(大化5年3月26日 ~ )
皇太子は造媛の急逝を聞き、悼み哀しんで激しく泣いた。 野中川原史満が進み出て歌を奉った。
「耶(や)麻(ま)鵝(が)播(は)爾(に) 烏(を)志(し)賦(ふ)拕(た)都(つ)威(ゐ)底(て) 陀(た)虞(ぐ)毗(ひ)預(よ)倶(く) 陀(た)虞(ぐ)陛(へ)屢(る)伊(い)慕(も)乎(を) 多(た)例(れ)柯(か)威(ゐ)爾(に)鷄(け)武(む)」
「模(も)騰(と)渠(ご)等(と)爾(に) 婆(は)那(な)播(は)左(さ)該(け)騰(ど)摸(も) 那(な)爾(に)騰(と)柯(か)母(も) 于(う)都(つ)倶(く)之(し)伊(い)母(も)我(が) 磨(ま)陀(た)左(さ)枳(き)涅(で)渠(こ)農(ぬ)」
皇太子は歎き褒めて「良い歌だなぁ。悲しいなぁ」と言った。 そして御琴を授けて唱和させ、絹四匹・布二十端・綿二褁を賜った。