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- 名前
- 佐平余自信【日本書紀,新撰姓氏録抄】(さへいよじしん)
- 佐平自進【日本書紀】(さへいじしん)
- 逹率余自進【日本書紀】(たつそつよじしん, だちそちよじしん)達率余自進
- キーワード
- 後裔は右京
高野造 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は右京
- 生年月日
- ( ~ 660年10月14日)
- 没年月日
- (663年10月31日 ~ )
- 出来事
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660年10月14日
百済が達率「闕名」とある。・沙弥覚従らを遣わして奏上して「或る本に云わく、逃げ来て難を告げる」とある。「今年の七月に新羅が力に恃んで勢いを作り、隣国と親しまずに唐人を引き合わせて百済を転覆しようとしました。君臣は皆俘虜となり、残る者はほとんどおりません」と。
西部恩率鬼室福信は激しく発憤して
【日本書紀 巻第二十六 斉明天皇六年九月癸卯条】任射岐 「或る本に云わく、北の任叙利(にじょり)の山という」とある。の山に拠った。
達率余自進は中部の久麻怒利 の城「或る本に云わく、都都岐留(つつきる)の山という」とある。に拠った。
それぞれ一所に陣取って離散した兵を誘い集めた。武器は前の戦いで尽きたので棓 棒。を使って戦った。新羅の軍は破れ、百済はその武器を奪った。
百済兵は戻って鋭く戦った。唐は敢えて入らなかった。
福信らは遂に同国人を集めて王城を守りきった。
国人は尊んで佐平福信・佐平自進と呼び、「福信は神武の権 を起し、既に亡んだ国を興した」と言った。 -
663年10月30日
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663年10月31日
船で日本に向かう。
【日本書紀 巻第二十七 天智天皇二年九月甲戌明日条】
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