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- 名前
- 氏(ウジ):藤原【日本書紀】(ふじわら, ふぢはら)
- 氏(ウジ):中臣【日本書紀】(なかとみ)
- 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
- 名:鎌足【日本書紀】(かまたり)
- 名:鎌子【日本書紀】(かまこ)
- 中臣內臣【日本書紀】(なかとみのうちつまえつきみ, なかとみのうちつまへつきみ)中臣内臣
- 通称:藤原內大臣【日本書紀】(ふじわらのうちつまえつきみ, ふぢはらのうちつまへつきみ, ふじわらのうちつおおおみ, ふぢはらのうちつおほおみ)藤原内大臣
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 推古天皇22年
- 没年月日
- 天智天皇8年10月16日
- 父
中臣美気祜 【藤氏家伝 上巻 鎌足伝】
- 母
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 称号・栄典
- 出来事
-
皇極天皇3年1月1日
神祇伯に任命されるが、再三固辞して就任せず、病を称して退いて
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】三島 に住む。 -
時に軽皇子は脚を患って参朝しなかった。
中臣鎌子連は以前から軽皇子と親しかった。
それで宮に詣でて宿侍しようとした。
軽皇子は中臣鎌子連の意気が高く優れて容姿に犯し難いことを深く知り、寵妃阿倍氏を使って別殿を掃き清めさせ、新しい寝床を高く敷いて細々と世話させた。敬重さは特異だった。中臣鎌子連は待遇に感激して舎人に言うには「特別な恩沢を賜ることは思ってもいなかった。天下の王となるのを阻む者はいない」と。
舎人はこの話を皇子に報告した。皇子は大変喜んだ。中臣鎌子連は人となりが忠正で、匡済の心があった。
蘇我臣入鹿が君臣・長幼の序を失い、社稷を窺い権力を奪おうとしていることに憤り、次々と王家に接触して功名を立てるべき哲主を探した。
心を中大兄に付けていたが、近付く機会が無く、その深謀を打ち明けられなかった。たまたま中大兄が法興寺の
槻 の木の下で蹴鞠をしていた仲間に加わった。
革靴が蹴り上げた鞠と一緒に脱げ落ちたので、拾って手の平に置いて跪き恭しく奉った。
中大兄も対して跪き恭しく受け取った。
ここから親交を深めて、共に胸の内を語り合って隠す所が無かった。後に、他の人が頻繁な接触を疑うことを恐れ、共に書物を持って南淵先生の所で儒教を学んだ。
往復の路上で肩を並べて密かに図った。一致しない事は無かった。中臣鎌子連が言うには「大事を謀るには、助けが有るに越したことはございません。どうか蘇我倉山田麻呂の長女を召して妃とし、婿舅の関係を築きなさいませ。然る後に説得して計画を実行するのです。成功の道にこれより近いものはございません」と。
中大兄はこれを聞いて大喜びして計画に従った。
中臣鎌子連は自ら出向いて仲立ちした。しかし長女は約束した夜に族に盗まれた。これにより倉山田臣は憂え恐れて為す術が無かった。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
少女は憂える父を怪しんで「何を憂え悔いているのですか」と尋ねた。父はその理由を話した。
少女が言うには「どうか心配しないで下さい。私を差し上げても遅くはないでしょう」と。
父は大喜びしてその女を奉った。真心を尽くして非の打ち所が無かった。
中臣鎌子連は佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田を中大兄に勧めて云々と述べた。 -
皇極天皇4年6月12日
中臣鎌子連は蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、
俳優 に教えて騙し解かせた。
入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
中大兄は衛門府 に戒めて、一斉に十二の通門を固めて往来を止めた。
衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
中大兄は子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
入鹿は驚いて立とうとした。
子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
中大兄は地に伏して言うには「鞍作は天宗を全て滅ぼして日位 を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代えることが出来ましょうか」と。
天皇は立ち上がって殿の中に入った。
この日、雨が降って水が庭に溢れた。
席障子 で鞍作の屍を覆った。古人大兄は私宅に走り入って、人に「韓人が鞍作臣を殺した。私の心は痛い」と言った。
そして寝所に入り、門を閉ざして出なかった。
中大兄は法興寺に入って城として備えた。
諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、全て皆が従い侍った。
人を使って鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。
漢直 らは族党を総べ集め、甲 を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
賊徒もまた随って散り散りに去った。 -
皇極天皇4年6月13日
蘇我臣蝦夷らは誅殺される前に天皇記・国記・珍宝を全て焼いた。
船史恵尺はすぐに取りに走って焼けた国記を中大兄に献上した。この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬ることを許した。また喪中に泣くことを許した。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
或る人が第一の謡歌 を説いて言うには「その歌に『はろはろに ことそきこゆる しまのやぶはら』と言うが、これは宮殿を島大臣の家に接して建てた。中大兄と中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を謀殺しようとした兆しである」と。
第二の謡歌を説いて言うには「その歌に『をちかたの あさののきぎし とよもさず われはねしかど ひとそとよもす』と言うが、これは上宮の王たちの人となりが素直で、かつて罪も無く入鹿に殺された。自ら報復しなくても。天が人を使って誅殺される兆しである」と。
第三の謡歌を説いて言うには「その歌に『をばやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらず いへもしらずも』と言うが、これは入鹿臣が忽ちに宮中で佐伯連子麻呂・稚犬養連網田に斬られる兆しである」と。 -
皇極天皇4年6月14日
天豊財重日足姫天皇は位を中大兄に伝えようと思い、詔して云々。
中大兄は退いて中臣鎌子連に語った。
中臣鎌子連が言うには「古人大兄は殿下の兄君です。軽皇子は殿下の舅 君です。古人大兄がおいでになる今、殿下が天皇の位をお嗣ぎになれば、人の弟として遜恭の心に背いてしまいます。しばらくは舅上をお立てになり、民の望みにお答えになれば良いではございませんか」と。
そこで中大兄は深くその言葉を誉め、密かに奏上した。軽皇子は再三固辞し、いよいよ古人大兄、またの名は古人大市皇子に譲って言うには「大兄命は天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理を以って天位におつきになるべきです」と。
古人大兄は座を退いて拱手して言うには「天皇の思し召しに従います。どうして無理して私に譲ることがありましょうか。私は出家して吉野に入りたいと思います。仏道を勤め修めて天皇の幸せをお祈りします」と。
言い終わると佩刀を解いて地面に投げ打った。また帳内 に命じて刀を解かせた。
そして法興寺の仏殿と塔の間に詣でると、髯・髪を剃って袈裟を着た。これにより軽皇子は固辞することが出来なくなり、
壇 に上って即位した。大伴長徳連は金の
靭 を帯びて壇の右に立った。犬上建部君は金の靭を帯びて壇の左に立った。百官の臣 ・連 ・国造 ・伴造 ・百八十部 は連なり重なって拝礼した。この日、豊財天皇に号を奉って皇祖母尊とする。
中大兄を皇太子とする。
阿倍内摩呂臣を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣とする。大錦冠を中臣鎌子連に授けて内臣とする。封を若干増やして云々。
【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月庚戌条】
中臣鎌子連は至忠の誠を懐き、宰臣として官司の上にあった。
その進退・廃置の計は従われ、事立つと云々。 -
白雉5年1月5日
紫冠を授かり、若干の増封をされる。
【日本書紀 巻第二十五 白雉五年正月壬子条】 -
天智天皇3年10月1日
郭務悰に物を賜る。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年十月乙亥朔条】 -
天智天皇7年1月3日
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天智天皇7年5月5日
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天智天皇7年9月12日
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天智天皇8年5月5日
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天智天皇8年(7月 ~ 9月)
家に落雷があった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年是秋条】 -
天智天皇8年10月10日
天皇は藤原内大臣の家に行幸して親しく病を見舞ったが憔悴がひどかった。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十月乙卯条】
詔して「天道が仁者を助けることに何の偽りがあろうか。善を積めば余慶がある。しるしが無いはずがない。もし望みがあれば何でも言うがよい」と。
答えて「私は愚か者です。何を申し上げることがありましょうか。ただ一つ葬儀は簡素にして頂きたいと思います。生きては軍国の務めを果せず、死しても難儀を重ねることなどできましょうか」と云々。
時の賢者はこれを聞いて歎いて「この一言は昔の哲之の善言にも比する。大樹将軍が賞を辞した話と同じには語れない」と。 -
天智天皇8年10月10日
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天智天皇8年10月16日
薨じる。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十月辛酉条】-
日本世記曰く、
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十月辛酉条 日本世記曰】
内大臣は五十歳台にして私邸で薨じた。山の南に移して殯した。
天はどうして心を寄せず、無理にでも老人を遺さなかったのか。哀しいことだ。
碑には「年五十六にして薨じた」とある。
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天智天皇8年10月19日
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