縁福

  • twitterでツイートする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
名前
  • 緣福【日本書紀】(えんふく)縁福
生年月日
( ~ 645年8月7日)
没年月日
(645年8月7日 ~ )
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 佐平さへい【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月丙子条】
出来事
  • 645年8月7日

    高麗・百済・新羅が使いを遣わして調(みつき)を献上した。百済の調の使いは任那の調の使いを兼領して任那の調を献上した。
    ただ百済の大使佐平縁福は病にかかり、津の館に留まって(みやこ)に入らなかった。
    巨勢徳太臣は高麗の使いに詔を伝えて「明神御宇日本天皇(あきつかみとあめのしたしろしめすやまとのすめらみこと)明神と天下を治める日本の天皇。の詔旨である。天皇が遣わす使いと高麗の神の子が遣わす使いは過去の往来こそ短くても将来は長いであろう。温和な心をもって相互に往来したい」と。
    また百済の使いに詔して「明神御宇日本天皇の詔旨である。我が遠い皇祖の御世に百済国を内官家(うちつみやけ)となさったことは、例えば三絞(みせ)の綱のようである。中頃、任那国を百済に属させた。後に三輪栗隈君東人を遣わして任那の国境を視察させた。百済王は勅に従って全てその境を示したが、調は欠けるところがあった。それでその調を返却した。任那の奉った物は天皇が御覧になるところである。今後は詳しく国と出すところの調を記すように。汝佐平らは変らず来朝せよ。速やかに全て明かに報告せよ。いま重ねて三輪君東人馬飼造(うまかいのみやつこ)「闕名」とある。を遣わす」と。
    また勅して「鬼部達率意斯の妻子らを送り遣わすように」と。

    【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月丙子条】