた後に悔いて物を返そうとしたが全てを返さなかったこと。その次官の富制臣「闕名」とある。巨勢臣紫檀の二人の過ちは、その上を正さず云々と。その以下の官人も皆過ちがあった。巨勢徳禰臣が犯したことは、人民に物を求めたが悔いて物を返そうとしたが全てを返さなかったこと。また田部の馬を取った。その次官の朴井連・押坂連「並闕名」とある。の二人は、その上の過ちを正さず、かえって利を求めたこと。また国造の馬を取った。台直須弥は初めは上を諫めていたが、遂には共に汚職した。その以下の官人も皆過ちがあった。紀麻利耆拕臣が犯したことは、人を朝倉君・井上君の二人の所にやり、その馬を引いて来させて品定めしたこと。また朝倉君に刀を作らせた。また朝倉君の弓・布を取った。また国造が送った武器に用いる物を、持主に返さずに妄りに国造に伝えた。また任国で刀を盗まれた。また(やまと)国でも刀を盗まれた。これはその紀臣とその次官三輪君大口河辺臣百依らの過ちである。その以下の官人河辺臣磯泊丹比深目百舌鳥長兄葛城福草難波癬亀犬養五十君伊岐史麻呂丹比大眼、この八人は皆過ちがあった。その阿曇連「闕名」とある。が犯したことは、徳史が病の時に国造に申し付けて官物を送らせたこと。また湯部の馬を取った。その次官膳部臣百依が犯したことは、草代の物を家に収め置いたこと。また国造の馬を取って他人の馬と換えた。河辺臣磐管湯麻呂の兄弟二人にも過ちがあった。大市連「闕名」とある。が犯したことは、先の詔に背いたこと。先の詔は『国司らは任所で民の訴えを処断してはならない』とあるが、この詔に背いて菟礪(うと)の人の訴え及び中臣徳(やっこ)の事を判決した。中臣徳もまた同罪である。涯田臣「闕名」とある。の過ちは、倭国で官刀を盗まれたこと。これは不謹慎である。小緑臣・丹波臣「並闕名」とある。は拙いところがあったが過ちとはしない。忌部木菓中臣連正月の二人もまた過ちがあった。羽田臣・田口臣「闕名」とある。の二人は過ちはない。平群臣「闕名」とある。の犯したことは、三国(みくに)の人の訴えがあるが未だに調べていないこと。これを以ってみると、紀麻利耆拕臣巨勢徳禰臣穂積咋臣ら三人の怠慢はまずいことであった。かの詔に背くことを思うと、どうして心を痛めないことがあろうか。そもそも君臣として民を養う者は自ら率先して正せば、他の者も見習うであろう。もし君臣が心を正さなければ、その罪を受けることになる。後悔することは言うまでもない。このように諸々の国司は過ちの軽重に従い罰を考える。また諸々の国造は詔に背いて財を自国の国司に送り、共に利を求め、常に穢悪を懐いている。裁かなければならない。思うことはこのようであるが、新しい宮において諸神に(みてぐら)を奉るのが今年に当る。また農事の月であり、民を使うべきではないが、新しい宮を造るためにやむを得ない。この二つの事を鑑みて天下に大赦する。今後国司・郡司は自重し、勝手気ままな振る舞いが無いようにせよ。使者を遣わして諸国の流人及び獄中の囚人を皆放免せよ。別に塩屋鯯魚神社福草朝倉君・椀子連・三河大伴直・蘆尾直「四人並闕名」とある。、この六人は天皇に恭順している。朕は深くその心を褒める。官司の処々の屯田及び吉備島皇祖母の処々の貸稲(いらしのいね)を止めさせる。そしてその屯田を群臣及び伴造らの班田とする。また籍から漏れた寺の田と山を籍に入れよ」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年三月辛巳条】
  • 大化2年3月20日

    皇太子が使いを遣わして奏上して「昔の天皇たちの御世には、混合して一つになり天下を治められました。しかし今に至っては分離してしまい国家事業を見失っていましたが、我が天皇が万民を養われてからは、天も人も応えて政治は刷新されています。謹んでお慶び申し上げます。(あき)つ神として八島国を治める天皇現為明神御八島国天皇。が私に『群臣・連・伴造・国造の所有する昔の天皇の御世に置かれた子代入部(こしろのいりべ)、皇子たちの私有する御名入部(みなのいりべ)皇祖大兄「彦人大兄をいう」とある。の御名入部、及びその屯倉を古代のように置いておくべきか』とお問いになられましたが、私は謹んで詔を承り、『天に二つの日は無く、国に二人に王は無しといいます。天下を兼ね併せて万民をお使いになられるべきはただ天皇のみでございます。別に入部及び食封の民を仕丁(つかえのよほろ)に選び当てることは先の処分に従うのが良いでしょう。これ以外は私用に使われることを恐れるので、入部は五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上するのが良いでしょう』とお答え申し上げます」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年三月壬午条】
  • 大化2年3月22日

    詔して「朕が聞くところによると、西土(もろこし)の君支那皇帝。はその民を戒めて『古の葬礼では丘陵を墓とした。盛土をせず木も植えなかった。棺は骨を朽ちさせるに足ればよい。衣は体を朽ちさせるに足ればよい。そこで吾の墓は開墾できない丘に造り、代が変ればその地を知られなくなることを願う。金・銀・銅・鉄を収蔵することなく「或本に『金・銀・錦・綾・五綵(いつくさのしみもの)を蔵めてはならない』という。また『諸臣より民に至るまで金・銀を用いてはならない』という」とある。、瓦器で古の塗車(くるまかた)泥で作った車。を作り、蒭霊(ひとかた)草を束ねて作った人形。を作ればよい。棺は板と板の間に漆を塗るのは三年に一度でよい。口に珠玉を含まなくてよい。珠襦(たまのこしころも)玉衣の上衣。玉柙(たまのはこ)玉匣。宝玉の飾り箱。も必要ない。それらは愚かな者のすることである』という。
    また『葬るというのは隠すことでもある。人から見られないものであってほしい』という。
    この頃我が民が貧しいのは墓の造営によるものである。ここにその墓制を述べて尊卑の別をはっきりさせる。

    (みこ)以上の墓は、その内の長さは九尺、広さは五尺。その外域の縦横は九尋、高さは五尋。役丁は千人、七日で終らせよ。その葬る時の帷帳などは白布を用いよ。轜車(きくるま)葬送の際に棺を運ぶ車。はあってよい。

    上臣(たかきまえつきみ)の墓は、その内の長さ・広さ・高さは上にならえ。その外域は縦横七尋、高さは三尋。役丁は五百人、五日で終らせよ。その葬る時の帷帳などは白布を用いよ。輿を担って行け原文に「担而行之」とあり、注釈に「蓋此以肩担与而送之乎」とある。

    下臣(ひくきまえつきみ)の墓は、その内の長さ・広さ・高さは上にならえ。その外域は縦横五尋、高さは二尋半。役丁は二百五十人、三日で終らせよ。その葬る時の帷帳などは白布を用いること、また上にならえ。

    大仁小仁の墓は、その内の長さは九尺、高さ・広さはそれぞれ四尺。土は盛らずに平らにせよ。役丁は百人、一日で終らせよ。

    大礼以下小智以上の墓は大仁にならえ。役丁は五十人、一日で終らせよ。

    王以下小智以上の墓は小さい石を用いよ。その帷帳などは白布を用いよ。

    庶民無位の者。が亡くなった時は地中に埋めよ。その帷帳などは麁布(あらきぬの)を用いよ。一日も留めてはならない。

    王以下及び庶民に至るまで殯宮を造ってはならない。

    畿内より諸国に至るまで一所に定めて収め埋めよ。汚らわしく処々に散らし埋めてはならない。

    人が死んだ時は、殉死したり、或いは殉死させたり、死者の馬を殉死させたり、或いは死者の為に宝を墓に収め、或いは死者の為に断髪したり股を刺して(しのびごと)をするような旧俗は全て断て。

    もし詔に背いて禁を犯せば必ずその一族は罰する。

    また見たことを見ていないと言い、見ていないことを見たと言い、聞いたことを聞いていないと言い、聞いていないことを聞いたと言う者がある。
    正しく語り正しく見ることが無く、巧みに偽る者は多い。
    また奴婢には貧主を欺き、勢家を頼って活路を求める者がある。
    勢家は強引に留め置き、元の主に送らない者も多い。
    また夫に捨てられた妻が、数年後に他の人に嫁ぐのは道理だが、前夫が三、四年後に後夫の財物を貪り求め、己の利益にしようとすることが甚だ多い。
    また権勢を振るう男が勝手に女と契り、迎える前に女が他家に嫁げば、その勝手に契った男が両家の財物を求め、己の利にしようとすることが甚だ多い。
    また夫を亡くした妻が、十年、二十年を経て他の人に嫁いだり、或いは初めて人に嫁ぐ時に、この夫婦を妬んで呪詛する者が多い。
    また妻に嫌われた者が、恥を理由に強引に事瑕之婢(ことさかのめのこやっこ)「事瑕。此云居騰作柯」とある。背反した婢。とすることがある。
    またしばしば己れの妻の姦通を疑い、官司に決裁を請うことがある。たとえ三人の証人があっても、皆で明かに申し立てた後に諮るべきである。みだりに訴えてはならない。
    また辺境の役民が事を終えて帰郷する際に、突然病を患い路頭で死ぬことがあっても、路頭の家が「なぜ我が家の近くで死なせた」と言って死者の友伴を留めて祓えの金品を強要する。これにより兄が路頭で死んでも、その弟が始末をしないことが多い。
    また民が河で溺死しても、「なぜ溺れる人を見せた」と言って溺れる者の友伴を留めて祓えの金品を強要する。これにより兄が河で溺死しても、その弟を救わないことが多い。
    また役民が路頭で炊飯すると、路頭の家が「なぜ勝手に我が家の近くで飯を炊く」と言って祓えの金品を強要する。
    また民が他人から(こしき)米などを蒸すための器。を借りて炊飯した際に、その甑が物に触れて落としてしまうと、甑の持主が祓えを強要する。
    このような類は愚俗の習慣である。これからは全て禁止して二度とあってはならない。

    また民が(みやこ)に向う際に、乗ってきた馬が疲れて進まないことを恐れて、以布二尋・麻二束を参河(みかわ)尾張(おわり)両国の人に渡して雇い、馬を飼わせ、そして入京する。帰郷する時に鍬一口を渡すが、参河人らは飼うことが出来ずにかえって痩せ死なせてしまう。もしこれが良馬なら、惜しんで偽って盗まれたという。もしこれが牝馬で自分の家で孕めば、償いを要求して遂にその馬を奪う。

    伝わり聞くことはこの通りである。それで今(のり)を立てる。

    路傍の国で馬を飼うのであれば、人を雇って村の首長に詳しく告げて報酬を払え。帰郷の日に重ねて払う必要は無い。
    もし馬を損なうようなことがあれば、報酬は払わなくてよい。
    もしこの詔に背けば重罪に処す。

    市司(いちのつかさ)要路(ぬみのみち)津済(つわたり)渡子(わたりもり)の調賦を止め、田地を給う。

    畿内より始めて四方国に至るまで、農作に当る月には速やかに営田に努めよ。
    美味しい物と酒は禁止する。
    清廉な使者を遣わして畿内に告げよ。
    その四方の諸国の国造たちも適切な使いを選び、詔に従って人々を勤めさせよ」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年三月甲申条】
  • 大化2年8月14日

    詔して「尋ねみれば、天地陰陽は四時(よつのとき)春夏秋冬。を乱れさせることはない。思いみれば、天地は万物を生む。万物の内では人が最も優れている。その人の中でも聖が人主(きみ)である。聖主である天皇は、天に則り天下を治めて、人々がそれぞれの所を得ることを願い続けている。しかし代々の王の御名をはじめとする名を、臣・連・伴造・国造は、その品部(しなじなのとものお)に分け与えている。またその民・品部を混ぜて国県に雑居させている。遂には父子でも姓が変わり、兄弟でも宗が異なり、夫婦でも互いに名が異なるり、一家が五分六割している。これにより争い競う訴えが国中に満ち満ちている。治まる気配もなく、乱れは益々増えている。そこで今の天皇から臣・連に至るまで、所有する品部を全てやめて国家の民とする。その王の御名を借りて伴造の名とし、その先祖の名によって臣・連の名としているが、これらの事情を深く悟れなければ、急にこのような宣布を聞いて『祖の名を借りていれば名が消えてしまう』と思うであろう。そこで予め朕の思う所を知らしめようと思う。王者の子が相継いで天下を治めれば、時の帝と皇祖の御名が世に忘れられないことは分る。しかし王の御名を軽々しく川や野につけて、その名を人民が呼ぶことは誠に恐れ多いことである。王者の御名は日月に従って遠く流れ、皇子の御名は天地と共に長く存在するべきである。このように思うから宣べるわけだが、皇子より始めて奉仕する卿大夫・臣・連・伴造・氏々の人々みな聞け。これから汝らを使うべきかたちは、元の職を改めて新たに百官を設け、位階を定めて官位を授けるのである。これから遣わす国司とその国造はよく聞け。去年朝集使に命じた政は前の処分に従う。収め数えた田は民に均しく与える。彼我の差が生じてはならない。田を給うときは、その人民の家の近くに田を接せられれば、必ず近いほうを優先させる。このように承知せよ。およそ調賦は男の身の調を収めよ。およそ仕丁(つかえのよほろ)は五十戸ごとに一人とせよ。国々の境界を観て、或いは書に記し、或いは図を書いて持って来て示せ。国県の名は来たときに定める。国々の堤を築くべき所、溝を掘るべき所、開墾すべき所は均しく与えて造らせよ。この宣布を聞いて理解せよ」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年八月癸酉条】
  • 大化2年9月

    小徳高向博士黒麻呂を新羅に遣わして人質を送らせ、遂に任那の調を止めさせた。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年九月条】
  • 大化2年9月

    蝦蟇行宮(かわずのかりみや)に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年九月是月条】
  • 大化2年

    越国の鼠が昼夜連なって東に向って移動した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化二年是歳条】
  • 大化3年1月15日

    朝庭で射礼する。

    この日、高麗・新羅が使いを遣わして調賦を献上した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化三年正月壬寅条】
  • 大化3年4月26日

    詔して「惟神(かんながら)「惟神とは、神道に随うことを謂う。また自ずからに神道が有ることを謂う」とある。も我が子に治めさせようと御委任なされた。こうして天地の初めから君臨する国となったのである。始めて国を治めた皇祖の時、天下は等しく、かれこれ差は無かった。この頃では、神の御名・天皇の御名から始まり、或いは別れて臣・連の氏となり、或いは別れて造らに属した。これにより国内の民心は、かれこれ固執して自分の名を保とうとした。また愚かな臣・連・伴造・国造は、その姓となる神名・王名を自分の思うままに妄りに人々や処々に付ける。神名・王名を人に付け、賂物として他人の奴婢に入れることにより清い名を汚している。これでは民心は整わず、国政も治め難い。そこで天に在す神に従い治める世にあたり、これらを悟らせて国を治め民を治める。いずれを先にする後にするかは、今日明日と続けて詔する。もとより天皇の聖化に頼り旧俗に習う民は、詔を待ちきれないであろうから、皇子・群臣から始めて、諸々の人民に至るまで庸調を賜る」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化三年四月壬午条】
  • 大化3年

    小郡を壊して宮を造った。
    天皇は小郡宮(おごおりのみや)から礼法を定めた。
    その(のり)に曰く「およそ位が有る者は、必ず寅の時午前4時。に南門の外で左右に並び、日の出を待って大庭に行き、再拝して政庁に侍るように。もし参集に遅れれば、中に入って侍べることは出来ない。午の時正午。の鍾を聞いて帰れ。その鍾を撃つ(つかさ)は赤巾を前に垂らせ。その鍾の台は中庭に建てよ」と。

    工人(たくみ)大山位倭漢直荒田井比羅夫が誤って溝涜(うなて)用水路。を掘って難波に引いたので、改めて掘って人民を疲弊させた。
    そこで上表して諫める者があった。
    天皇が詔して「妄りに比羅夫の間違った話を聞いて無駄に溝涜を掘ってしまった。朕の過ちである」と。
    その日に役を止めた。

    【日本書紀 巻第二十五 大化三年是歳条】
  • 大化3年10月11日

    有間温湯(ありまのゆ)に行幸する。
    の大臣・群卿大夫が随行した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化三年十月甲子条】
  • 大化3年12月29日

    温湯から還幸して武庫行宮(むこのかりみや)「武庫。地名也」とある。に留まる。

    この日、皇太子の宮に火災があり、時の人は大いに驚き怪しんだ。

    【日本書紀 巻第二十五 大化三年十二月晦条】
  • 大化3年

    七色十三階冠を制定する。

    第一は織冠(おりもののこうぶり)二階がある。織物で作られ、刺繍で冠の縁を取り巻く。服の色は共に深紫である。
    第二は繍冠(ぬいもののこうぶり)二階がある。繍で作られ、その冠の縁と服の色は織冠と同じである。
    第三は紫冠(むらさきのこうぶり)二階がある。紫で作られ、織物で冠の縁を取り巻く。服の色は浅紫を用いる。
    第四は錦冠(にしきのこうぶり)二階がある。その大錦冠は、大伯仙(だいはくせん)の錦で作られ、織物で冠の縁を取り巻く。その小錦冠は、小伯仙(しょうはくせん)の錦で作られ、大伯仙の錦で冠の縁を取り巻く。服の色は共に真緋(あけ)を用いる。
    第五は青冠(あおきこうぶり)。青絹で作られる。二階がある。その大青冠は、大伯仙の錦で冠の縁を取り巻く。その小青冠は、小伯仙の錦で冠の縁を取り巻く。服の色は共に紺を用いる。
    第六は黒冠(くろきこうぶり)二階がある。その大黒冠は、車形の錦で冠の縁を取り巻く。その小黒冠は、菱形の錦で冠の縁を取り巻く。服の色は共に縁を用いる。
    第七は建武(けんむ)「初位。または立身という」とある。。黒絹で作られる。紺で冠の縁を取り巻く。

    別に鐙冠(つぼこうぶり)がある。黒絹で作られる。その冠の背には漆塗りの(うすはた)を張り、縁と(うず)の高さ短さで異にする。形は蝉に似る。

    小錦冠以上の鈿は金・銀を混ぜて作る。
    の青冠の鈿は銀で作る。
    の黒冠の鈿は銅で作る。
    建武の冠に鈿は無い。

    これらの冠は、大会大きな儀式。饗客外国使臣の接待。、四月・七月の斎時に着用する。

    【日本書紀 巻第二十五 大化三年是歳条】
  • 大化3年

    新羅が上臣大阿滄金春秋大阿滄は大阿飡の誤り。らを遣わして、博士小徳高向黒麻呂小山中当時の冠位にはない。極位か。中臣連押熊を送り、孔雀一羽、鸚鵡一羽を献上した。そして春秋は人質とした。春秋は容姿が美しく、好んで談笑した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化三年是歳条】
  • 大化3年

    渟足柵(ぬたりのき)を造って、柵戸(きのへ)柵に配備した衛兵。を置いた。
    老人らは「ここ数年鼠が東に向ったのは鼠の東行は大化二年是歳条に見える。、この柵が造られる兆しだったか」と語り合った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化三年是歳条】
  • 大化4年1月1日

    賀正する。

    この夕、難波碕宮(なにわのさきのみや)に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十五 大化四年正月壬午朔条】
  • 大化4年2月1日

    三韓「三韓とは、高麗・百済・新羅を謂う」とある。に学問僧を遣わす。

    【日本書紀 巻第二十五 大化四年二月壬子朔条】
  • 大化4年2月8日

    阿倍大臣四衆(よくさのおこないひと)比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)。を四天王寺に呼び、仏像四躯を迎えて塔内に鎮座させた。
    鼓を積んで霊鷲山(りょうじゅせん)釈迦の浄土。の形を造った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化四年二月己未条】
  • 大化4年4月1日

    古冠を廃したいわゆる冠位十二階の廃止を意味する。
    の大臣は猶も古冠を着用した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化四年四月辛亥朔条】
  • 大化4年

    新羅が使いを遣わして調を貢いだ。

    【日本書紀 巻第二十五 大化四年是歳条】
  • 大化4年

    磐舟柵(いわふねのき)を造って蝦夷に備えた。
    越と信濃の民から選んで始めて柵戸(きのへ)柵に配備した衛兵。を置いた。

    【日本書紀 巻第二十五 大化四年是歳条】
  • 大化5年1月1日

    賀正する。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年正月丙午朔条】
  • 大化5年2月

    冠十九階を制定する。

    第一は大織
    第二は小織
    第三は大繍
    第四は小繍
    第五は大紫
    第六は小紫
    第七は大花上
    第八は大花下
    第九は小花上
    第十は小花下
    第十一は大山上
    第十二は大山下
    第十三は小山上
    第十四は小山下
    第十五は大乙上
    第十六は大乙下
    第十七は小乙上
    第十八は小乙下
    第十九は立身

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年二月条】
  • 博士(はかせ)高向玄理(ほうし)僧旻に詔して八省・百官を置かせる。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年二月是月条】
  • 大化5年3月17日

    阿倍大臣が薨じる。天皇は朱雀門に行幸し、挙哀して悼んだ。
    皇祖母尊皇太子たち及び諸公卿も皆従って哀哭した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月辛酉条】
  • 大化5年3月24日

    蘇我臣日向倉山田大臣皇太子に讒言して「私の異母兄麻呂皇太子が海浜にいらっしゃる時を伺って(そこな)おうとしております。背くこと遠くありません」と。
    皇太子は信じた。
    天皇は大伴狛連三国麻呂公穂積噛臣蘇我倉山田麻呂大臣のもとに遣わして反逆の虚実を問うた。
    大臣は「御返事は天皇の御前で申し上げます」と答えた。

    天皇はまた三国麻呂公穂積噛臣を遣わして反状を審らかにしようとしたが、麻呂大臣はまた前のように答えた。
    天皇は兵を起して大臣の邸宅を囲んだ。大臣は二人の子、法師赤猪「またの名は秦」とある。を連れて茅渟(ちぬ)の道から逃げて(やまと)国の境に向った。
    大臣の長子興志はこれより先に倭に在って、その寺を造っていた。
    突然父の逃避を聞いて今来(いまき)の大槻のもとで迎え、先に立って寺に入った。
    そして大臣に「私自ら進んで来襲する軍を防ぎましょう」と願い出たが、大臣は許さなかった。

    この夜、興志「宮とは小墾田宮を謂う」とある。を焼こうとして士卒を集めた。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月戊辰条】
  • 大化5年3月25日

    大臣が長子興志に「お前は我が身が惜しいか」と言うと、興志は「惜しくはありません」と答えた。
    大臣は山田寺の衆僧及び長子興志と数十人に語って「人の臣たる者がどうして君に逆らうことを企てようか。どうして父への孝を失えようか。およそこの伽藍(てら)は、元より自分の為に造ったのではない。天皇の御為に誓ってお造り申し上げたのである。今私は身刺に讒言され、不当に誅されようとしている。せめてもの願いは、黄泉に行っても忠心を懐いたままでありたいということだ。寺に来たわけは、終りの時を安らかに迎えるためである」と。

    言い終ると仏殿の戸を開き、仰いで誓いを立てて「我は死んでも君王を怨まず」と言った。
    誓いが終ると自ら経死した。妻子ら殉死する者は八人だった。

    この日、大伴狛連蘇我日向臣を将として軍を率い大臣を追わせた。
    将軍の大伴連らが黒山(くろやま)に至ると、土師連身采女臣使主麻呂が山田寺から馳せ参じて「蘇我大臣は既に三男一女らと共に自ら経死されました」と告げた。
    これにより将軍らは丹比坂(たじひのさか)を経て帰還した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月己巳条】
  • 大化5年3月26日

    山田大臣の妻子及び従う者、自ら経死した者は多かった。
    穂積臣噛大臣の一党の田口臣筑紫らを捉えて集め、首枷をかけて後ろ手に縛った。

    夕方、木臣麻呂蘇我臣日向穂積臣噛は軍を率いて寺を囲んだ。
    物部二田造塩を呼んで大臣の首を斬らせた。
    二田塩は大刀を抜き、その肉を刺し挙げ、叫び声を上げて斬った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月庚午条】
  • 大化5年3月30日

    蘇我山田大臣に連座して殺された者は、田口臣筑紫耳梨道徳高田醜雄額田部湯坐連「闕名」とある。秦吾寺ら十四人。
    絞首された者は九人。
    流された者は十五人。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月甲戌条】
  • 大化5年3月

    使者を遣わして山田大臣の資財を収めた。
    資財の中で、好書の上には皇太子の書と記されてあった。重宝の上には皇太子の物と記されてあった。使者は帰って状況を報告した。
    皇太子は初めて大臣の心が正しく潔いことを知り、悔い恥じて哀しみ歎くことが止まなかった。

    日向臣筑紫大宰帥に拝した。世人は「これは隠流(しのびながし)だろう」と語り合った。

    皇太子の妃蘇我造媛は、父の大臣に斬られたと聞き、傷心して悲しみ悶えた。の名を聞くことを憎んだ。
    このため造媛の近侍は、塩の名を呼ぶことを忌み、改めて堅塩(きたし)と言った。

    造媛は遂に傷心して死に至ってしまった。
    皇太子造媛の急逝を聞き、悼み哀しんで激しく泣いた。
    野中川原史満が進み出て歌を奉った。

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    皇太子は歎き褒めて「良い歌だなぁ。悲しいなぁ」と言った。
    そして御琴を授けて唱和させ、絹四匹・布二十端・綿二褁を賜った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月是月条】
  • 大化5年4月20日

    小紫巨勢徳陀古臣大紫を授けて左大臣とする。
    小紫大伴長徳連大紫を授けて右大臣とする。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年四月甲午条】
  • 大化5年5月前月の記事にある四月亥朔が正しいとすると五月癸卯朔は誤り。この五月に癸卯が存在し得るには閏四月が必要(ただし小小を除く)【日本書紀 巻第二十五 大化五年五月癸卯朔条】

    小花下三輪君色夫大山上掃部連角麻呂らを新羅に遣わす。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年五月癸卯朔条】
  • 大化5年

    新羅王が沙喙部沙飡金多遂を遣わして人質とした。
    従者は僧一人・侍郎二人・丞一人・達官郎一人・中客五人・才伎十人・訳語一人・雑傔人十六人、合わせて三十七人である。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年是歳条】
  • 白雉元年1月1日

    味経宮(あじふのみや)「味経。此云阿膩賦」とある。に行幸して賀正礼を行う。
    この日に還幸する。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年正月辛丑朔条】
  • 白雉元年2月9日

    穴戸(あなと)後の長門。の国司草壁連醜経が白雉を献上して言うには「国造首の同族が正月九日に麻山(おのやま)で捕獲しました」と。

    これを百済君に尋ねた。百済君が言うには「後漢明帝永平十一年に、白雉がいたる所に見えたと申します」と云々。

    また沙門(ほうし)法師。らに尋ねた。沙門が答えて「聞いたことも目にしたこともございません。天下に罪をお許しになり民心を喜ばせられるのが良いかと存じます」と。

    道登法師が言うには「昔、高麗(こま)伽藍(てら)を造ろうとして、くまなく探しましたところ、ある所で白鹿がゆっくり歩いておりましたので、この地に伽藍を造ることとなり、白鹿薗寺(びゃくろくおんじ)と名付けて仏法を守りました。また白雀がある寺の田荘で見つかり、国人は皆『休祥である』と申しました。また大唐に遣わされた使者が死んだ三足の烏を持って来ました。国人はまた『休祥である』と申しました。これらは些細なことですが、それでも祥瑞と言いました。白雉であれば尚更でございます」と。

    僧旻法師が言うには「これは休祥と言い、珍しい物と言えるでしょう。聞くところによりますと、王者の徳がは四方に行き渡る時に白雉が見える。また王者の祭祀が正しく行われ、宴食・衣服が節度ある時に現れる。また王者が潔白であれば山に白雉が出る。また王者の仁聖により見えると申します。また周の成王の時に、越裳氏が来朝して白雉を献上して言うには『聞くところによりますと、国の老人は、久しく大風・淫雨が無く、江海の波も荒れず三年になります。思うに国の中に聖人がおられるからでしょう。何故参朝しないのだろうかと申しました。それで三つの通訳を重ねてやって参りました』とのことでございます。また晋武帝の咸寧元年に松滋(しょうじ)でも見えました。これは休祥でございます。天下に罪をお許しになるのが良いでしょう」と。

    それで白雉を園に放した。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年二月戊寅条】
  • 白雉元年2月15日

    朝庭の儀仗隊が元日の儀式のように整った。
    の大臣・百官の人々が四列になって紫門の外に並んだ。
    粟田臣飯虫ら四人が雉の輿を担いで先立ちとして進み、の大臣・百官、百済君豊璋、その弟の塞城忠勝、高麗の侍医毛治、新羅の侍学士らを率いて中庭に至った。
    三国公麻呂猪名公高見三輪君甕穂紀臣乎麻呂岐太ら四人が雉の輿を代わって担いで御殿の前に進んだ。
    そしての大臣が輿の前頭をとり、伊勢王三国公麻呂倉臣小屎が輿の後頭をとって御座の前に置いた。

    天皇は皇太子を召して、共に手に取って見た。皇太子は退いて再拝した。
    巨勢大臣に奉賀させて言うには「公卿・百官の人々がお祝い申し上げます。陛下が清く平かな徳で天下を御統治あそばされますので、白雉が西方より現れました。陛下におかれましては、千秋万歳に至るまで四方の大八島を御統治あそばせたまい、公卿・百官・諸々の人々は忠誠を尽して勤しんでお仕え申し上げます」と。奉賀が終り再拝した。

    詔して「聖の王が世に出て天下を治める時、天は応えて祥瑞を示すという。昔、西土の君で、周の成王の御世と漢の明帝の時に白雉が現れた。我が日本国では誉田天皇の御世に白鳥が宮に巣を作った。大鷦鷯帝の時には竜馬が西に現れた。このように古から今に至るまで、祥瑞が現れて有徳に応える類は多い。いわゆる鳳凰・騏驎・白雉・白鳥、こうして鳥獣・草木に及ぶまで、しるしで応えることがあるのは、天地が生む休祥・嘉瑞なのである。明聖の君がこの祥瑞を得るのはわかるが、虚薄な朕がどうしてこれを受けられようか。思うにこれは専ら扶翼する公卿・臣・連・伴造・国造らが誠を尽し、制度を遵奉するからであろう。そこで公卿から始めて百官らに至るまで、清く明かな心で神祇を敬い、皆で休祥を受けて天下を栄えさせよ」と。
    また詔して「四方の諸々の国や郡など、天が委ね授けられる為に、朕が総じて天下を治めている。今我が親愛なる神祖の治められる穴戸(あなと)後の長門。国の中に嘉瑞があった。そこで天下に大赦する。改元して白雉とする」と。
    そして鷹を穴戸の境に放つことを禁じた。

    公卿大夫以下、史に至るまで各々に下賜があった。

    国司草壁連醜経を褒めて大山大山には上下があるが不明。を授けた。合わせて大くの禄を賜った。

    穴戸に三年の調役を免じた。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年二月甲申条】
  • 白雉元年4月

    新羅が使いを遣わして調を献上する。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年四月条】
    • この天皇の御世に、高麗・百済・新羅の三国が毎年使いを遣わして貢物を献上した。

      【日本書紀 巻第二十五 白雉元年四月条 或本云】
  • 白雉元年10月

    宮の地に入る為に丘墓を壊されたり遷居を余儀なくされた者に下賜があった。

    将作大匠(たくみのつかさ)荒田井直比羅夫を遣わして宮の境界標を立てさせた。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年十月条】
  • 白雉元年10月

    丈六の繍像(ぬいもののほとけ)侠侍(きょうじ)中心となる仏の左右に侍する菩薩。脇侍菩薩。八部(はつぶ)仏法を守護する天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽の八神。天竜八部衆。など四十六像を造り始める。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年十月是月条】
  • 白雉元年

    漢山口直大口が詔を受けて千仏の像を刻む。

    倭漢直県白髪部連鐙難波吉士胡床を安芸国に遣わして百済船二隻を造らせる。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉元年是歳条】
  • 白雉2年3月14日

    丈六の繍像などが完成する。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉二年三月丁未条】
  • 白雉2年3月15日

    皇祖母尊十師らを召して斎会を設ける。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉二年三月戊申条】
  • 白雉2年6月

    百済・新羅が使いを遣わして調・物を献上する。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉二年六月条】
  • 白雉2年12月30日

    味経宮(あじふのみや)に二千百余人の僧尼を召して一切経(いっさいきょう)を読ませた。

    夕方、二千七百余の灯を朝廷の庭の内にともして、安宅(あんたく)土側(どそく)などの経を読ませた。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉二年十二月晦条】
  • 白雉2年12月30日

    大郡(おおごおり)から新宮に居を遷した。名付けて難波長柄豊碕宮(なにわのながえのとよさきのみや)という。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉二年十二月晦条】
  • 白雉2年

    新羅の貢調使知万沙飡らが唐国の服を着て筑紫に着いた。朝庭は勝手に風俗を変えたことを憎み、厳しく責めて追い返した。

    時に巨勢大臣が奏上して「いま新羅を討たなければ必ず後悔するでしょう。討つと言っても力は要りません。難波津から筑紫の海の裏に至るまで船で満たし、新羅を召してその罪を問えば容易でございます」と。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉二年是歳条】
  • 白雉3年1月1日

    元日礼が終り、大郡宮(おおごおりのみや)に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉三年正月己未朔条】
  • 正月からこの月に至るまでこの記事は正月の記事なので不明瞭。班田収授法を定めた大化二年正月を指すか。または二月が抜けたか(直後の記事に三月の記述あり)。に班田は終った。
    およそ田の長さは三十歩を「段ごとに租稲一束半、町租稲十五束」とある。とし、十段を町とする。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉三年正月己未朔条】
  • 白雉3年3月9日

    宮から還幸する。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉三年三月丙寅条】
  • 白雉3年4月15日

    沙門(ほうし)恵隠を内裏に召して無量寿経(むりょうじゅきょう)を説かせ、沙門恵資論議者(ろんげしゃ)とし、沙門千人が作聴衆(さちょうじゅ)となった。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉三年四月壬寅条】
  • 白雉3年4月20日

    講が終る。

    この日から初まり連続して雨が降ること九日。宅屋は損壊し、田苗は害なわれた。人や牛馬に溺死する者が多かった。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉三年四月丁未条】
  • 白雉3年4月

    戸籍を造る。
    五十戸を里とする。里ごとに長を一人とする。
    戸主には家長をあてる。五戸で隣保を組織し、一人を長として検察するように。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉三年四月是月条】
  • 白雉3年4月

    新羅・百済が使いを遣わして調物を献上する。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉三年四月是月条】
  • 白雉3年9月

    白雉二年十二月晦条に見える難波長柄豊碕宮。造りが終った。その宮殿の様子は言葉に出来ない程であった。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉三年九月条】
  • 白雉3年12月

    天下の僧尼を内裏に召して斎会を設け、大捨と燃灯を行う。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉三年十二月条】
  • 白雉4年5月12日

    大唐に遣わす大使小山上吉士長丹、副使小乙上吉士駒、学問僧道厳道通道光恵施覚勝弁正恵照僧忍知聡道昭定恵安達道観、学生巨勢臣薬氷連老人、合せて百二十一人が一つの船に乗った。
    或る本では学問僧知弁義徳、学生坂合部連磐積を加える。
    室原首御田を送使とした。

    また大使大山下高田首根麻呂・副使小乙上掃守連小麻呂。学問僧道福義向、合せて百二十人が一つの船に乗った。
    土師連八手を送使とした。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年五月壬戌条】
  • 白雉4年5月

    天皇は旻法師の房に行幸して病を見舞った。そして恩命を口勅した。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年五月是月条】
    • 白雉5年7月

      五年七月に僧旻法師が阿曇寺で病に臥した。そこで天皇が行幸して見舞った。そしてその手を取って「もし法師が今日亡くなれば、朕は従って明日にでも死のう」と言った。

      【日本書紀 巻第二十五 白雉四年五月是月条 或本云】
  • 白雉4年6月

    百済・新羅が使いを遣わして調物を献上する。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年六月条】
  • 白雉4年6月

    所々の大道を修理させる。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年六月条】
  • 白雉4年6月

    天皇は旻法師の命が尽きたことを聞いて弔使を遣わした。合せて多くの贈物を送った。
    皇祖母尊皇太子たち皆も弔使を遣わして旻法師の喪を弔わせた。

    法師の為に、画工の狛堅部子麻呂鯽魚戸直らに命じて多くの仏像・菩薩像を造らせ、川原寺(かわらでら)に安置「或る本では山田寺にるという」とある。した。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年六月条】
  • 白雉4年7月

    大唐に遣わした使人高田根麻呂らが、薩麻(さつま)(くま)竹島(たかしま)の間で船が衝突、沈没して死んだ。
    ただ五人のみが胸を一つの板にかけて竹島に流れ着いた。しかし為す術が無かった。
    五人の中で門部金が竹を採って筏を作って神島(しとけしま)に着いた。
    この五人は六日六夜の間に食事を全く取れなかった。
    を褒め、位を進めて禄を賜った。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年七月条】
  • 白雉4年

    太子は奏上して「(やまと)(みやこ)に遷りたいと存じます」と言った。天皇は許さなかった。

    皇太子皇祖母尊間人皇后を奉じ、皇弟らを率いて倭の飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)に入った。公卿大夫・百官の人々は皆従って遷った。
    これにより天皇は恨んで国位を捨てようと思い、宮を山碕に造らせた。
    そして間人皇后に歌を送った。

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    【日本書紀 巻第二十五 白雉四年是歳条】
  • 白雉5年1月1日

    夜に鼠が倭の都に向いて遷った。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年正月戊申朔条】
  • 白雉5年1月5日

    紫冠紫冠の位には大小がある。中臣鎌足連に授け、若干の増封をする。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年正月壬子条】
  • 白雉5年2月

    大唐に遣わす押使(すべつかい)大錦上ここでは大錦上とあるが、日本書紀では天智天皇三年に制定された冠位。大錦上は極位か。或本云にある大花下がこの時の冠位として適切かも知れない。高向史玄理・大使小錦下河辺臣麻呂・副使大山下薬師恵日判官大乙上書直麻呂「或る本に云く、判官小山下書直麻呂という」とある。宮首阿弥陀小乙上岡君宜置始連大伯小乙下中臣間人連老田辺史鳥らを二つの船に分けて乗せた。

    漂うこと数ヶ月、新羅道を辿って莱州(らいしゅう)に着いた。
    遂に(みやこ)で天子に拝謁した。
    東宮監門(とうぐうのかんもん)郭丈挙は詳しく日本国の地里・国の初めの神名を問うた。全て問いに従って答えた。

    押使高向玄理は大唐で卒した。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年二月条】
    • 白雉5年5月

      五月、大唐に押使大花下高向玄理を遣わす。

      【日本書紀 巻第二十五 白雉五年二月条 或本云】
  • 伊吉博得が言うには、学問僧恵妙は唐で死んだ。知聡は海で死んだ。智国は海で死んだ。智宗庚寅年持統天皇四年。西暦690年頃。に新羅の船に付いて帰った。覚勝は唐で死んだ。義通は海で死んだ。定恵乙丑年天智天皇四年。西暦665年頃。劉徳高らの船に付いて帰った。妙位法勝・学生氷連老人高黄金ら合せて十二人。別に倭種(やまとのうじ)日本人との混血児。韓智興趙元宝今年いつを指すか不明。に使人と共に帰った。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年二月条 伊吉博得言】
  • 白雉5年4月

    吐火羅(とから)国の男二人・女二人・舎衛(しゃえ)の女一人が風に遭い日向に流れ着く。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年四月条】
  • 白雉5年7月24日

    西海使(にしのみちのつかい)吉士長丹らが百済・新羅の送使と共に筑紫に着く。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年七月丁酉条】
  • 白雉5年7月(24日 ~ 30日)

    西海使らが唐国の天子に奉対して多くの文書・宝物を得たことを褒めて、小山上大使吉士長丹小花下を授け、封二百戸を賜り、呉氏の姓を賜る。
    小乙下白雉四年五月壬戌条の遣唐船出発直前では小乙上吉士駒としている。副使吉士駒小山上を授ける。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年七月是月条】
  • 白雉5年10月1日

    皇太子は天皇が病にかかったことを聞いて、皇祖母尊間人皇后を奉じ、皇弟・公卿らを率いて難波宮に赴いた。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十月癸卯朔条】
  • 白雉5年10月10日

    正殿で崩じる。

    殯宮を南庭に起てて、小山上百舌鳥土師連土徳に殯宮の事を司らせた。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十月壬子条】
  • 白雉5年12月8日

    大坂磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に葬られる。

    この日、皇太子皇祖母尊を奉じて(やまと)河辺行宮(かわべのかりみや)に遷居した。
    老人が語って「鼠が倭の都に向ったのは、遷都の兆しであったのだ」と。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年十二月己酉条】
  • 白雉5年(10月10日 ~ 12月)

    高麗・百済・新羅が弔いの使者を遣わす。

    【日本書紀 巻第二十五 白雉五年是歳条】